2016.03.17
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蒋琬の死の翌年から、費禕の死の前年まで(247-252)。

呉はこのころ二宮の変。

247年(正始8-曹芳/延煕10-劉禅/赤烏10-孫権)

(後主伝)

十年,涼州胡王白虎文、治無戴等率衆降,衛将軍姜維迎逆安撫,居之於繁縣。
是歲,汶山平康夷反,維往討,破平之。

(姜維伝)

十年(247),遷衛将軍,與大将軍費禕共錄尚書事。
是歲,漢山平康夷反,維率衆討定之。
又出隴西、南安、金城界,與魏大将軍郭淮、夏侯覇等戦於洮西。胡王治無戴等舉部落降,維将還安處之。

十年(247)、衛将軍に昇進し、大将軍の費禕とともに禄尚書事となった。
この年(247)、汶山郡平康県の蛮族が反乱を起し、姜維は軍勢を率いてこれを討ち平定した。また隴西・南安・金城の諸軍の地に出陣し、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮水の西で合戦した。蛮王の治無戴らが部族をあげて降伏したので、姜維は彼らを連れて帰還し〔成都の近くの繁県に〕安住させた。

(郭淮伝)

八年(247),隴西、南安、金城、西平諸羌餓何、燒戈、伐同、蛾遮塞等相結叛亂,攻圍城邑,南招蜀兵,涼州名胡治無戴復叛應之。討蜀護軍夏侯覇督諸軍屯為翅。淮軍始到狄道,議者僉謂宜先討定枹罕,內平惡羌,外折賊謀。淮策維必來攻覇,遂入渢中,轉南迎覇。維果攻為翅,會淮軍適至,維遁退。進討叛羌,斬餓何、燒戈,降服者萬餘落。

八年(247)、隴西、南安、金城、西平の諸羌族餓何(がか)・焼戈(しょうか)・伐同(ばつどう)・蛾遮塞(がしゃさい)らが結託して反乱を起し、城邑を攻撃包囲し、南方から蜀の兵を招いた。涼州の蛮族の名家治無戴(ちぶたい)もまた反乱を起こしてこれに呼応した。
討蜀護軍の夏侯覇は諸軍を指揮して為翅に駐屯した。郭淮の軍が最初狄道に到着したとき、論者は皆先に枹罕を討って平定し、内は暴悪な羌族を平らげ、外は賊の計画をうちくだくべきだと主張した。郭淮は、姜維が必ずおしよせて夏侯覇を攻撃すると判断し、そのまま渢中(ふうちゅう)に入り、南に転じて夏侯覇を迎えた。姜維ははたして為翅を攻撃したが、ちょうど郭淮の軍が到着したので、姜維は逃走した。進撃して反乱の羌族を討伐し、餓何(がか)・焼戈(しょうか)を斬った。降伏する者は一万余の部落にのぼった。

(集解)
渢中(ふうちゅう)→「謝鍾英曰渢中當在狄道南為翅北」

(呂乂伝)

徙為漢中太守、兼領督農、供繼軍糧。亮卒、累遷広漢、蜀郡太守。蜀郡一都之会、戸口衆多、
又亮卒(234)之後、士伍亡命、更相重冒、姦巧非一。乂到官、為之防禁、開喻勧導、数年之中、漏脫自出者万余口。
後入為尚書、代董允為尚書令、衆事無留、門無停賓。乂歴職内外、治身倹約、謙靖少言、為政簡而不煩、号為清能;然持法刻深、好用文俗吏、故居大官、名声損於郡県。延熙十四年卒(251)。

248年(正始9-曹芳/延煕11-劉禅/赤烏11-孫権)

姜維と郭淮の戦い。姜維伝には特に記述なし。
費禕、漢中へ(-521)。

(後主伝)

十一年夏五月,大将軍費禕出屯漢中。秋,涪陵屬國民夷反,車騎将軍鄧芝往討,皆破平之。

(郭淮伝)

九年(248),遮塞等屯河関、白土故城,據河拒軍。淮見形上流,密於下渡兵據白土城,撃,大破之。治無戴圍武威,家屬留在西海。淮進軍趨西海,欲掩取其累重,會無戴折還,與戦於龍夷之北,破走之。
令居惡虜在石頭山之西,當大道止,斷絕王使。淮還過討,大破之。
姜維出石營,從強川,乃西迎治無戴,留陰平太守廖化於成重山築城,斂破羌保質。
淮欲分兵取之。諸将以維衆西接強胡,化以據險,分軍兩持,兵勢轉弱,進不制維,退不拔化,非計也,不如合而俱西,及胡、蜀未接,絕其內外,此伐交之兵也。淮曰:「今往取化,出賊不意,維必狼顧。比維自致,足以定化,且使維疲於奔命。兵不遠西,而胡交自離,此一舉而兩全之策也。」
乃別遣夏侯覇等追維於沓中,淮自率諸軍就攻化等。維果馳還救化,皆如淮計。

九年(248)、蛾遮塞らは河関・白土の古城に駐屯し、河を根拠として抵抗した。郭淮は上流地域で行動すると見せかけておき、ひそかに下流から兵を渡し白土城を占拠し、攻撃して大いにこれをうち破った。治無戴は武威を包囲したが、その家族は西海に留まっていた。郭淮は軍を進めて西海に赴き、襲撃してその妻子を奪取せんとした。たまたま治無戴が敗れて帰途についたので、彼と龍夷の北で戦い、敗走させた。
令居の暴悪な蛮人が石頭山の西に居を構え、街道に出て邪魔をし、王使を絶っていた。郭淮は帰路立ちよって討伐し、これを大いにうち破った。
姜維が石営に出陣し、彊川を通り、西方に向って治無戴を出迎え、陰平の太守廖化を成重山に留めて城を築かせ、破れた羌族から確保していた人質を収容した。
郭淮は兵を分けてこれを奪取せんとした。諸将は、姜維の軍勢は西方の強力な蛮族と接しており、廖化が要害を占拠している、〔わが方は〕軍を分けて両方に対処すれば兵の勢力を弱化させ、進んでは姜維を制御しえず、退いては廖化を陥落しえず、計画として成り立たない、兵力を結集して西方に向い、蛮族と蜀がまだ連絡しないうちに、その内と外を遮断するほうがよい、これこそ連合している敵を討伐するいくさであると主張した。
郭淮はいった、「今、出かけていって廖化を陥とし、賊の不意をつけば、姜維は必ず狼狽する。姜維が自分で駆けつけるころには、廖化を平定できるであろう。そのうえ姜維をして奔命に疲れさせる結果となる。兵を遠くまで西征させずとも、蛮族との連合は自然と離れる。これこそ一挙両全の策である」
そこで別に夏侯覇らを派遣して、沓中に姜維を追わせ、郭淮は自身で諸軍をひきいて廖化のもとへ行き攻撃した。姜維ははたして馳せ帰って廖化を救い、すべて郭淮の計算どおりとなった。

(費禕伝)

十一年,出住漢中,自琬及禕,雖自身在外,慶賞刑威,皆遙先咨斷然,後乃行。其推任如此。

249年(嘉平元-曹芳/延煕12-劉禅/赤烏12-孫権)

魏では正始の変が起こった年。曹爽が司馬懿にクーデターで廃される。
魏の夏侯覇がこれに関連して、蜀に亡命。

(後主伝)

十二年春正月,魏誅大将軍曹爽等,右将軍夏侯覇來降。
夏四月,大赦。
秋,衛将軍姜維出攻雍州,不克而還。将軍句安、李韶降魏。

(斉王紀)

嘉平元年(249)春正月甲午,車駕謁高平陵。太傅司馬宣王奏免大将軍曹爽、爽弟中領軍羲、武衛将軍訓、散騎常侍彥官,以侯就第。戊戌,有司奏收黄門張當付廷尉,考實其辭,爽與謀不軌。又尚書丁謐、鄧颺、何晏、司隸校尉畢軌、荊州刺史李勝、大司農桓范皆與爽通姦謀,夷三族。……丁未,以太傅司馬宣王為丞相,固讓乃止。

(姜維伝)

十二年,假維節復出西平,不克而還。
維自以練西方風俗,兼負其才武,欲誘諸羌、胡以為羽翼,謂自隴以西可斷而有也。每欲興軍大舉,費禕常裁製不從,與其兵不過萬人。

十二年(249)、姜維は節を与えられ、ふたたび西平に出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。姜維は西方の風俗に習熟しているという自信のうえに、軍事の才があると自負していたから、各種の羌族を誘い入れ友軍にしようとの望みを抱き、そうなれば隴より以西の地は魏から切断して支配できると考えた。〔姜維が〕大軍を動かそうと望むたびに、費禕はつねに制約を加えて思いどおりにさせず、わずか一万の兵を与えるだけだった。

(郭淮伝)
嘉平元年(249),遷征西将軍,都督雍、涼諸軍事。是歲,與雍州刺史陳泰協策,降蜀牙門将句安等於翅上。

嘉平元年(249)、征西将軍・都督雍涼諸軍事に昇進した。
この年、雍州刺史の陳泰と策略を練り、蜀の牙門将句安らを翅の側で降伏させた。

(陳泰伝)

嘉平初,代郭淮為雍州刺史,加奮威将軍。

(元年249)
嘉平の初め、郭淮に代わって雍州刺史となり、奮威将軍の称号を加えられた。

(鄧艾伝)

出參征西軍事,遷南安太守。嘉平元年,與征西将軍郭淮拒蜀偏将軍姜維。維退,淮因西撃羌。
艾曰:「賊去未遠,或能復還,宜分諸軍以備不虞。」於是留艾屯白水北。
三日,維遣廖化自白水南向艾結營。
艾謂諸将曰:「維今卒還,吾軍人少,法當來渡而不作橋。此維使化持吾,令不得還。維必自東襲取洮城。」
洮城在水北,去艾屯六十里。艾即夜潛軍徑到,維果來渡,而艾先至據城,得以不敗。賜爵關内侯,加討寇将軍,后遷城陽太守。

地方へ出て参征西軍事となり、南安太守に昇進した。
嘉平元年(249)、征西将軍郭淮とともに蜀の偏将軍姜維の侵攻を防いだ。姜維が退却すると、郭淮はそれにつけこんで西方の羌族攻撃に向かった。鄧艾は、「賊軍はまだ遠くまで行っておりませんから、、引き返してくるかもしれません。諸軍を分けて思いがけぬ事態に備えるのが適当かと存じます」と述べた。その結果、鄧艾を留めて白水の北に駐屯させた。三日後、姜維は廖化を派遣し、白水の南から鄧艾に向い陣を構築させた。鄧艾は諸将に対していった、「姜維が今、突如引き換えしてきたのに、わが軍は少数だ。戦法からいっても〔敵は〕当然渡河してくるべきなのに橋を造ろうとしない。これは姜維が廖化をわが軍と対峙させ、帰れなくさせておき、姜維自身は東へ向い洮(とう)城を襲い取るつもりにちがいない。」洮城は白水の北にあり、鄧艾の陣営から六十里離れていた。鄧艾はその夜、ひそかに軍を動かし、〔洮城へ〕直行した。姜維は予想どおり渡河しておし寄せたが、鄧艾が先に着いて城にたてこもったため、〔魏は〕敗北せずにすんだ。〔その功績によって鄧艾は〕関内侯の爵位を賜与され、討寇将軍の号を加えられ、のちに城陽太守へ転任した。

250年(嘉平2-曹芳/延煕13-劉禅/赤烏13-孫権)

後主伝には姜維のことが書いてあるが、姜維伝では特に触れられず。

(後主伝)

十三年,姜維復出西平,不克而還。

(斉王紀)

二年夏五月,以征西将軍郭淮為車騎将軍。……
(十二月)乙未,征南将軍王昶渡江,掩攻呉,破之。

(呉主伝)

十三年……廢太子和,處故鄣。魯王覇賜死。
冬十月,魏将文欽偽叛以誘朱異,権遣呂據就異以迎欽。異等待重,欽不敢進。
十一月,立子亮為太子。……
十二月,魏大将軍王昶圍南郡,荊州刺史王基攻西陵,遣将軍戴烈、陸凱往拒之,皆引還

251年(嘉平3-曹芳/延煕14-劉禅/赤烏14年、太元元-孫権)

王凌の乱。司馬懿死去。
孫権、病に伏せる。
費禕、漢中(248-)から成都に戻る。
鄧芝死去。呂乂死去。

(後主伝)

十四年夏,大将軍費禕還成都。冬,復北駐漢壽。

(斉王紀)

三年春正月,荊州刺史王基、新城太守(陳泰)〔州泰〕攻呉,破之,降者數千口。二月,置南郡之夷陵縣以居降附。
丙午,聞太尉王凌謀廢帝,立楚王彪,太傅司馬宣王東征凌。五月甲寅,凌自殺。六月,彪賜死。……
戊寅,太傅司馬宣王薨,以衛将軍司馬景王為撫軍大将軍,錄尚書事。

(呉主伝)

太元元年……冬十一月,大赦。権祭南郊還,寢疾。十二月,驛征大将軍恪,拜為太子太傅。……

(費禕伝)

後十四年夏,還成都,成都望氣者雲都邑無宰相位,故冬復比屯漢壽。

(呂乂伝)

延熙十四年卒。

(鄧芝伝)

十四年卒

252年(嘉平4-曹芳/延煕15-劉禅/神鳳元、建興元-孫権、孫亮)

孫権死去。
東興の戦い。

(後主伝)

十五年,呉王孫権薨。

(斉王紀)

四年春正月癸卯,以撫軍大将軍司馬景王為大将軍。……夏五月,魚二,見於武庫屋上。
冬十一月,詔征南大将軍王昶、征東将軍胡遵、鎮南将軍毌丘儉等征呉。十二月,呉大将軍諸葛恪拒戦,大破衆軍於東関。不利而還。

(呉主伝)

二年……夏四月,権薨,時年七十一,謚曰大皇帝。

(孫亮伝)

明年四月,権薨,太子即尊號。……
(建興元年)冬十月,太傅恪率軍遏巢湖,城東興。使将軍全端守西城,都尉留略守東城。十二月朔丙申,大風雷電,魏使将軍諸葛誕、胡遵等步騎七萬圍東興。将軍王昶攻南郡,毌丘儉向武昌。甲寅,恪以大兵赴敵。戊午,兵及東興,交戦,大破魏軍,殺将軍韓綜、桓嘉等。

(費禕伝)

延熙十五年,命禕開府。

備考

作業中。
呂乂追加中。
黄皓?

http://www31.atwiki.jp/medamayaki/pages/24.html#id_4c2aa21f
より(一部追加)

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北伐関連年表(費禕時代/247-252)
北伐関連年表(姜維時代1/253-256)
北伐関連年表(姜維時代2/257-262)

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