2017.04.29
3076文字 / 読了時間:3.8分程度
三国志

少し前にツイートしたことだけれど、こっちにも収録しておこうかなとか。

演義の曹操に占いをする管輅?

演義69回に管輅が登場して曹操相手に占いをして、魯粛の死その他を予言する。

魯粛の死は217年で、占ってすぐ魯粛の死が伝わっているので、管輅が曹操に占ったのは217年だと思う。

この前Twitterのときに一番気になったのは、演義管輅が曹操相手に占いをしていることもだけれど、その管輅は史実管輅と同様に安平太守王基に占ったエピソードがあることだったりとか。

で、この演義管輅は史実管輅とうまく辻褄をあわせることはできないかなあと思ったので、もう少し整理してみることに。

管輅の生年?

史実管輅の生年は、管輅伝によるとこんな。

(管輅伝)

正元二年(255)、弟辰謂輅曰、「大将軍待君意厚、冀当富貴乎?」
輅長嘆曰、「吾自知有分直耳、然天与我才明、不与我年寿、恐四十七八間、不見女嫁兒娶婦也。若得免此、欲作洛陽令、可使路不拾遣、枹鼓不鳴。但恐至太山治鬼、不得治生人、如何!」
辰問其故、輅曰、「吾額上無生骨、眼中無守精、鼻無樑柱、腳無天根、背無三甲、腹無三壬、此皆不寿之驗。又吾本命在寅、加月食夜生。天有常数、不可得諱、但人不知耳。吾前後相当死者過百人、略無錯也。」
是歳八月、為少府丞。
明年(256)二月卒、年四十八。

とりあえずこれを採用することにすると、管輅は256年2月に死んでいて、その時数えで48歳。

つまり209年生まれ。

てことで、217年には、少なくとも誕生しているし生きているし喋れるくらいの年齢にはなることに。

てことで、演義管輅のエピソードもぎりぎり辻褄があわないことはないような。

ていうか、この占いをしている管輅が9歳(数え)なら、それはそれで新鮮な解釈になるから想像するの楽しいし?

管輅伝の注にある管輅別伝によると、ちょうど年齢のことの記述もある。早熟だったぽい。

(管輅伝注)

輅別伝曰、
輅年八九歳、便喜仰視星辰、得人輒問其名、夜不肯寐。
父母常禁之、猶不可止。
自言「我年雖小、然眼中喜視天文。」

王基安平太守?

管輅が占う王基は、正史(管輅伝)と演義どちらも安平太守。

(管輅伝)

輅往見安平太守王基、基令作卦、輅曰、……

(演義69回)

安平太守王基,知輅神卜,延輅至家。……

演義の場合は当然217年なので、太守だとしたら後漢の太守ということに。

で、王基伝の方を確認してみる。

(王基伝)

王基字伯輿、東萊曲城人也。少孤、与叔父翁居。翁撫養甚篤、基亦以孝称。年十七、郡召為吏、非其好也、遂去、入琅邪界遊学。

黄初中、察孝廉、除郎中。是時青土初定、刺史王凌特表請基為別駕、后召為秘書郎、凌復請還。頃之、司徒王朗辟基、凌不遣。朗書劾州曰、「凡家臣之良、則升於公輔、公臣之良、則入於王職、是故古者侯伯有貢士之礼。今州取宿衛之臣、留秘閣之吏、所希聞也。」凌猶不遣。凌流称青土、蓋亦由基協和之輔也。大将軍司馬宣王辟基、未至、擢為中書侍郎。

明帝盛脩宮室、百姓労瘁。基上疏曰、「臣聞古人以水喻民、曰『水所以載舟、亦所以覆舟』。故在民上者、不可以不戒懼。夫民逸則慮易、苦則思難、是以先王居之以約倹、俾不至於生患。昔顏淵雲東野子之御、馬力尽矣而求進不已、是以知其将敗。今事役労苦、男女離曠、原陛下深察東野之弊、留意舟水之喻、息奔駟於未尽、節力役於未困。昔漢有天下、至孝文時唯有同姓諸侯、而賈誼憂之曰、『置火積薪之下而寝其上、因謂之安也。』今寇賊未殄、猛将擁兵、檢之則無以応敵、久之則難以遺后、当盛明之世、不務以除患、若子孫不競、社稷之憂也。使賈誼復起、必深切於曩時矣。」
散騎常侍王粛著諸経伝解及論定朝儀、改易鄭玄舊説、而基據持玄義、常与抗衡。

遷安平太守、公事去官。
大将軍曹爽請為従事中郎、出為安豐太守。……

で、王基が何年から安平太守だったかはよくわからないけれど(てか調べてないのでなんとも)。

とりあえず明帝(曹叡)以降の時代なのはほぼ確かなんじゃないかな。素直に読む限り。

曹丕が死んだのが226年だから最低でもそれ以降。

ただ、といってもここから演義管輅が安平太守王基に占ったということが否定されるというわけでもないような。

同姓同名の王基が安平太守だったとか(むしろ後漢に安平太守があったのかとかその辺は怪しいかもしれないけど今のところは気力ないからいいや)なら普通に問題ないし。

ただそれだと個人的には面白みがないことは確か。

王基は、好都合なことに生年はわかっていない(大抵の場合生年わかってほしいけれどたまにはメリットもあるかも)。
だから、後漢の時にも安平太守やっていたけれど何かの都合で王基伝ではその事実は隠されていた、とかいう解釈をとることもできなくはない。

王基は生年は不明っぽいけれど没年はわかる。261年。

その辺も見てみる。

(王基伝)

甘露四年(259)、転為征南将軍、都督荊州諸軍事。
常道郷公即尊位(260)、增邑千戸、並前五千七百戸。前後封子二人亭侯、関内侯。
……
景元二年(261)、……
是歳(261)基薨、追贈司空、諡曰景侯。

なので、王基の没年が80歳程度だとしてもまあありえないとはいえない。

てことで、没年が70歳の場合192年生まれ。
年齢的には数え26歳てことで、217年に一応過去形(前日程度も含む)で安平太守をやっていることも一応は可能なような。

没年80と考えれば182年生まれだから年齢的には217年時点で36歳なので、更に年齢的には何の問題もなさそう。

結論?

基本的には創作用に考えていることなので、これが正しいはずとかいうことは全然ない感じ。

てことで。

2回安平太守になった王基、9歳で曹操に占いをした管輅は一応成立しそう。

2回安平太守になった王基は色々ややこしい設定にできそうだし(王基伝で隠されている過去になるわけだし)、9歳で曹操相手に占いをする管輅もそれはそれで可能性が感じられるような。

あと、演義の管輅はあっさりしているけれど正史の管輅はそうでもないので、その辺の心境の変化とかも色々考えられそうな。

とりあえずおわり。





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