257年から262年まで。
256年に段谷の戦いで大敗した後の時期。
258年から262年の最後の北伐(侯和の戦い)までの間、姜維は北伐をせず成都にとどまっている。
258年以降は黄皓の専政が始まった年とされる。
この後、263年に魏が蜀を滅ぼす。
魏では260年に曹髦が殺されている。
257年(甘露2-曹髦/延煕20-劉禅/太平2-孫亮)
(後主伝)
二十年,聞魏大将軍諸葛誕據壽春以叛,姜維復率衆出駱谷,至芒水。
(高貴郷公紀)
二年(257)……(四月)甲子,以征東大将軍諸葛誕為司空。……
乙亥,諸葛誕不就徵,發兵反,殺揚州刺史楽綝。……甲子,詔曰:「今車駕駐項,大将軍恭行天罰,前臨淮浦。昔相國大司馬征討,皆與尚書俱行,今宜如舊。」乃令散騎常侍裴秀、給事黄門侍郎鍾會咸與大将軍俱行。……
冬十二月,呉大将全端、全懌等率衆降。
(孫亮伝)
朱異自虎林率衆襲夏口,夏口督孫壹奔魏。
秋七月,綝率衆救壽春,次於鑊裡。朱異至自夏口,綝使異為前部督,與丁奉等将介士五萬解圍。
八月,會稽南部反,殺都尉。……
朱異以軍士乏食引還,綝大怒,九月朔己巳,殺異於鑊裡。
辛未,綝自鑊裡還建業。甲申,大赦。
十一月,全緒子禕、儀以其母奔魏。十二月,全端、懌等自壽春城詣司馬文王。
(姜維伝)
二十年,魏徵東大将軍諸葛誕反於淮南,分関中兵東下。
維欲乘虛向秦川,復率數萬人出駱谷,逕至沈嶺。時長城積穀甚多而守兵乃少,聞維方到衆皆惶懼。魏大将軍司馬望拒之,鄧艾亦自隴右,皆軍於長城。維前住芒水,皆倚山為營。望、艾傍渭堅圍,維數下挑戦,望、艾不應。
(鄧艾伝)
二年,拒姜維於長城,維退還。遷征西将軍,前後增邑凡六千六百戶。
(楊戯伝)
延熙二十年(257),隨大将軍姜維出軍至芒水。戲素心不服維,酒後言笑,每有傲弄之辭。維外寬內忌,意不能堪,軍還,有司承旨奏戲,免為庶人。後景耀四年(261)卒。
(諸葛瞻伝)
自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外(253-258)、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯、然建特不与皓好往来。
※253-258
(朱績伝)
績字公緒、以父任為郎、後拜建忠都尉。叔父才卒、績領其兵、隨太常潘浚討五溪、以膽力称。遷偏将軍営下督、領盜賊事、持法不傾。魯王覇注意交績、嘗至其廨、就之坐、欲与結好、績下地住立、辞而不当。然卒。績襲業、拜平魏将軍、楽郷督。
明年、魏徵南将軍王昶率衆攻江陵城、不克而退。績与奮威将軍諸葛融書曰、”昶遠来疲睏、馬無所食、力屈而走、此天助也。今追之力少、可引兵相繼、吾欲破之於前、足下乗之於後、豈一人之功哉、宜同断金之義。”融答許績。績便引兵及昶於紀南、紀南去城三十里、績先戦勝而融不進、績後失利。権深嘉績、盛責怒融、融兄大将軍恪貴重、故融得不廃。初績与恪、融不平、及此事變、為隙益甚。建興元年、遷鎮東将軍。
二年(253)春、恪向新城、要績並力、而留置半州、使融兼其任。冬、恪、融被害、績復還楽郷、仮節。太平二年(257)、拜驃騎将軍。
孫綝秉政(256-258)、大臣疑貳、績恐呉必擾乱、而中国乗釁、乃密書結蜀、使為並兼之慮。蜀遣右将軍閻宇将兵五千、增白帝守、以須績之後命。
永安初(258-264)、遷上大将軍、都護督、自巴丘上迄西陵、元興元年(264)、就拜左大司馬。
初、然為治行喪竟、乞復本姓、権不許、績以五鳳中(254-256)表還為施氏、建衡二年(270)卒。太平二年(257)には、驃騎将軍を授けられた。
孫綝が政治を牛耳るようになると(256-258)、重臣たちのうちに動揺がおこった。朱績は、呉の国は必ず混乱し、中原の勢力がその乱れに乗じるであろうと心配をし、ひそかに書簡を送って蜀と連絡を取り、呉が併呑されてしまわぬよう蜀が牽制をしてくれるように依頼した。蜀は、右将軍の閻宇を遣り、兵士五千を指揮して白帝の守備を増強し、朱績からの指示を待たせた。
……
朱然は、朱治の喪があけたとき、もとの姓にもどりたいと願い出たことがあったが、孫権はそれを許さなかった。朱績が、五鳳年間(254-256)に上表してはじめて、施氏にもどることができた。
258年(甘露3-曹髦/景耀元-劉禅/永安元-孫亮、孫休)
姜維成都へ帰還。再び大将軍に。
陳祗死去。
この年から黄皓の専政が始まる。
9月、呉で孫亮が廃される。孫休が即位。
12月呉の丞相、大将軍孫綝が殺される。
(後主伝)
景耀元年(258)、姜維還成都。史官言景星見、於是大赦、改年。
宦人黄皓始專政。
呉大将軍孫琳廃其主亮、立琅邪王休。景耀元年(258)、姜維が成都に帰還した。史官が景星(めでたい星)があらわれたと言上し、そのため大赦が行われ、年号が改められた。
宦官の黄皓がはじめて政治権力を握った。
呉の大将軍孫綝がその主君孫亮を廃して、瑯邪王の孫休を立てた。
(高貴郷公紀)
三年春二月,大将軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕。……夏五月,命大将軍司馬文王為相國,封晋公,食邑八郡,加之九錫,文王前後九讓乃止
(孫亮伝)
三年春正月,諸葛誕殺文欽。三月,司馬文王克壽春,誕左右戦死,将吏已下皆降。
……亮以綝專恣與太常全尚,将軍劉丞謀誅綝。
九月戊午,綝以兵取尚,遣弟恩攻殺丞於蒼龍門外。召大臣會宮門,黜亮為會稽王,時年十六。
(孫休伝)
…即日,御正殿,大赦,改元。
…永安元年……頃之,休聞綝逆謀,陰與張布圖計。十二月戊辰臘,百僚朝賀,公卿升殿,詔武士縛綝,即日伏誅。
(姜維伝)
景耀元年(258),維聞誕破敗,乃還成都。復拜大将軍。
(陳祗伝)
大将軍姜維雖班在祗上,常率衆在外,希親朝政。祗上承主指,下接閹豎,深見信愛,権重於維。景耀元年(258)卒,
(董厥伝)
亮卒後、稍遷至尚書僕射、代陳祗為尚書令、遷大将軍平台事、而義陽樊建代焉。
259年(甘露4-曹髦/景耀2-劉禅/永安2-孫休)
(後主伝)
(景耀)二年(259)夏六月、立子諶為北地王、恂為新興王、虔為上党王。
(高貴郷公紀)
四年春正月,黄龍二,見寧陵縣界井中。
漢晋春秋曰:是時龍仍見,咸以為吉祥。帝曰:「龍者,君德也。上不在天,下不在田,而數屈於井,非嘉兆也。」仍作潛龍之詩以自諷,司馬文王見而惡之。
夏六月,司空王昶薨。秋七月,陳留王峻薨。冬十月丙寅,分新城郡,復置上庸郡。十一月癸卯,車騎将軍孫壹為婢所殺。
(姜維伝)
初,先主留魏延鎮漢中,皆實兵諸圍以御外敵。敵若來攻,使不得人。及興勢之役,王平捍拒曹爽,皆承此制。
維建議,以為錯守諸圍,雖合《周易》「重門」之義,然適可禦敵,不獲大利。不若使聞敵至,諸圍皆斂兵聚谷,退就漢、楽二城。使敵不得入平,臣重関鎮守以捍之。有事之日,令遊軍並進以伺其虛。敵攻関不克,野無散谷,千里縣糧,自然疲乏。引退之日,然後諸城並出,與遊軍並力搏之,此殄敵之術也。於是令督漢中胡濟卻住漢壽,監軍王含守楽城,護軍蔣斌守漢城,又於西安、建威、武衛、石門、武城、建昌、臨遠皆立圍守。※この頃(258-262)
260年(甘露4、景元元-曹髦、曹奐/景耀3-劉禅/永安3-孫休)
5月、魏の皇帝曹髦殺される。6月、曹奐即位。
(後主伝)
(景耀)三年(260)秋九月、追諡故将軍関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠。
三年(260)秋九月、もとの将軍の関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に諡号を追贈した。
(高貴郷公紀)
五年春正月朔,日有蝕之。夏四月,詔有司率遵前命,復進大将軍司馬文王位為相國,封晋公,加九錫。
五月己丑,高貴郷公卒,年二十。……
(陳留王紀)
……六月甲寅,入於洛陽,見皇太后,是日即皇帝位於太極前殿,大赦,改年,賜民爵及谷帛各有差。……
景元元年(260)夏六月丙辰,進大将軍司馬文王位為相國,封晋公,增封二郡,並前滿十,加九錫之禮,一如前(奏);諸群從子弟,其未有侯者皆封亭侯,賜錢千萬,帛萬匹,文王固讓乃止。
261年(景元2-曹奐/景耀4-劉禅/永安4-孫休)
(後主伝)
(景耀)四年(261)春三月、追諡故将軍趙雲。冬十月、大赦。
四年(261)春三月、もとの将軍趙雲に諡号を追贈した。冬十月、大赦が行われた。
(陳留王紀)
……(八月)甲寅,覆命大将軍進爵晋公,加位相國,備禮崇錫,一如前詔;又固辭乃止。
(趙雲伝注)
雲別傳……大将軍姜維等議,以為雲昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平,應諡雲曰順平侯。
262年(景元3-曹奐/景耀5-劉禅/永安5-孫休)
10月、姜維、北伐。侯和で鄧艾に敗れる。
黄皓をおそれて成都に戻らず沓中にとどまる。
(後主伝)
(景耀)五年(262)春正月、西河王琮卒。是歳、姜維復率衆出侯和、為鄧艾所破、還住沓中。
五年(262)春正月、西河王劉琮がなくなった。この年、姜維がまた軍勢を率いて、侯和に出撃し、鄧艾にうち破られて、帰還し沓中に留まった。
(陳留王紀)
冬十月,蜀大将姜維寇洮陽,鎮西将軍鄧艾拒之,破維於侯和,維遁走。
(孫休伝)
休以丞相興及左将軍張布有舊恩,委之以事,布典宮省,興関軍國。休銳意於典籍,欲畢覽百家之言,尤好射雉。
(姜維伝)
五年,維率衆出漢。侯和為鄧艾所破,還住沓中。
維本羈旅托國,累年攻戦,功績不立。而宦官黄皓等弄権於內,右大将軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇。維亦疑之,故自危懼,不復還成都。
(鄧艾伝)
景元三年,又破維於侯和,維卻保沓中。
(廖化伝注)
漢晋春秋曰:景耀五年(262),姜維率衆出狄道,廖化曰:「『兵不戢,必自焚』,伯約之謂也。智不出敵,而力少於寇,用之無厭,何以能立?詩云『不自我先,不自我後』,今日之事也。」
北伐関連年表一覧
北伐関連年表(諸葛亮時代/223-234)
北伐関連年表(蒋琬時代/234-246)
北伐関連年表(費禕時代/247-252)
北伐関連年表(姜維時代1/253-256)
北伐関連年表(姜維時代2/257-262)
関連
備考
とりあえず移転のみは完了。
蜀討伐が残っている。
http://www31.atwiki.jp/medamayaki/pages/24.html#id_5394afb3