2016.03.12
13782文字 / 読了時間:17.2分程度

費禕の死から、段谷の戦いまで(253-256)。

253年(嘉平5-曹芳/延煕16-劉禅/建興2-孫亮)

1月に蜀の大将軍費禕が暗殺される。
その後、4月に姜維(衛将軍)北伐開始。
10月、呉では諸葛恪(大将軍)が、孫峻に殺される。

(後主伝)

十六年春正月,大将軍費禕為魏降人郭循所殺於漢壽。
夏四月,衛将軍姜維復率衆圍南安,不克而還。

(斉王紀)

五月(253),呉太傅諸葛恪圍合肥新城,詔太尉司馬孚拒之。

(注)漢晋春秋曰:是時姜維亦出圍狄道。司馬景王問虞松曰:「今東西有事,二方皆急,而諸将意沮,若之何?」松曰:
「……恪悉其鋭衆,足以肆暴,而坐守新城,欲以致一戦耳。若攻城不拔,請戦不得,師老衆疲,勢将自走,諸将之不徑進,乃公之利也。
姜維有重兵而縣軍應恪,投食我麥,非深根之寇也。且謂我並力於東,西方必虚,是以徑進。今若使關中諸軍倍道急赴,出其不意,殆将走矣。」景王曰:「善!」
乃使郭淮、陳泰悉關中之衆,解狄道之圍;敕毌丘儉等案兵自守,以新城委呉。
姜維聞淮進兵,軍食少,乃退屯隴西界。

八月(253),詔曰:「故中郎西平郭脩,砥節厲行,秉心不回。乃者蜀将姜維寇鈔脩郡,為所執略。往歲偽大将軍費禕驅率群衆,陰圖闚,道經漢壽,請會衆賓,脩於廣坐之中手刃撃禕,勇過聶政,功逾介子,可謂殺身成仁,釋生取義者矣。……」

(注)
  魏氏春秋曰:脩字孝先,素有業行,著名西州。姜維劫之,脩不為屈。劉禅以為左将軍,脩欲刺禅而不得親近,毎因慶賀,且拜且前,為禅左右所遏,事輒不克,故殺禕焉。

郭脩は、字を孝先といい、平素より品行すぐれ、西州で評判をたてられた。姜維は彼を脅迫したが、郭脩は屈服しなかった。劉禅が彼を左将軍に任命した。郭脩は劉禅を刺殺しようと思ったが側へ近づく機会がなく、いつも慶賀のさいには、拝礼しつつ前方へ進みでて、側近の者にとどめられ、事は成就しなかった。そのために費禕を刺殺したのである。

  臣松之以為古之捨生取義者、必有理存焉、或感恩懐徳、投命無悔、或利害有機、奮発以応会、詔所称聶政、介子是也。事非斯類、則陷乎妄作矣。魏之与蜀、雖為敵国、非有趙襄滅智之仇、燕丹危亡之急;且劉禪凡下之主、費禕中才之相、二人存亡、固無関於興喪。郭脩在魏、西州之男子耳、始獲於蜀、既不能抗節不辱、於魏又無食祿之責、不為時主所使、而無故規規然糜身於非所、義無所加、功無所立、可謂「折柳樊圃」、其狂也且、此之謂也。

……そのうえ、劉禅は凡庸暗愚な君主であり、費禕は中どころの才能しかない宰相であって、この二人が生きようが死のうが、魏王朝の興亡にはまったく関係がない。郭脩は魏国において
は、ただの西州の男児であるにすぎず、最初蜀に捕らえられたときに、節操を守って屈辱を拒否することができなかったうえに、魏に対しても俸禄を賜っていることによる責任はなく、時の君主に用いられていたわけでもなかった。しかも、理由もなしにもっともらしい態度でとんでもないところで無駄死したのだから、なんの信義も認められず、なんの功績を樹立したともいえず、まったくもろい柳をもって圃(はたけ)の樊(かさね)にする(見当はずれのむち)というべきであり、まったくのむちゃというのは、こういうことをいうのである。

(孫亮伝)

二年……庚午,王昶等皆退。二月,軍還自東興,大行封賞。
三月,恪率軍伐魏。夏四月,圍新城,大疫,兵卒死者大半。秋八月,恪引軍還。
冬十月,大饗。武衛将軍孫峻伏兵殺恪於殿堂。大赦,以峻為丞相,封富春侯。

(姜維伝)

十六年春,禕卒。
夏,維率數萬人出石營,經董亭,圍南安。魏雍州刺史陳泰解圍至洛門,維糧盡退還。

十六年(253)春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて〔武都より〕石営に出、董亭を経て、南安を包囲したが、魏の雍州刺史陳泰が包囲を解かんとして洛門(南安の東南にある)に到達し、姜維は兵粮尽きて撤退帰国した。

(諸葛恪伝)

(注)漢晋春秋曰、恪使司馬李衡往蜀姜維令同挙曰古人有言聖人不能為時至亦不可失也 今敵政在私門[時魏政在司馬氏]外内猜隔兵挫於外而民自曹操以来彼之亡形未有如今者也 若大挙伐之使呉攻其東漢入其西[此為称蜀為漢之證]彼救西則東虚重東則西軽以練実之軍乗虚軽之敵破之必矣[何焯曰誠有是形但亦当審己]維従之[此年姜維亦出囲狄道見魏志斉王紀嘉平五年注蜀志後主伝延煕十六年衛将軍姜維囲南安不克而還]

254年(正元元-曹芳、曹髦/延煕17-劉禅/5鳳元-孫亮)

曹芳、司馬師に廃され、曹髦即位。
姜維2回めの北伐。徐質を斬る。

(後主伝)

十七年春正月,姜維還成都。大赦。
夏六月,維復率衆出隴西。
冬,拔狄道、(河間)[河関]、臨洮三縣民,居於綿竹、繁縣

(斉王紀)

(254)秋九月,大将軍司馬景王将謀廢帝,以聞皇太后。

(注)世語及魏氏春秋並云:此秋,姜維寇隴右。時安東将軍司馬文王鎮許昌,徵還撃維,至京師,帝於平樂觀以臨軍過。中領軍許允與左右小臣謀,因文王辭,殺之,勒其衆以退大将軍。……

(高貴郷公紀)

高貴郷公諱髦,字彦士,文帝孫,東海定王霖子也。正始五年,封郯縣高貴郷公。少好學,夙成。斉王廢,公卿議迎立公。十月己丑,公至於玄武館,群臣奏請舍前殿,公以先帝舊處,避止西廂;群臣又請以法駕迎,公不聽。庚寅,公入於洛陽,群臣迎拜西掖門南,公下輿将答拜,儐者請曰:「儀不拜。」公曰:「吾人臣也。」遂答拜。至止車門下輿。左右曰:「舊乘輿入。」公曰:「吾被皇太后徵,未知所為!」遂步至太極東堂,見於太后。其日即皇帝位於太極前殿,百僚陪位者欣欣焉。

高貴郷公は諱を髦、字を彦士といい、文帝の孫、東海定王曹霖の子である。正始五年(244)郯県の高貴郷公に封じられた。
若いときから学問を好み、すでに一人まえであった。
斉王が廃されると、公卿が論議して迎え入れ、公を即位させた。十月己丑の日(四日)、高貴郷公が玄武館に到着すると、群臣が上奏して前殿に宿営されるよう要請したが、高貴郷公はそこが先帝のゆかりの場所であったために、遠慮して西廂に宿をとった。群臣はまた法駕をもって出迎えたいと申し入れたが、高貴郷公は許さなかった。庚寅の日(五日)、高貴郷公が洛陽に入城し、群臣が西掖(せいえき)門の南に出迎えて拝礼したところ、高貴郷公は輿(くるま)から下りて答拝しようとした。案内役が、「儀礼では拝礼しないものです」とねがうと、高貴郷公は、「私は人臣である」といい、そのまま答拝を行った。止車門まで来ると輿から下りた。側近の者が、「古くからのしきたりでは、輿に乗ったまま入ることになっております」というと、高貴郷公は、「私は皇太后のお召しを受けたのだ。まだ、どうなるかわからない」といい、そのまま徒歩で太極東堂まで行き、皇太后に目通りした。その日のうちに、太極前殿で即位し、席次についている百官はみなよろこびにひたったのであった。

魏氏春秋曰:公神明爽俊,德音宣朗。罷朝,景王私曰:「上何如主也?」鍾会對曰:「才同陳思,武類太祖。」景王曰:「若如卿言,社稷之福也。」

『魏氏春秋』にいう。高貴郷公は英明で颯爽としており、ことばははっきりとよく通った。朝廷から退出すると司馬景王がひそかに、「お上はどのような君主か」というと、鍾会は、「才能は陳思王(曹植)と同じほど、武勇は太祖と似ておられます」と答えた。司馬景王はいった、「きみのいうとおりなら、社稷にとって幸福である」と。

……
正元元年(254)冬十月……癸巳,假大将軍司馬景王黄鉞,入朝不趨,奏事不名,劍履上殿。

(姜維伝)

明年,加督中外軍事。
復出隴西,守狄道長李簡舉城降。進圍襄武,與魏将徐質交鋒,斬首破敵,魏軍敗退。維乘勝多所降下,拔河間狄道、臨洮三縣民還。

翌年(254)、督中外軍事の官位を加えられた。
ふたたび隴西に出陣したところ、狄道を守備していた県長の李簡が城を挙げて降伏した。
侵攻して襄武を包囲し、魏の将徐質と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は撤退した。
姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降伏させ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を拉致して帰還した。

(張嶷伝)

魏狄道長李簡密書請降,衛将軍姜維率嶷等因簡之資以出隴西。既到狄道,簡悉率城中吏民出迎軍。軍前與魏将徐質交鋒,嶷臨陣隕身,然其所殺傷亦過倍。

この年は延熙十七年(254)であった。魏の狄道の長である李簡が密書をよこして降伏を願い出た。衛将軍の姜維は張嶷らを率い、李簡の軍資を頼みとして隴西に出陣した。狄道に到着すると、李簡は城下の吏民を率いて軍を出迎えた。
軍を進めて魏の将徐質と合戦し、張嶷は陣中で落命したが、味方の損害の倍以上の敵兵を殺傷した。

(陳泰伝)

蜀大将軍姜維率衆依麹山築二城、使牙門将句安、李歆等守之、聚羌胡質任等寇偪諸郡。征西将軍郭淮与泰謀所以御之、泰曰、
「麹城雖固、去蜀険遠、当須運糧。羌夷患維労役、必未肯附。今囲而取之、可不血刃而拔其城;雖其有救、山道阻険、非行兵之地也。」
淮従泰計、使泰率討蜀護軍徐質、南安太守鄧艾等進兵囲之、断其運道及城外流水。安等挑戦、不許、将士困窘、分糧聚雪以稽日月。維果来救、出自牛頭山、与泰相對。泰曰、
「兵法貴在不戦而屈人。今絶牛頭、維無反道、則我之禽也。」
敕諸軍各堅壘勿与戦、遣使白淮、欲自南渡白水、循水而東、使淮趣牛頭、截其還路、可並取維、不惟安等而已。淮善其策、進率諸軍軍洮水。維懼、遁走、安等孤県、遂皆降。

(254)
蜀の大将軍姜維は軍勢をひきつれ麹山を利用して二つの城を築き、牙門将句安(こうあん)・李歆(りきん)らにそれを守備させ、羌族の人質などを集めて諸郡に侵入した。征西将軍の郭淮は陳泰にそれを防御する手段について相談した。陳泰はいった、
「麹城は堅固ではありますが、蜀からけわしい道をへだてて遠く離れており、当然兵糧の運送を期待しなければなりません。羌族は姜維の労役を厄介がっており、積極的に味方をしないにちがいありません。今、包囲してそれを奪えば、刃を血にぬらさずにその城を陥落できましょう。彼らに救援があったとしても、山道は険阻で、兵を動かせる土地ではございません。」
郭淮は陳泰の計略に従い、陳泰に討蜀護軍の徐質、南安太守の鄧艾らを統率させ、軍をすすめて彼らを攻撃させ、その運送路と城外の流水を断ち切らせた。句安らが戦いをいどんでも応戦を許さなかったので、〔蜀の〕将兵は困窮し、食糧を配分し〔水の代わりに〕雪を集めて月日を引き伸ばした。
姜維は予想通り救援に来、牛頭山から出て陳泰と対峙した。
陳泰は、「兵法では戦わずに敵を屈服させることを高く評価する。(『孫子』謀攻)今、牛頭の道を断ち切り、姜維の帰路がなくなれば、われわれのとりことなる」
といい、諸軍に各自とりでを固めて戦いを交えてはならぬと命令した。使者をやって郭淮に進言し、自分は南方に進んで白水を渡り、水路にそって東に向うつもりだから、郭淮は牛頭に向い、その帰路をさえぎってほしい、ただ句安らだけでなく姜維もあわせてとらえるべきだと述べた。郭淮はその策に賛成し、諸軍をひきいて進み、洮水に軍を置いた。姜維は恐れて逃走したので、句安らは孤立無援となり、かくて全員降伏した。

255年(正元2-曹髦/延煕18-劉禅/5鳳2-孫亮)

1月、毌丘倹の乱。郭淮死去。
春、姜維、成都に帰還。
夏、姜維北伐。
8月、姜維、王経に大勝。後に鍾題に駐屯。

(後主伝)

十八年春,姜維還成都。
夏,復率諸軍出狄道,與魏雍州剌史王經戦於洮西,大破之。經退保狄道城,維卻住鍾題。

(高貴郷公紀)

二年春正月乙丑,鎮東将軍毌丘儉、揚州刺史文欽反。(戊戌)〔戊寅〕,大将軍司馬景王征之。
癸未,車騎将軍郭淮薨。
閏月己亥,破欽於楽嘉。欽遁走,遂奔呉。甲辰,(安風淮津)〔安風津〕都尉斬儉,傳首京都。
以鎮南将軍諸葛誕為鎮東大将軍。
司馬景王薨於許昌。
二月丁巳,以衛将軍司馬文王為大将軍,錄尚書事。
甲子,呉大将孫峻等衆號十萬至壽春,諸葛誕拒撃破之,斬呉左将軍留贊,獻捷於京都。
八月辛亥,蜀大将軍姜維寇狄道,雍州刺史王經與戦洮西,經大敗,還保狄道城。辛未,以長水校尉鄧艾行安西将軍,與征西将軍陳泰並力拒維。戊辰,復遣太尉司馬孚為後繼。……
甲辰,姜維退還。
冬十月,詔曰:「朕以寡德,不能式遏寇虐,乃令蜀賊陸梁邊陲。洮西之戦,至取負敗,将士死亡,計以千數,或沒命戦場,冤魂不反,或牽掣虜手,流離異域,吾深痛愍,為之悼心。其令所在郡典農及安撫夷二護軍各部大吏慰恤其門戶,無差賦役一年;其力戦死事者,皆如舊科,勿有所漏。」
十一月甲午,以隴右四郡及金城,連年受敵,或亡叛投賊,其親戚留在本土者不安,皆特赦之。癸丑,詔曰:「往者洮西之戦,将吏士民或臨陳戦亡,或沈溺洮水,骸骨不收,棄於原野,吾常痛之。其告征西、安西将軍,各令部人於戦處及水次鉤求屍喪,收斂藏埋,以慰存亡。」

(孫亮伝)

五鳳二年(255)春正月,魏鎮東大将軍毌丘儉、前将軍文欽以淮南之衆西入,戦於楽嘉。閏月壬辰,峻及驃騎将軍呂據、左将軍留贊率兵襲壽春,軍及東興,聞欽等敗。壬寅,兵進於橐皋,欽詣峻降,淮南餘衆數萬口來奔。魏諸葛誕入壽春,峻引軍還。二月,及魏将軍曹珍遇於高亭,交戦,珍敗績。留贊為誕別将蔣班所敗於菰陂,贊及将軍孫楞、蔣脩等皆遇害。
三月,使鎮南将軍朱異襲安豐,不克。

(姜維伝)

後十八年,復與車騎将軍夏侯覇等俱出狄道,大破魏雍州刺史王經於洮西,經衆死者數萬人。經退保狄道城,維圍之。魏徵西将軍陳泰進兵解圍,維卻住鐘題。

のち十八年(255)、また車騎将軍夏侯覇らとともに狄道に出、洮水の西において魏の雍州刺史王経をさんざんにうち破った。王経の軍勢の死者は数万人に及んだ。王経が退却して狄道城にたてこもると、姜維はそれを包囲した。
魏の征西将軍陳泰が軍勢を進めて包囲を解いたので、姜維は退却して鍾題に駐屯した。

(郭淮伝)

正元二年(255)薨,追贈大将軍,諡曰貞侯。

(陳泰伝)

淮薨(255),泰代為征西将軍,假節都督雍、涼諸軍事。
後年,雍州刺史王經白泰,雲姜維、夏侯覇欲三道向祁山、石營、金城,求進兵為翅,使涼州軍至枹罕,討蜀護軍向祁山。泰量賊勢終不能三道,且兵勢惡分,涼州未宜越境,報經:「審其定問,知所趣向,須東西勢合乃進。」
時維等将數萬人至枹罕,趣狄道。泰敕經進屯狄道,須軍到,乃規取之。泰進軍陳倉。會經所統諸軍於故関與賊戦不利,經輒渡洮。泰以經不堅據狄道,必有他變。並遣五營在前,泰率諸軍繼之。經巳與維戦,大敗,以萬餘人還保狄道城,餘皆奔散。維乘勝圍狄道。
泰軍上邽,分兵守要,晨夜進前。鄧艾、胡奮、王祕亦到,即與艾、祕等分為三軍,進到隴西。艾等以為「王經精卒破衄於西,賊衆大盛,乘勝之兵既不可當,而将軍以烏合之卒,繼敗軍之後,将士失氣,隴右傾盪。古人有言:『蝮蛇螫手,壯士解其腕。』孫子曰:『兵有所不撃,地有所不守。』蓋小有所失而大有所全故也。今隴右之害,過於蝮蛇,狄道之地,非徒不守之謂。姜維之兵,是所辟之鋒。不如割險自保,觀釁待弊,然後進救,此計之得者也。」泰曰:「姜維提輕兵深入,正欲與我争鋒原野,求一戦之利。王經當高壁深壘,挫其銳氣。今乃與戦,使賊得計,走破王經,封之狄道。若維以戦克之威,進兵東向,據櫟陽積穀之實,放兵收降,招納羌、胡,東争関、隴,傳檄四郡,此我之所惡也。而維以乘勝之兵,挫峻城之下,銳氣之卒,屈力致命,攻守勢殊,客主不同。兵書雲『脩櫓轒榲,三月乃成,拒堙三月而後已』。誠非輕軍遠入,維之詭謀倉卒所辦。縣軍遠僑,糧谷不繼,是我速進破賊之時也,所謂疾雷不及掩耳,自然之勢也。洮水帶其表,維等在其內,今乘高據勢,臨其項領,不戦必走。寇不可縱,圍不可久,君等何言如此?」
遂進軍度高城嶺,潛行,夜至狄道東南高山上,多舉烽火,鳴鼓角。狄道城中将士見救者至,皆憤踴。維始謂官救兵當須衆集乃發,而卒聞已至,謂有奇變宿謀,上下震懼。自軍之發隴西也,以山道深險,賊必設伏。泰詭從南道,維果三日施伏。定軍潛行,卒出其南。維乃緣山突至,泰與交戦,維退還。涼州軍從金城南至沃干阪。泰與經共密期,當共向其還路,維等聞之,遂遁,城中将士得出。經嘆曰:「糧不至旬,向不應機,舉城屠裂,覆喪一州矣。」泰慰勞将士,前後遣還,更差軍守,並治城壘,還屯上邽。
初,泰聞經見圍,以州軍将士素皆一心,加得保城,非維所能卒傾。表上進軍晨夜速到還。衆議以經奔北,城不足自固,維若斷涼州之道,兼四郡民夷,據関、隴之險,敢能沒經軍而屠隴右。宜須大兵四集,乃致攻討。
大将軍司馬文王曰、「昔諸葛亮常有此志、卒亦不能。事大謀遠、非維所任也。且城非倉卒所拔、而糧少為急、征西速救、得上策矣。」泰毎以一方有事、輒以虛声擾動天下、故希簡白上事、驛書不過六百里。司馬文王語荀顗曰、「玄伯沈勇能断、荷方伯之重、救将陷之城、而不求益兵、又希簡上事、必能辦賊故也。都督大将、不当爾邪!」

郭淮が逝去すると(255)、陳泰は代って征西大将軍・仮節都督雍涼諸軍事となった。
後年、雍州刺史の王経は陳泰に進言して姜維と夏侯覇が三つの街道から祁山・石営・金城に向おうとしているから、兵を為翅に進め、涼州の軍を枹罕に行かせ、討蜀護軍を祁山に向かわせたい、と述べた。
陳泰は賊の勢いからして絶対に三つの道を進むことは不可能だ、そのうえ軍の勢力を分散させることは避けるべきだし、涼州の境界を越えるのは適当でないと判断し、王経に答えた、
「定期の報告書を検討し、ご趣旨は承知した。東西の勢力が合するのを待ってから進軍しよう」
そのとき姜維らは数万人をひきつれて枹罕まで来、狄道に向った。陳泰は王経に軍を進めて狄道に駐屯し、〔陳泰の〕軍の到着を待ってから計画によって彼らを攻略することを命令した。陳泰は陳倉に軍を進めた。たまたま王経配下の諸軍は古い関所のあたりで賊と戦闘を交え負けいくさとなった。王経はすぐに洮水を渡った。陳泰は王経が狄道を占拠して固めないことから別の変事が起るにちがいないと判断し、五軍営の兵すべて派遣して前を行かせ、陳泰は諸軍を率いてそれに続いた。王経はすでに姜維と戦って大敗し、一万余人をつれて引き返し、狄道城にたてこもったが、他の兵はみな散りぢりになって逃げた。姜維は勝利に乗じて狄道を包囲した。陳泰は上邽に軍を置き、兵を分けて要所を守らせると、夜を日に継いで前進した。鄧艾・胡奮・王秘もまた到着したので、さっそく鄧艾・王秘らと兵を分けて三軍とし、進軍して隴西に到着した。
鄧艾らは主張した、
「王経の精鋭兵は西方で敗北を喫し、賊の軍勢はたいそう勢いづいております。勝利に乗じた軍は敵対することがむずかしいうえに、将軍は烏合の兵をひきい、敗軍の後を受け、将兵は気力を失い、隴西はひっくりかえっております。古人は『蝮蛇(まむし)が手をさせば、ますらおはその腕を切り離す』といっており、『孫子』には『敵軍も攻撃してはならない場合があり、土地も守ってはならない場合がある』とあります。つまり小さい所で損失があっても大きな所で安全を保ちうるからです。今、隴西の害毒は蝮蛇よりもはなはだしく、狄道の地は別に守っていないというわけではございません。姜維の軍は、それこそ避けるべき鋭い勢いがあります。要害の地をきりとって安全を保ち、隙をうかがい衰えるのを待って、その後で進軍して救助するのです。これが計略のうち最適のものです」
陳泰はいった、
「姜維は軽装の兵をひっさげ深く侵入しており、まさしくわが軍と原野で鉾先を争い、一戦の勝利を求めようと願っている。王経は城壁を高くし、とりでを深くして、その鋭気をくじくべきであったのだ。それなのに今、いくさを交えたのだから、賊は計略どおりにいき、王経を敗走させ、狄道に閉じ込めたのだ。もし姜維が戦勝による武威を示しつつ兵を進めて東に向い櫟陽(れきよう)に蓄積された充分な穀物をよりどころとし、四つの郡(隴西・南安・天水・略陽)に檄文をとばすことにでもなれば、それこそわが軍にとって厄介なこととなる。ところが姜維は勝利に乗じた軍をもって、険固な城の下で頓挫しており、鋭気をもった兵卒は、力をくじかれ命を投げ出している。攻守の形勢が変って、主客転倒したのだ。兵書に『櫓(おおだて)や轒榲(ふんおん)(城攻めの四輪車)を整え、三ヶ月かかってやっと完成し、土塁は三ヶ月たったのちにやっと土盛りを終る』とある。実際、軽装の軍をもって深く侵入しているのだから、姜維の人をあざむく策略でも早急に用意できるものではない。本拠地を遠く離れた軍は、糧食がつながらないもので、今こそわが軍がただちに進撃し賊をうち破る時である。いわゆる『急な雷鳴は耳をふさぐひまがない』(淮南子、兵略訓、六韜、軍勢篇)というやつで、自然の勢いである。洮水がその外をめぐり、姜維らはその中にいる。今、高所に登り、有利な地勢を占め、敵の首ねっこに臨めば、戦わずとも必ず逃走する。侵略者を野放しにするわけにはいかぬし、包囲を長く放置するわけにもいかぬ。君らはどうしてこのような言を吐くのだ」
かくして軍を進めて高城嶺を越え、こっそり行動して、夜に狄道の東南にある高い山の上に到達した。たくさん烽火をあげ、太鼓と角笛をならした。狄道の城中にいる将兵は救援の到着を見て、皆、心を高ぶらせおどりあがった。姜維は最初救援の官軍は軍勢の集結を待ってから出発するにちがいないと思っていた。ところが突然もう到着していると聞き、前から練られた奇計があるものと思いこみ、上も下もふるえおののいた。軍が隴西を出発してから、山道は深く険しかったので、賊は必ず伏兵を設けていると考え、陳泰は南道を通るふりをした。姜維は予期どおり三日の間伏兵を置いていた。正規軍はひそかに行動し、突然その南に姿をあらわした。姜維はそこで山によりそいながら突撃してきた。陳泰は彼と交戦し、姜維は涼州に引き退いたが、軍は金城を通って南に向い、沃干阪(ほくかんはん)に到達した。陳泰は王経とともに内密に約束をかわし、いっしょにその帰路に向うことにしていた。姜維らはそれを聞くと逃走してしまい、城中の将兵は外に出ることができた。王経は歎息していった、
「食糧はあと十日分にも足りませんでした。先に危機に瀕したとき救援に来てくれなかったら、城をあげて潰滅し、一州を喪失したでしょう」
陳泰は将兵を慰労し、前後に分けて帰還させ、あらためて軍兵を選んで守備につけ、同時に城壁を修理させると、帰還して上邽に駐屯した。
それより前、陳泰は王経が包囲されたと聞いたとき、州郡の将兵が平素から皆心を一つにしており、それに加えて城を保持する力があるから、姜維が急に陥れられるものではないと考えた。軍を進め夜を日に継いで、早急に到着する旨上奏文をたてまつった。多数の人の意見では、王経は逃走し、城は固守する力はない、姜維がもし涼州への交通路を遮断し、四郡の人民・蛮族をあわせ、関・隴の要害を占拠すれば、王経の軍を全滅させ、隴西を攻略できるであろうから、大軍が四方から集結するのを待って、それから攻撃討伐を行うのが適当であると考えた。
大将軍司馬文王(司馬昭)はいった、
「昔諸葛亮はつねづねこれと同じ志を抱いていたが、けっきょく不可能だった。事は大きくはかりごとは遠大であり、姜維のになえる仕事ではない。それに城は早急に陥とされるものではないが、食糧が少ないのが緊急事である。征西将軍がすみやかに救援に赴いたのは、最上の策にかなっている。」

(鄧艾伝)

高貴郷公即尊位,進封方城亭侯。毌丘儉作亂,遣健步齎書,欲疑惑大眾,艾斬之,兼道進軍,先趣樂嘉城,作浮橋。司馬景王至,遂據之。文欽以後大軍破敗於城下,艾追之至丘頭。欽奔呉。呉大将軍孫峻等號十萬眾,将渡江,鎮東将軍諸葛誕遣艾據肥陽,艾以與賊勢相遠,非要害之地,輒移屯附亭,遣泰山太守諸葛緒等於黎漿拒戰,遂走之。其年徵拜長水校尉。以破欽等功,進封方城郷侯,行安西将軍。

高貴郷公が帝位につくと、方城亭侯に爵位があがった。カン丘倹は反乱を起すと、早足の者を派遣して文書を送り、大衆を混乱させようと図ったが、鄧艾はその使者を斬り、通常の倍の速度で軍を進め、先に楽嘉城に赴き浮橋を作った。司馬景王(司馬師)は到着すると、そのまま楽嘉を根拠とした。……

解雍州刺史王經圍於狄道,姜維退駐鍾提,乃以艾為安西将軍,仮節、領護東羌校尉。
議者多以為維力已竭,未能更出。艾曰:
「洮西之敗,非小失也;破軍殺将,倉廩空虛,百姓流離,幾於危亡。今以策言之,彼有乘勝之勢,我有虛弱之實,一也。彼上下相習,五兵犀利,我将易兵新,器杖未復,二也。彼以船行,吾以陸軍,勞逸不同,三也。狄道、隴西、南安、祁山,各當有守,彼專為一,我分為四,四也。從南安、隴西,因食羌谷,若趣祁山,熟麥千頃,為之縣餌,五也。賊有黠數,其來必矣。」

(255)
狄道で包囲されていた雍州刺史王経を救助し、姜維は退いて鍾提に駐屯した。そこで鄧艾を安西将軍・仮節領護東羌校尉に任命した。
多くの論者は、姜維の力はすでに力尽きているから再度の出撃はないと主張したが、鄧艾はいった、
「〔王経の〕洮西(とうせい)の敗戦は小さな失敗ではない。軍は敗れ将は殺され、米倉は空になり、住民は流浪することとなり、ほとんど危機滅亡の状態といってよい。今、作戦の点からいえば、敵には勝ちに乗ずる勢いがあり、わが方には虚弱な体質がある。これが第一の点だ。
敵は上下ともによく訓練されていて、武器も鋭利であるが、わが方は将軍が〔王経より鄧艾に〕交替し兵卒も新たに派遣されてきた者で、武器もまだ不充分なままである。これが第二の点だ。
敵は船によって行動し、わが方は陸地を行軍してきたのだから、苦労は同じではない。これが第三の点だ。
狄道・隴西・南安・祁山には、それぞれ守備を置かなければならない。敵が一方に集中できるのに対して、わが方は四箇所に分散することになる。これが第四の点だ。
南安・隴西に向かえば、羌族に食糧を頼ることになるが、もし祁山へ向かえば、千頃(けい)にわたって成熟した麦がある。それが敵をつる餌となるだろう。これが第五の点だ。
賊軍はこざかしい策略を弄するから、その来攻はまちがいない。」

(張翼伝)

十八(255)年,與衛将軍姜維俱還成都。維議復出軍,唯翼廷争,以為國小民勞,不宜黷武。維不聽,将翼等行,進翼位鎮南大将軍。維至狄道,大破魏雍州刺史王經,經衆死於洮水者以萬計。翼曰:「可止矣,不宜復進,進或毀此大功。」維大怒。曰:「為蛇畫足。」維竟圍經於狄道,城不能克。自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往。

十八年(255)、衛将軍の姜維とともに成都に帰還した。姜維が再度の出兵を提議したとき、ただ張翼だけが朝議の席で反対論を述べ、国家の弱小と民衆の労苦を根拠に、みだりに武力を行使してはならないと主張した。姜維は聞き入れず、張翼らを率いて出発し、張翼の位を進めて鎮南大将軍とした。姜維は狄道に到着すると、魏の雍州刺史王経をさんざんにうち破った。洮水(とうすい)で死んだ王経の軍兵の数は五けたにのぼった。張翼が、「とどまるべきです。これ以上進攻してはなりません。進攻すれば、あるいはこの大殊勲に傷をつけることになるかもしれません」というと、姜維は大いに腹を立てた。〔張翼は〕「蛇の絵をかいて足を書き加えるようなものですぞ」といった。姜維はけっきょく狄道城にいる王経を包囲したが、陥すことができなかった。張翼が異論をとなえて以来、姜維は内心張翼が気に入らなくなっていたが、それでもいつも引き連れて同行し、張翼もまた仕方なく遠征に加わった。

256年(甘露元-曹髦/延煕19-劉禅/太平元-孫亮)

1月、姜維大将軍になる。
7-8月、段谷の戦いで姜維、鄧艾に大敗する。
9月、孫峻が死ぬ。従弟の孫綝が後をついで呉の実権を握る。

(後主伝)

十九年春,進姜維位為大将軍,督戎馬,與鎮西将軍胡濟期會上邽,濟失誓不至。
八月,維為魏大将軍鄧艾所破於上邽。維退軍還成都。

(高貴郷公紀)

甘露元年(256)……夏四月庚戌,賜大将軍司馬文王兗冕之服,赤舄副焉。
丙辰,帝幸太學,問諸儒曰:「聖人幽贊神明……
五月,鄴及(上谷)〔上洛〕並言甘露降。夏六月丙午,改元為甘露。
乙丑,青龍見元城縣界井中。
七月己卯,衛将軍胡遵薨。癸未,安西将軍鄧艾大破蜀大将姜維於上邽,詔曰:「兵未極武,醜虜摧破,斬首獲生,動以萬計,自頃戦克,無如此者。今遣使者犒賜将士,大會臨饗,飲宴終日,稱朕意焉。」
八月庚午,命大将軍司馬文王加號大都督,奏事不名,假黄鉞。

(孫亮伝)

太平元年(256)春
〈呉歴曰:正月,為権立廟,稱太祖廟。〉
二月朔,建業火。峻用征北大将軍文欽計,将征魏。八月,先遣欽及驃騎呂據、車騎劉纂、鎮南朱異、前将軍唐咨軍自江都入淮、泗。
九月丁亥,峻卒,以從弟偏将軍綝為侍中,武衛将軍,領中外諸軍事,召還據等。
聞綝代峻,大怒。己丑,大司馬呂岱卒。壬辰,太白犯南鬥,據、欽、咨等表薦衛将軍膝胤為丞相,綝不聽。癸卯,更以胤為大司馬,代呂岱駐武昌。據引兵還,欲討綝。綝遣使以詔書告喻欽、咨等,使取據。冬十月丁未,遣孫憲及丁奉、施寬等以舟兵逆據於江都。遣将軍劉丞督歩騎攻胤。胤兵敗夷滅。己酉,大赦,改年。辛亥,獲呂據於新州。
十一月,以綝為大将軍、假節,封(永康侯)。孫憲與将軍王惇謀殺綝。事覺,綝殺惇,迫憲令自殺。十二月,使五官中郎将刁玄告亂於蜀。

(姜維伝)

十九年春,就遷維為大将軍。更整勒戎馬,與鎮西大将軍胡濟期会上邽。
濟失誓不至,故維為魏大将鄧艾所破於段谷,星散流離,死者甚眾。
眾庶由是怨讟,而隴已西亦騷動不寧。維謝過引負,求自貶削。為後将軍,行大将軍事。

十九年(256)春、遠征先において姜維を大将軍に昇進させた。
さらに戦闘準備をととのえ、鎮西大将軍の胡済としめし合わせて上邽で落ち合う手はずであったが、胡済は約束を破ってやってこなかった。
そのために姜維は段谷において魏の大将鄧艾にうち破られ、軍兵はちりぢりになって逃げまどい、多大の戦死者を出した。
人々はそのためひじょうに怨み、隴以西の地でも騒乱がおこり不安定になった。
姜維はあやまちを謝し責めを負って、みずから官を下げてほしいと願い出、後将軍・行大将軍事となった。

(鄧艾伝)

頃之,維果向祁山,聞艾已有備,乃回從董亭趣南安,艾據武城山以相持。
維與艾爭險,不克,其夜,渡渭東行,緣山趣上邽,艾與戰於段谷,大破之。

しばらくして、姜維は予想どおり祁山へ向かったが、鄧艾がすでに備えをしていると聞くと、方向を変えて董亭を通って南安へ進んだ。鄧艾は武城山にたてこもって対峙した。姜維は鄧艾と要害の地を占拠せんと争ったが勝利を得られなかったので、その夜、渭水を渡って東へ進み、山に沿って上邽(じょうけい)へと向かった。鄧艾は彼と段谷において戦い、大いにこれをうち破った。

甘露元年詔曰:「逆賊姜維連年狡黠,民夷騷動,西土不寧。艾籌畫有方,忠勇奮發,斬将十數,馘首千計;国威震於巴、蜀,武聲揚於江、岷。今以艾為鎮西将軍、都督隴右諸軍事,進封鄧侯。分五百戶封子忠為亭侯。」
二年,拒姜維於長城,維退還。遷征西将軍,前後增邑凡六千六百戶。

甘露元年(256)、詔勅が下された、
「逆賊姜維が連年狡猾な動きを見せたため、民衆も蛮族も動揺し、西方地域はおちつかなかった。鄧艾は、理にかなった計略を立て、忠節と勇気を奮い起し、二けたにのぼる将を斬り、四けたにのぼる首をとった。国威は巴・蜀の地をふるわせ、武勇のほまれは長江・岷江のあたりにとどろいた。今、鄧艾を鎮西将軍・都督隴右諸軍事に任命し、鄧侯に爵位を進め、五百戸を分割して子の忠を亭侯にとりたてる。」

関連

徐質

備考

北伐関連年表のため、呉の出来事は最小限しか収録していない。

http://www31.atwiki.jp/medamayaki/pages/24.html

資料

▼後主伝
http://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B733
▼明帝紀
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B703
▼三少帝紀
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B704
▼呉主伝
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B747
▼三嗣主伝
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B748
▼姜維伝
http://zh.wikisource.org/w/index.php?title=%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B744&variant=zh-hant#.E5.A7.9C.E7.B6.AD
▼郭淮伝
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B726#.E9.83.AD.E6.B7.AE
▼陳泰伝
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B722#.E9.99.88.E7.BE.A4
▼鄧艾伝
http://zh.wikisource.org/zh-hant/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%BF%97/%E5%8D%B728

北伐関連年表一覧

北伐関連年表(諸葛亮時代/223-234)
北伐関連年表(蒋琬時代/234-246)
北伐関連年表(費禕時代/247-252)
北伐関連年表(姜維時代1/253-256)
北伐関連年表(姜維時代2/257-262)

関連

北伐
北伐関連地図











Comment


Memo.Medamayaki

三国志他歴史、小説、ゲーム等に関するメモ用ブログ。

TEMPLATE:Ateh's theme

×

Status


苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:

Setting

苗字:
名前:
性別:
年齢:
通り名:
出身地:
誕生月:
誕生日:
職業:
種族:
武器:
属性:
髪色:
目色:
口癖:





× 
×

Recent Posts

×

Custom Menu