最終的な目的は鍾会解釈。
その上で欠かせないピースのひとつが司馬昭解釈なのは確かだと思ったり。
てことで前回の記事ではその前提となる司馬氏について考えてみたけれど、次は司馬昭はどう書かれているか、あるいは認識されていたか、とりあえず整理したいかなとか。
魏末西晋時代の寛大な司馬昭像?
魏末西晋時代の司馬昭のイメージ。
これは、陳寿が書いたものが代表的と考えていいんじゃないかな。
西晋に仕えた陳寿の立場的に西晋あるいは司馬昭をはじめとする司馬氏を悪くかけないという認識はまず当然といえば当然だけど。
ただ、西晋の時代あるいは少なくともその初期である西晋(晋は変換しづらい上に春秋時代と一応紛らわしいからできる限り西晋、東晋と表記する方針)の創業の時期には、100%の支持率では勿論なかっただろうけれど(それは怖すぎ)、それなりに司馬氏の評価は高いものだったり、期待をされていたり、好感をもたれていたり、支持されていた――ということも一方の事実だったんじゃないかなとか。
そうでなければ、西晋建国に至らないだろうし。
毌丘倹、文欽すら、司馬師を非難する上奏文のなかで、司馬師を否定しながら司馬昭は違うといっていたくらいだし。
(毌丘倹伝注)
按師之罪、宜加大辟、以彰奸慝。春秋之義、一世為善、一世宥之。懿有大功、海内所書、依古典議、廃師以侯就弟。
弟昭、忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度、忠誠為国、不与師同。司馬師の罪を考えますと、大罪を加えて、邪悪を明白に示すのが当然と存じます。『春秋』のたてまえでは、一代において善をおこなえば、十代にわたって罪をゆるされます。
司馬懿には大功があり、海内の書に記されております。古典の判断に依拠し、司馬師をやめさせて、列侯として邸に帰しますように。
弟の司馬昭は、誠実でつつしみ深く、寛大で明るく、善を楽しみ士人を愛し、世俗を超越した君子の風格があり、国家のために忠誠を捧げておりまして、司馬師とは異なります。
臣どもは打ち首を覚悟に保証いたします。司馬師の代りとして玉体を輔導いたさせますように。
歴史上の人物を理解する場合、その人物が実際はどうだったかということだけでなく、どう見られていたかということも重要だと思ったり。
同時代の人物から見た司馬昭の、すくなくとも外面的、第一印象的なものは、毌丘倹たちが書いたように「弟昭、忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度、忠誠為国、不与師同」と見える、あるいは見えやすいものだったんじゃないかなあとか。
てことで。
コーエーのグラ的にいうと、11の悪人っぽいグラよりは12、13のグラの方がイメージ的には近かったのかも、とか。
陳寿による司馬昭描写?
陳寿は曲筆とか言われていたりするけれど、多分違うと思っていたり(それについてはどこかで書いた気がするけど脳内だけかもしれないけど今は割愛)。
陳寿の個人的事情(保身や嫌いな人間は無視したいとか)が「三国志」に反映されているとしても、曹髦の死について省略しているように、触れないという方法をとっているだけで、嘘(陳寿自身による虚偽)を書くという方法は基本的にとっていないんじゃないかなとか。
で。
陳寿自身が書いた司馬昭は、毌丘倹たちによる司馬昭評「弟昭、忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度(誠実でつつしみ深く、寛大で明るく、善を楽しみ士人を愛し、世俗を超越した君子の風格があり)」と同系統の人物として書かれているんじゃないかなとか。
阮籍について。
籍口不論人過、而自然高邁、故為礼法之士何曾等深所讎疾。
大将軍司馬文王常保持之、卒以寿終。阮籍は人の欠点を口にのせあげつらうことをせず、自然と高い人望を集めた。
そのため礼儀作法にやかましい何曾らに徹底的に目の仇にされた。大将軍の司馬文王(司馬昭)がつねに彼をかばい続けたので、けっきょく寿命をまっとうできた。
この辺は「寬明、楽善好士」的な司馬昭像なんじゃないかなーとか。
鍾会伝のなかの司馬昭
司馬昭の最も高評価な記述があるのは、鍾会伝なんじゃないかなという印象もある。
とりあえず陳寿が書いた本文部分の司馬昭はこんな。
(鍾会伝)
会兄子邕,隨会與俱死,会所養兄子毅及峻、辿敕連反。等下獄,當伏誅。
司馬文王表天子下詔曰:「峻等祖父繇,三祖之世,極位台司,佐命立勛,饗食廟庭。父毓,歴職内外,幹事有績。昔楚思子文之治,不滅斗氏之祀。晋録成宣之忠,用存趙氏之後。以会、邕之罪,而絕繇、毓之類,吾有愍然!峻、辿兄弟特原,有官爵者如故。惟毅及邕息伏法。」
或曰,毓曾密啟司馬文王,言会挾術難保,不可專任,故宥峻等雲。鍾会の兄の子鍾邕も鍾会に随行していたため、いっしょに死んだ。
鍾会が養育した兄の子の毅および峻、辿(てん)らは投獄され、死刑に処せられるところを、司馬文王が天子に上奏したため、詔勅が下った、
「……」
別の説では、鍾毓が以前司馬文王に内密に具申して、鍾会は策謀にはしりすぎて一貫した態度をとれない男だから、任務を彼一人にまかせるのはよろしくない、と述べた。そのために峻らを許したとのことである。
ここの司馬昭エピソードも、「忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度」的ではあったり。
こういう態度を崩さない所、そういう評価を受けている所が、司馬昭の支持率に繋がったんじゃないかなとは思うけど、またそれはあとで。
別の説として紹介している方については、あくまで陳寿的には二番手以降の解釈なんだろうなってことで。
また鍾会伝の別の部分。
初,文王欲遣会伐蜀,西曹屬邵悌求見曰:
「今遣鍾会率十餘萬衆伐蜀,愚謂会單身無重任,不若使餘人行。」
文王笑曰:
「我寧當復不知此耶?蜀為天下作患,使民不得安息,我今伐之如指掌耳,而衆人皆言蜀不可伐。夫人心豫怯則智勇並竭,智勇並竭而強使之,適為敵禽耳。惟鍾会與人意同,今遣会伐蜀,必可滅蜀。滅蜀之後,就如卿所慮,當何所能一辦耶?凡敗軍之将不可以語勇,亡国之大夫不可與圖存,心膽以破故也。若蜀以破,遺民震恐,不足與圖事;中国将士各自思歸,不肯與同也。若作惡,祗自滅族耳。卿不須憂此,慎莫使人聞也。」
及会白鄧艾不軌,文王将西,悌復曰:
「鍾会所統,五六倍於鄧艾,但可敕会取艾,不足自行。」
文王曰:
「卿忘前時所言邪,而更雲可不須行乎?雖爾,此言不可宣也。
我要自當以信義待人,但人不當負我,我豈可先人生心哉!
近日賈護軍問我,言:『頗疑鍾会不?』我答言:『如今遣卿行,寧可復疑卿邪?』賈亦無以易我語也。我到長安,則自了矣。」文王はいった。「卿はこの前の発言を忘れたのか。前とちがって行く必要はないだろうなどというのか。とはいうものの〔わしの〕この言を表沙汰にしてはならぬぞ。
わしは信義を持って人を扱おうと決心している。ただ他人にわしをうらぎらせぬというだけではないのだ。それを人より先にわしのほうから疑ってよいものか。
近日賈護軍(賈充)がわしに訊ねて『多少は鍾会に疑いをおもちでしょうか』といったから、わしは『もし今卿を行かせたならば、やはり卿を疑ってよいのか』と答えておいた。賈もまたわしの言葉をいいかげんにはとらなかった。
わしが長安に到着すれば、自然とかたがつくであろう。」
ここにある司馬昭自身の言葉「我要自當以信義待人,但人不當負我,我豈可先人生心哉(わしは信義を持って人を扱おうと決心している。ただ他人にわしをうらぎらせぬというだけではないのだ。それを人より先にわしのほうから疑ってよいものか)」――これは、実際に司馬昭の考え方、あるいは方針だったということは充分考えられたり(それが性格かはわからないしまた別の問題かな)。
司馬昭本人の意識と(同時代人による)外的な評価?
てことで、整理してみると。
司馬昭自身の考え方、方針……「我要自當以信義待人,但人不當負我,我豈可先人生心哉(わしは信義を持って人を扱おうと決心している。ただ他人にわしをうらぎらせぬというだけではないのだ。それを人より先にわしのほうから疑ってよいものか)」といったもの
同時代の他人から見た司馬昭像の一般的なイメージ……「弟昭、忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度(誠実でつつしみ深く、寛大で明るく、善を楽しみ士人を愛し、世俗を超越した君子の風格があり)」といったもの
というわけで基本的には、司馬昭は自身の狙いどおりの評価を得ている様子。
てことで魏末、司馬昭の試みは成功していた、といえるんじゃないかな(だからこそ西晋ができたわけだし)。
他にもいろいろあった気はするけれど、今は探す気力ないので割愛。
注に見られる陰険な司馬昭像
ただ、少なくとも東晋以降、司馬昭の評価は悪化している。
それについては、前回の記事に書いたから繰りかえさないけれど。
裴松之の注には、陳寿は書いていない陰険な司馬昭像が出てくるようになっていたり。
(高貴郷公紀注)
魏氏春秋曰:小同詣司馬文王,文王有密疏,未之屏也。如廁還,謂之曰:「卿見吾疏乎?」對曰:「否。」
文王猶疑而鴆之,卒。『魏氏春秋』にいう。
鄭小同が司馬文王のもとを訪れたさい、司馬文王の手元に内密の書状がおかれ、それはまだ封がしてあった。司馬文王が手洗いからもどって来て、「君はわしの書状を読んだか」とたずねると、「いいえ」と答えたが、司馬文王はそれでも疑いをもち毒を盛ったので、死んだ。(魏氏春秋の著者は、東晋の孫盛)
鄭小同については別に記事を書いたし、色々謎ではあるけれど、とりあえずここでは、疑り深く疑った相手に対してはそれなりに親しい間柄(家を尋ねるくらいだし)であっても毒殺する、冷酷な司馬昭像になっているというところが重要なんじゃないかなと思ったり。
次は曹髦による司馬昭評。
司馬昭を殺そうとした曹髦によるものではあるけれど、少なくとも「漢晋春秋」では収録された(陳寿は書いてないのに対して)という点は重要なんじゃないかなとか。
漢晋春秋曰:帝見威権日去,不勝其忿。乃召侍中王沈、尚書王經、散騎常侍王業,謂曰:
「司馬昭之心,路人所知也。吾不能坐受廢辱,今日當與卿自出討之。」
有名な司馬昭の心(司馬昭の野心)。
また、「漢晋春秋」はこんな記述もあったり。
漢晋春秋曰:丁卯,葬高貴郷公於洛陽西北三十里瀍澗之濱。下車數乘,不設旌旐,百姓相聚而觀之,曰:「是前日所殺天子也。」或掩面而泣,悲不自勝。
この「漢晋春秋」は東晋の習鑿歯の著。
「漢晋春秋」てことで著者は晋は正統だと考えて書いたっぽいけれど、習鑿歯が正統だとしたい晋というのはあくまで東晋なのかもしれないとも思ったり。
「漢晋春秋」はこんなのも。
(王修伝注)
漢晋春秋曰、襃与濟南劉兆字延世、倶以不仕顯名。襃以父為文王所濫殺、終身不応徵聘、未嘗西向坐、以示不臣於晋也。
『漢晋春秋』にいう。
王褒と済南の劉兆、字は延世とは、共に仕官しないことで評判をあげた。
王褒は父が文王(司馬昭)に正当な理由もなく殺されたことから、一生、招聘に応じず、晋に対しては臣下とはならない意志を示すために、〔晋帝のいる〕西方を向いて座ったことは一度もなかった。
父親が司馬昭によって正統な理由もなく殺されたという件についてはこんな。
(王修伝注)
王隱晋書曰、脩一子、名儀、字硃表、高亮雅直。司馬文王為安東、儀為司馬。東関之敗、文王曰、「近日之事、誰任其咎?」儀曰、「責在軍師。」
文王怒曰、「司馬欲委罪於孤邪?」遂殺之。王隠の『晋書』にいう。
王脩の一子は名を儀、字を朱表といい、気品のある明るい誠実な人であった。
司馬文王(司馬昭)は安東(将軍)であったとき、王儀を司馬とした。
東関の敗戦時、文王はいった、
「近日の事件は、誰がその責任を負うのだ」
王儀、「責任は軍の統帥にございます」
文王は怒って、「司馬は罪をわしにおしつけようとするのか」といい、彼を殺してしまった。
この王隠も、東晋の人。
あと「世語」の著者は西晋の人みたいだけど、こんなのもあったり。
(満寵伝注)
世語曰、偉字公衡。偉子長武、有寵風、年二十四、為大将軍掾。高貴郷公之難、以掾守閶闔掖門、司馬文王弟安陽亭侯幹欲入。幹妃、偉妹也。長武謂幹曰、「此門近、公且来、無有入者、可従東掖門。」幹遂従之。文王問幹入何遲、幹言其故。参軍王羨亦不得入、恨之。既而羨因王左右啟王、満掾断門不内人、宜推劾。寿春之役、偉従文王至許、以疾不進。子従、求還省疾、事定乃従帰、由此内見恨。収長武考死杖下、偉免為庶人。時人冤之。
偉弟子奮、晋元康中至尚書令、司隸校尉。寵、偉、長武、奮、皆長八尺。『世語』にいう。
満偉は字を公衡という。満偉の子の満長武は、〔祖父〕満寵の風格があった。
二十四歳のとき大将軍(司馬昭)の掾となった。
高貴郷公の変(魏帝高貴郷公が実力者司馬昭を討とうとした事件)、掾として閶闔の掖門を守っていた。
司馬文王の安陽亭侯司馬幹が入ろうとした。司馬幹の妃は、満偉の妹だった。
満長武は司馬幹に向かっていった、
……
のちになって王羨は王の側近を通じて、満掾が門を遮断して人を入れない、追求するべきであると王に言上した。
寿春の役には、満偉は文王に従って許までいったが、病気のため進軍に加わらなかった。子が従っていたが、帰還して病気を見とりたいと願い出、事変が片付いたのでつき従って帰った。
このことから〔文王は〕心中恨み、満長武を逮捕して訊問し杖打ちによって殺し、満偉を免職にして平民におとした。当時の人はこのことに同情を寄せた。
司馬昭の実像を考える
以上外的な司馬昭の評価やイメージを見てきたので、次は、このような一見両極端に見える司馬昭像をどう扱えばいいかということについて。
どっちかが嘘ということがまず考えられるけど。
ただしその場合、いずれにしてもそう判断する根拠が必要。
でも、特にあるっけって感じ……。
魏末、司馬昭に期待した人は(全員かはともかく)、司馬昭を「忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度」的な人物として見ていたのだろうとは思っていたり。
それは期待の投影という面もあるとは思うけれど、少なくともそんな期待や理想を投影できる器はあった、あるいはあるというように信じられていたんだろうなとか。
政治家に対する評価は政治的なものだから、支持者は見たくないものは見ない都合の悪いものは見ないことにする、という可能性は高い。
てことで、司馬昭(あるいは司馬氏)に期待しているあいだは、注にあるような冷酷、陰険な事実があったとしても、大したことはないとか、忘れるとか、そんな対応をとっていたのではないかなとか。
弥子瑕の故事みたいなもので。
政治に限らず見たくないものは見ないものだし見たいもの見ようとしているものしか見ないというのが一般的な人間の思考回路なんだろうと個人的には考えているし。
てことで。
今回考えた司馬昭像はこんな感じ。
- 注にあるような陰険なことも司馬昭はやっている
- 司馬昭は人からよく思われようと注意深く寛大なように振る舞っている
では、どういう理屈でこれらが両立するかについての解釈。
司馬昭は根っからの偽善者だったという解釈――もできなくはないだろうけれど。この辺は好みの問題のような。
自分の場合、基本的に人間は一定していない(気分、判断力、好き嫌い、性格その他)というふうに考える感じなので、それだと不自然な解釈になるんじゃないかなという見解。
意識して寛大な人間であるという風に見られるように心がけていると本人が語っていることから、重大な案件に関しては司馬昭本人がその基本方針を忘れることはほぼないんじゃないかな。
それが曹髦の事件の際の司馬昭の判断につながっているとか。
臣下(※重要な)に責任をなすりつけるような冷酷な上司にはならない(自分の理想的的人物像に反するから)→賈充に責任をおしつけることはしない
↓
末端の成済に責任をとらせる→妥協できる
こんな感じなのかなあととりあえず考えていたり。
注に見られる冷酷な面も、掾とか司馬とか、賈充に比べれば末端っぽいし。
てことで、名士に優しく(阮籍への対応もこれで辻褄あう)、末端には冷淡――という傾向が司馬昭にはあったのかも。
当時は別に下々へのやさしさとかそれほど必要なかったのかもしれないし。
張飛を思い出すけれど、その反対ならともかくこれはそんなに珍しいことでもないような。まあそれはいいや。
てことで。
司馬昭は、当人が重要な案件だとみなしていた場合は好感を持たれるように配慮することをほぼ怠らないけれど、そうでない場合だとその辺わりと雑になる、といった感じの人物なのかなとか。
とりあえず今回は、司馬昭の基本的な人物像についてだけ。
創作的には?
創作的には色々な描き方が成り立ちそう。
頭も良いだろうし。
最近考えているのは、演技派司馬昭とか。
三国志12、13グラ系のイメージで。
あと、毒殺の流用で、鍾会の乱がらみで鍾毓暗殺とかしてると好みではあったり。
まとめ
司馬昭は悪人というイメージも強いけれど。
個人的には、悪人善人でくくることはないから自分の場合はそれはどうでもいいかな。
なにはともあれ鍾会考える上で司馬昭をどう考えるかは重要だし、ある程度は自分の中で整理しておきたいテーマ。
とりあえず今回はこの辺で。
おわり。