2016.12.30
6108文字 / 読了時間:7.6分程度
三国志

西晋(司馬氏)と蜀の後世の評価について。

司馬昭について考えようと思ったんだけれど、そこに辿り着く前に長くなったので、今回は西晋(司馬氏)の後世の評価について(演義の西晋評価と蜀評価についてを含む)ってことで。

後世の司馬昭像

後世の司馬昭のイメージのひとつは、現代でも中国ではことわざとして残っているらしい(?)曹髦の司馬昭評は確かにありそう。
皇帝殺しの逆臣というイメージ。

まあ、前に書いた気がするからはしょるけれど、曹髦を殺したのは成済のせい、というのは、長期的なイメージ、つまり後世のイメージのことまで考えれば悪手だったからこそ、この後世のイメージなんじゃないのかなとか(部下に責任をなすりつけるリーダーというのは、理想的なリーダーとしてのイメージを期待するのは長い目で見れば無理があるだろうということ)。

よくある羅貫中被害者(これ個人的に大嫌い)解釈は、司馬昭の場合出来ない。
それよりかなり前に、少なくとも裴松之の注の頃には、既に陰険な司馬昭像は存在しているわけだし。

それについてはあとでまた整理する。

東晋の西晋評?

世説新語の東晋の明帝司馬紹(まぎらわしい)のこれとか。

(世説新語・尤悔)

王導、溫嶠俱見明帝,帝問溫前世所以得天下之由。溫未答頃,王曰:「溫嶠年少未諳,臣為陛下陳之。」
王乃具敍宣王創業之始,誅夷名族,寵樹同己,及文王之末高貴鄉公事。明帝聞之,覆面著床曰:「若如公言,祚安得長!」

王導と温嶠とが明帝(司馬紹)に謁見した。帝は、西晋の王朝が天下を手に入れた理由を温に尋ねた。
温がまだ答えないでいると、しばらくして王が言った。
「温嶠は年が若く、まだよく知っておりません。わたくしが陛下のためにそれについて申しあげましょう」
王はそこで宣王(司馬懿)が創業の始め、名族を誅滅し、おのれに賛同するものを引きたてたこと、さらに、文王(司馬昭)の末には、魏の高貴郷公(曹髦)を殺害した事を詳しく述べたてた。
明帝はこれを聞くと、顔をおおい、牀に身を伏せて言った。
「もし君の言葉の通りであるならば、この王統はどうして長く続くことができよう」

少なくとも東晋の頃には(東晋は西晋の後を継いだ王朝でもあるけれど、一方西晋が一度ぐだぐだになって亡命するはめになった人たちが中心の国でもあるから、東晋からみた西晋はむしろ恨みがあるのかもしれない)、西晋の成立についての冷めた見方はかなり一般的だったのかもしれないとも思ったり。

干宝(東晋の人)の「晋紀総論」とか。

前半では褒めてるんだけれど、後半では西晋批判になっていてこんな感じ。

「晋紀総論」
……

今晉之興也,功烈於百王,事捷於三代,蓋有為以為之矣。宣景遭多難之時,務伐英雄,誅庶桀以便事,不及脩公劉太王之仁也。受遺輔政,屢遇廢置,故齊王不明,不獲思庸於亳;高貴沖人,不得復子明辟;二祖逼禪代之期,不暇待參分八百之會也。是其創基立本,異於先代者也。
又加之以朝寡純之士,鄉乏不二之老。風俗淫僻,恥尚失所,學者以莊老為宗,而黜六經,談者以虛薄為辯,而賤名儉,行身者以放濁為通,而狹節信,進仕者以苟得為貴,而鄙居正,當官者以望空為高,而笑勤恪。是以目三公以蕭杌之稱,標上議以虛談之名,劉頌屢言治道,傅咸每糾邪正,皆謂之俗吏。其倚杖虛曠,依阿無心者,皆名重海內。
若夫文王日昃不暇食,仲山甫夙夜匪懈者,蓋共嗤點以為灰塵,而相詬病矣。由是毀譽亂於善惡之實,情慝奔於貨慾之塗,選者為人擇官,官者為身擇利。而秉鈞當軸之士,身兼官以十數。大極其尊,小錄其要,機事之失,十恒八九。而世族貴戚之子弟,陵邁超越,不拘資次,悠悠風塵,皆奔競之士,列官千百,無讓賢之舉。子真著崇讓而莫之省,子雅制九班而不得用,長虞數直筆而不能糾。其婦女莊櫛織紝,皆取成於婢僕,未嘗知女工絲枲之業,中饋酒食之事也。先時而婚,任情而動,故皆不恥淫逸之過,不拘妒忌之惡。有逆于舅姑,有反易剛柔,有殺戮妾媵,有黷亂上下,父兄弗之罪也,天下莫之非也。又況責之聞四教於古,修貞順於今,以輔佐君子者哉!禮法刑政,於此大壞,如室斯構而去其鑿契,如水斯積而決其隄防,如火斯畜而離其薪燎也。國之將亡,本必先顛,其此之謂乎!

(通釈)

今や晋の王朝が興起したが、その功績は古来の百王より盛んであり、その創業は夏・殷・周の三代よりも速やかに行われた。
おもうにそれは野心に基づいて事を行ったからであろう。

宣帝(司馬懿)・景帝(司馬師)は、困難の山積している時代に遭遇したので、つとめて英明なる者を討伐し、有能の士人を誅殺して自らの創業に有利にしようとした。
それで周の公劉や太王の仁徳を学び修めるいとまがなかったのである。

魏の明帝の遺詔を受けて輔相の地位につくと、いくたびか天子の廃立に遭遇することになおったが、もとより斉王芳は不明の君であって、太甲の先例のように帝位にもどることができなかったし、高貴郷公は幼弱であって、成王の先例のように政権を返してもらうことができなかった。
晋の景帝と文帝(司馬昭)とは、禅譲の期に迫られていて、武王(周の)のごとくに天下の三分の二を領有し、八百の諸侯が期せずして会するのを待つというゆとりはなかったのである。
以上が晋王朝の開設の基礎が前代の周とことなっている点である。

しかもそれに加えて、朝廷の士人には徳に厚い者がすくなく、地方にも二心を抱かぬ父老が乏しかったのである。
風俗は奢侈に流れ、恥を知るものもおらず、学者は老荘思想を拠り所として、六経をかえりみず、議論する者は軽薄な空論を雄弁と考え、名節を卑しみ、行動する者は放逸なることを通達であると考え、礼節を狭隘であると考え、仕官する者はいいかげんに地位を得ることを貴んで正しい道にあって位に在ることをばかにし、役人たちは世俗のことにとらわれないのを貴いと考え、勤勉をあざわらった。
かくて三公をよぶのに蕭杌(愚か者)の名をもちい、国事の議論を虚談(たわごと)の名で称した。
劉頌がしばしば治道を献策したり、傅咸が過失を糾したりしたが、だれもがこれを俗吏と呼んだ。
一方、虚無の教えに依拠し、世俗的な欲望を絶ったかのように装う者たちは、みな海内に重んぜられた。

かの周の文王が一日を終えるまで食事するいとまもあらず、仲山甫が昼夜となく政務に怠ることのなかった事例は、いずれも談笑の的とされ、いずれも灰燼の如くに考えて、そのように励むことを恥とした。
こうした次第で、世の毀誉は善悪の実を混乱させ、人々の心は財貨を求めることに狂奔し、選官の任務にあたる者は、人の請託を受けて官吏を選び、選ばれた官吏はわが身のために利得を求めるようになった。
……
制度、法律の規定がかくて崩れてしまう状況は、たとえば、建物を構えて、そのくさびを抜き取るようなもの、あるいは、満々と水をためておいて、堤防を決壊させるようなもの、あるいは、盛んに火をあつめておいて、薪を抜き取るようなものである。
「国が亡びるときは、その大本からくつがえる」というのはこのことであろうか。

(通釈は漢文大系より)

これについての論文。

干宝晋紀考
尾崎 康
http://ci.nii.ac.jp/naid/110000980564

引用してみる。

晋紀総論は、晋紀の扱う西晋史の総論である。
具体的な歴史記録は、本文の各帝紀に詳述されたのであろうが、総論は、……西晋一代の諸帝にたいして、評価と批判をあたえたものである。
これは、史論として、また帝王論として、評判がたかかったらしく、六朝唐の関係主要図書にしばしば収録されている。晋紀総論は、西晋史総論であり、西晋の諸帝を例に取った帝王論であるから、そこから干宝の史観をうかがい知ることはできる。……

そして、その内容は、三祖の功業と武帝の即位、呉を平定しての統一の達成までは、その冒頭に大いに称賛しているものの、結局西晋滅亡論である。
したがって、西晋王朝に存在したあらゆる政権とその支持層に、これを滅亡させた責任がある、という考え方が根底にみられる
晋紀総論のなかに、西晋における玄談の流行や老荘の徒にたいする非難の一説がある。

……
『又加之、朝寡純徳之士、郷乏不二之老。…皆名重海内』というもので、これは当時の官僚社会の風潮をよく表現しているとして、しばしば引用されるものである。

このことは、晋紀総論が、天帝は晋朝を見放し、天下の政はすでに去ったものの、なお淳耀の烈はいまだはなれず、命世の雄が出ればこれを回復することができ、いま天命は中宗元皇帝に重集した、と結んでいることに明らかである。
長文の晋紀総論は、みかたをかえれば、この一行のための序説であると理解することもできるのである。
いわば、干宝の晋紀は西晋の亡国史であり、その事実を克明に叙述したものにほかならない。

……その西晋の滅亡は、しばしば指摘されるように、漢民族にとって、単なる一王朝の滅亡というにとどまらず、夷狄に数千年の故郷たる中原を侵され、天子皇后以下三万という百官男女が幽閉、陵辱、殺害の憂目に遇って、祖宗の地を棄てたのである。
東晋はこれを逃れて苦難の末に江南に落ち延びた流寓の政権であり、干宝は呉人であるが、当時は、……

老荘の徒の思想や態度にたいしても、いかに興味を寄せ、好意を持とうとも、これが滅亡の一要因であることを、歴史的な事実として、やはり指摘せざるをえなかったにちがいない。
干宝の非難の対象は恵帝の元康年間(291-299)を頂点とする、西晋一代を通しての老荘思想の異常な流行である。……

干宝や晋紀総論の評価が高かったということは、その内容も受け入れられるものだったんだろうなとか。

ということで、西晋、あるいはその創業者司馬氏の悪評のルーツをたどるとしたら、諸葛亮上げのとばっちりでもなく、まして羅貫中のせいでもなく、東晋の頃の西晋の無能さへの恨みが根底にあったんじゃないかなあと思えたり。

西晋の無能さのおかげで自分たちは散々な目にあわされたという認識は、東晋以降結構根強いものだったのかも。

たとえば現代日本でいうと、戦前の日本を批判するのが良識、みたいなところは続いていると思うけれど、それに少し近いとかいうこともありそう?

東晋と西晋の関係は日本の戦後戦前とある程度似ているのではないかと考えたら(勿論、安直な同一視は危険なのは当然として)、比喩として少しは近づけるかもしれないとは思ったり。

司馬氏と演義

演義の司馬氏は、ミクロ的には諸葛亮の敵役、引き立て役になっているとはいえると思う(空城の計とか)。

ただ演義は、司馬氏低評価かというと、それは違いそうという印象。

少なくともマクロ的な演義の三国志認識は、干宝的な西晋批判は採用していないっぽいし。

物語として、西晋の統一で終わらせたいということの副作用かもしれないけれど、それだけでもないと思える。

また、蜀は主人公勢力で優遇されているというよくある批判への疑問。

大枠には関係いない空城の計のエピソード等でめくらましになりがちだけれど、演義は蜀に勝たせてないし。

演義の三国志解釈は司馬昭の見解を採用している可能性

また、演義の蜀の国力評価そのものは、(実質)司馬昭の蜀評価の言葉をそのまま採用している可能性もありそう。

つまり、この陳留王紀の詔勅(実質司馬昭の意向だろうしってことで)。

夏五月,詔曰:
蜀,蕞爾小國,土狹民寡,而姜維虐用其衆,曾無廢志;往歲破敗之後,猶復耕種沓中,刻剝衆羌,勞役無已,民不堪命。夫兼弱攻昧,武之善經,致人而不致於人,兵家之上略。蜀所恃賴,唯維而已,因其遠離巢窟,用力為易。……」

夏五月、詔勅を下して述べた、
蜀はちっぽけな小国で、領土は狭く領民も少ないのに、姜維はその軍勢を酷使し、まったく素志を放棄しようとしない。先年敗北したのちも、なお沓中で耕作を行って、多くの羌人を搾取し、はてしなく役務を課し、民衆はその命令に耐えきれぬありさまである。
そもそも、弱者を併呑し道にはずれた者を攻撃するのは、武力行使のよき方法であり(『春秋左氏伝』宣公十二年)、敵を近くにおびきよせても、敵に遠くまでおびきよせられない(『孫子』虚実篇)のは、兵法家の上策である。
蜀が頼みにしているのは、ただ姜維一人である。
彼が遠く本拠を離れていることに乗ずれば、武力を行使するのはたやすい。
……」

演義の流れは、少なくともこの蜀解釈を採用しているんじゃないかな。

演義蜀過小評価説

この解釈をとれば確かに、演義的に、諸葛亮や姜維が勝てなかったのも所詮蜀が小国だったから、ということにはできて彼等が無能ということは回避できるかもしれない。
ただ一方で、よくある諸葛亮(姜維)批判にあるように、圧倒的な小国で到底勝ち目がないのに無駄な北伐をした迷惑な人物……という評価になるという結果にもつながる。

演義の諸葛亮や姜維がそういう批判を被るのは、この構造がある以上当然のことなのかもしれない。

ただ。

個人的には、勝機はあったけれど勝てなかった、のほうが好き。

勝敗は兵家の常って言葉あるし、これ好きだし。

てことで。
結果論から魏は過大評価蜀は過小評価になっていて(このバイアスを避けるのは難しいわけだし)、その評価を下地として作られた物語が演義なんだろうなと思っていたり。

能力評価について

蜀にとって、勝機はそれなりにあったと思う。

ただ、能力の評価についての自分の基本的見解なんだけど。

私が考える有能さというのは、(野球の)打率的なもの、防御率的なものだったり。

だから1回負けたから無能というのは、腑に落ちない。

戦争の場合、スポーツと違って1回きりということも多いのは確かだけれど、それでも能力評価の基本自体は変わらないと思えるし。

野球でいうと。
イチローでも、全盛期で4割程度(打率)。
てことは、10回のうち6回は凡退しているということに。

つまりイチロー並(実質殿堂並)の有能さを持つ指揮官でも、たくさん戦争すればそれなりに負けることもあるんじゃないの(打率と同じかはともかく)とは思えるし、すべてのチャンスを逃さないのでなければ無能評価というのは、非現実的なんじゃないかなとか。

また現代日本につなげてみるけれど(安易に多用するのは危険だけれど、これをしないから自分の現代日本人的な見解、あるいは無意識的な主観が含まれていないと考えることも、むしろ余計危険かもしれないし)。

一度失敗したら終わり、的な思想は、現代日本ではなんだかんだで結構一般的だと思う(それがいいかどうかの話ではない)。
で、その価値観も、敗者の能力その他の過小評価のバイアスへの志向ないしは嗜好につながっているんじゃないかな。

三国志愛好家のなかでわりと最近諸葛亮や蜀批判の勢力が強めなのは、そういう弱者とか敗者への嫌悪感や反感も根底にありそう、とも思えたり。

まあいいや。

おわりに

長くなったので今回はこの辺で。

最初は司馬昭について書こうと思ってたんだけど、前置きでここまでなったのでとりあえずおわり。

あと、前のブログに書いたことだけどもう一度整理して、干宝関連のことこっちにも収録したいかも。

司馬昭について続き









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