曹髦殺害事件の名前?
とりあえず。
曹髦曹髦が殺された事件(?)について、正式名称っぽいのとかあるのかな。
とか思ったけど今気にすることでもないからまあいいや……。
曹髦挙兵とか曹髦殺人事件(高貴郷公は長たらしいから使いたくない)とか、曹髦事件とかでいいんじゃないかなとか。
以下気分次第で適当に。
まずは、曹髦挙兵に関する記述?
陳寿が曹髦の死の詳細について書いてないので、裴松之の注で確認。
ちなみに裴松之が一番評価しているのは、漢晋春秋だそう(臣裴松之は考える。習鑿歯の書(漢晋春秋)は最後にできたものであるとはいえ、この事件の叙述においてほぼ筋道が立っている。だからまず習鑿歯の記録を掲載した)。
漢晋春秋曰:帝見威権日去,不勝其忿。乃召侍中王沈、尚書王經、散騎常侍王業,謂曰:「司馬昭之心,路人所知也。吾不能坐受廢辱,今日當與卿自出討之。」王經曰:「昔魯昭公不忍季氏,敗走失国,為天下笑。今権在其門,為日久矣,朝廷四方皆為之致死,不顧逆順之理,非一日也。且宿衛空闕,兵甲寡弱,陛下何所資用,而一旦如此,無乃欲除疾而更深之邪!禍殆不測,宜見重詳。」帝乃出懷中版令投地,曰:「行之決矣。正使死,何所懼?況不必死邪!」於是入白太后,沈、業奔走告文王,文王為之備。帝遂帥僮僕數百,鼓譟而出。文王弟屯騎校尉伷入,遇帝於東止車門,左右呵之,伷衆奔走。中護軍賈充又逆帝戦於南闕下,帝自用剣。衆欲退,太子舍人成濟問充曰:「事急矣。當云何?」充曰:「畜養汝等,正謂今日。今日之事,無所問也。」濟即前刺帝,刃出於背。文王聞,大驚,自投於地曰:「天下其謂我何!」太傅孚奔往,枕帝股而哭,哀甚,曰:「殺陛下者,臣之罪也。」
臣松之以為習鑿齒書,雖最後出,然述此事差有次第。故先載習語,以其餘所言微異者次其後。
世語曰:王沈、王業馳告文王,尚書王經以正直不出,因沈、業申意。
晋諸公贊曰:沈、業将出,呼王經。經不從,曰:「吾子行矣!」
干寶晋紀曰:成濟問賈充曰:「事急矣。若之何?」充曰:「公畜養汝等,為今日之事也。夫何疑!」濟曰:「然。」乃抽戈犯蹕。
魏氏春秋曰:戊子夜,帝自将冗從僕射李昭、黄門從官焦伯等下陵雲台,鎧仗授兵,欲因際会,自出討文王。会雨,有司奏卻日,遂見王經等出黄素詔於懷曰:「是可忍也,孰不可忍也!今日便當決行此事。」入白太后,遂拔剣升輦,帥殿中宿衛蒼頭官僮撃戦鼓,出雲龍門。賈充自外而入,帝師潰散,猶稱天子,手剣奮撃,衆莫敢逼。充帥厲将士,騎督成倅弟成濟以矛進,帝崩於師。時暴雨雷霆,晦冥。
魏末傳曰:賈充呼帳下督成濟謂曰:「司馬家事若敗,汝等豈復有種乎?何不出撃!」倅兄弟二人乃帥帳下人出,顧曰:「當殺邪?執邪?」充曰:「殺之。」兵交,帝曰:「放仗!」大将軍士皆放仗。濟兄弟因前刺帝,帝倒車下。
『魏氏春秋』にいう。
戊子の日(六日)の夜、帝はみずから冗従僕射李昭、黄門従官の焦伯らをひきつれて陵雲台を下り兵士に鎧と武器を与え、機会をとらえて、自身出撃し、司馬文王(司馬昭)を討ちとろうとした。ちょうど雨が降ってきたため、担当役人が日のべをするよう上奏したが、そのまま王経らと会見して、ふところから黄素にしたためた勅令をとりだし、「これががまんできるなら、がまんできないことなぞどこにあろうか。今日こそただちにこの事を決行すべきである」といい、皇太后のもとに参内して次第を申しあげた。
かくして剣を抜き車に乗り、宮中にいる宿衛の士、下僕・奴隷をひきい軍鼓を鳴らして、雲龍門から出撃した。
賈充が外から突入してきたため、帝の軍勢は崩壊したが、依然として天子の名をとなえ、剣を手に奮い立って敵を討ったので、賈充の軍勢は思い切って側へ近づこうとしなかった。賈充が将兵を督励し、騎督の成倅の弟の成済が矛をかざしてつき進み、帝はいくさの中でみまかった。ちょうどこのとき、激しい雨が降り、雷鳴がとどろき、あたりは真っ暗であった。
曹髦挙兵における曹髦成功のシミュレーション?
これは一応悩んでるんだけれど。
結果論としては曹髦は失敗しているから挙兵したのは馬鹿だったみたいになるかもしれないけれど。
結果論には個人的にあまり興味ないので、曹髦視点の確率的なことのほうが気になったり。
で、成功率0じゃないと思う、あるいは0ではないと仮定すると、どういう条件が揃えば曹髦の挙兵は成功するのか。
というシミュレーションに興味ある感じ……。
曹髦が張飛(長阪)並の個人的武勇を持っていれば挙兵成功率は上がったはず
まず思いついているのはこれ。
一応、曹髦をできるかぎり(自分が)殺したくないという現場の人たちは多かったみたいなので、そういう状況なら曹髦の武勇が図抜けているだけで、とりあえず殺されない程度に戦意喪失させられたかもしれないのではないかという可能性。
曹髦は、鍾会から武は曹操のようだと評されている(孫盛の魏氏春秋によると)。
魏氏春秋曰:公神明爽俊,德音宣朗。罷朝,景王私曰:「上何如主也?」鍾会對曰:「才同陳思,武類太祖。」景王曰:「若如卿言,社稷之福也。」
『魏氏春秋』にいう。高貴郷公は英明で颯爽としており、ことばははっきりとよく通った。朝廷から退出すると司馬景王がひそかに、「お上はどのような君主か」というと、鍾会は、「才能は陳思王(曹植)と同じほど、武勇は太祖と似ておられます」と答えた。司馬景王はいった、「きみのいうとおりなら、社稷にとって幸福である」と。
でもって、同じ孫盛(異同雑語)が描いた曹操の武がこんな感じのものだったり。
(武帝紀)
孫盛異同雜語云、太祖嘗私入中常侍張讓室、讓覺之;乃舞手戟於庭、逾垣而出。才武絶人、莫之能害。
博覽群書、特好兵法、抄集諸家兵法、名曰接要、又注孫武十三篇、皆伝於世。嘗問許子将、「我何如人?」子将不答。固問之、子将曰、「子治世之能臣、乱世之奸雄。」太祖大笑。年二十、挙孝廉為郎、除洛陽北部尉、遷頓丘令、孫盛の『異同雑語』にいう。
太祖はあるとき中常侍張譲の邸宅にこっそり侵入した。張譲はそれに気がついた。そこで〔太祖(曹操)は〕庭の中で手にもった戟をふりまわし、土塀をのり越えて逃げ出した。人並みはずれた武技で、誰も彼を殺害できなかった。……
つまり孫盛は、若いころの曹操について「才武絶人(ちくま訳:人並みはずれた武技で)」と評している。
つまり、孫盛が、鍾会が語ったとする曹髦の武についても、この曹操の武(年齢的にも曹髦二十歳なので同じくらいか?)の同類(武類太祖)のものを想定してた――という風にとることもできそう。
で、この鍾会評は曹髦14歳のときのものだから、曹髦が14歳で「才武絶人(ちくま訳:人並みはずれた武技)」の持ち主だったならば、20歳では更に上の水準の「才武絶人(ちくま訳:人並みはずれた武技)」の持ち主になれた可能性はあったはず。
ただし、即位後の曹髦については、文学、学問、絵……に凝っていた記述はあるけれども、武芸に凝っていた系の記述は特に残っていないような。
挙兵にあたって剣を奮っているので、20歳時点でもそれなりの武芸者ではあったかもしれない。
ただし、祖父の曹丕に撃剣に凝っているエピソードが残っていることを考えれば、曹髦にそれらがないのは、もしかするとそれほど力を入れていなかったのかもしれないとも思ったり。
要するに、張飛並に制圧できなかった以上(天子の名前があるのに)、曹髦はもう少し武芸の鍛錬をすればよかったのではないか。
(張飛伝)
飛據水断橋、瞋目横矛曰、「身是張益徳也、可来共決死!」敵皆無敢近者、故遂得免。
張飛は川をたてにして橋を切り落とし、目をいからせて矛を小脇にして、「わが輩が張益徳である。やってこい。死を賭して戦おうぞ」と呼ばわった。誰も思いきって近づこうとはせず、そのため先主は助かった。
てことで。
これがまずはじめに思いついた曹髦が成功する確率upの方法だったり。
曹髦はもっと人を見る目を養う必要があったのでは
結果論的には、曹髦が頼ろうとした王経たちの人選が大失敗だったわけで。
つまり、曹髦はもっと人を見る目を養う必要はあったということに(隣の呉では、孫休はちゃんと人選や計画でミスせずに孫綝殺せてるんだし。これ曹髦への影響あったんだと思ってるけど)。
とはいえ曹髦にとって正解の人物がそもそも存在していたのか……という問題もあるけれど。
ただ、曹髦の死の4年後、同じように司馬昭に対して反乱を起こした鍾会がいるわけだし、曹髦が曹髦の乱のやり直しをするなら、最初に手をつけるべきところは鍾会をちゃんと利用することじゃないかな。
曹髦は鍾会と親しかった(といっても曹髦を裏切った人間が曹髦と親しくなかったわけでもないっぽいところがあれだけど)し。
曹髦は後に司馬昭に対して反乱を起こす鍾会と親しかったんだし利用するべきだったのでは?
てことで、曹髦挙兵計画の改善点として有力なのは、曹髦は後に司馬昭に対して反乱を起こす鍾会と親しかったんだし利用するべきだった――という辺りじゃないかなとか。
そもそもこの事件に関しては、鍾会が何をしていたかよくわからないのがすごく不思議だったり。
そもそも曹髦が死んだ時に、このころ何にでも口出ししていて司馬昭の腹心だったはずの鍾会は、どこで何していたのか?
これについては、昔から気になっていたし、まあ創作的にはいろいろ案も思いついているけれど(そのうち書きたい)、それでもどうなのかなあとは思っていたり……。
で。
鍾会をそそのかして利用することをもう少し曹髦が考えていれば、曹髦に勝ち目があると判断すれば鍾会は別に(後のことを考えても)曹髦に味方もしただろうし。
てか鍾会の場合、司馬昭の方に勝ち目がないと思えば司馬氏側につく理由はないだろうし。目先の利益に目がくらむとか評されているし。
あ、今思いついたけど、曹髦が三顧の礼とかで鍾会を頼れば、鍾会も少しはこの時点で司馬昭殺害が可能か、前向きに検討くらいはしたんじゃないかなとか。
公とか相国とか九錫とか丞相とかでつったら、鍾会は動くと思うけど(勝算があれば)……。
でもって、鍾会は性格はともかく、軍略的才能はあったと評価しているし。
つまり、諸葛誕の乱、蜀征伐の二つの功績について。
司馬昭は他人の功績も晋の陳寿によって盛られる立場なので、司馬昭の功績のようにかかれていても事実かはまず疑ってみる必要があるけれど。
一方の鍾会はというと、反逆者(晋、司馬氏にたいして)であった立場から、晋の陳寿からは当人の功績も消されてもおかしくはない立場だったり。
なので、司馬昭、鍾会両方の功績のように書かれていることについては、司馬昭は間引いて考える必要があるのに対して、鍾会の場合は、消すことができなかったほど歴然とした事実だった、ということで信憑性は足して考えていいと思ったり。
なので、個人的には、諸葛誕の乱、蜀征伐の二つは、どっちもおおよそ鍾会の計画どおり(鄧艾のことも、その後の更迭に成功しているので計算の範囲内だといいはることもできなくはなさそうだし)で、鍾会の功績(才能)――というふうに考えている感じ。
だから、鍾会が曹髦にこの時点で手を貸したら、司馬氏を倒すことに成功する可能性自体は充分あったんじゃないかなとか。
その後のことは不問(鍾会にとっては曹髦は司馬昭よりどう考えても動かしづらそうだし、曹髦にとっては司馬昭が鍾会にとってかわるのはそれはましな状況になったといえるのかとか)として……。
呉のことを考えても、諸葛恪が死んでも次は孫峻で更に事態は悪化した(多分)という実例があるわけだし。
まとめ
とりあえず、個人的には、鍾会と曹髦ファンなので、残ったのが鍾会と曹髦になれば、どっちも好きなので幸せではあるかもしれない。
鍾会と曹髦(あるいは曹髦挙兵)については、小説書きたいなーと思ってて(一部は書いた)、今は別の話(一応鍾会も曹髦もでるけど、これは今回は扱わない)書いてるから当面無理。
小説は、書くスピード(思いつくではなく仕上げて公開するスピード)をあげないと、いろいろ処理しきれなくて困る。
とりあえずおわり。