姜維(きょうい)、字は伯約。
202-264。
天水郡冀県の人。父は姜冏。
姜維年表
姜維関連の年表。
基本的には姜維伝より。
北伐関連年表はこちら。
202年(建安7-献帝)
1歳。
姜維誕生(父姜冏)。
(姜維伝)
姜維,字伯約,天水冀人也。少孤,與母居,好鄭氏學。
姜維は字を伯約といい、天水郡冀県の人である。
幼くして父を失い、母と暮らした。鄭玄の学問を好んだ。
208年(建安13-献帝)
7歳。
赤壁の戦い。
211年(建安16-献帝)
10歳。
潼関の戦い。
(武帝紀)
(建安十六年-211)
九月,進軍渡渭。
超等數挑戰,又不許;固請割地,求送任子,公用賈詡計,偽許之。韓遂請與公相見,公與遂父同歲孝廉,又與遂同時儕輩,於是交馬語移時,不及軍事,但說京都舊故,拊手歡笑。既罷,超等問遂:「公何言?」遂曰:「無所言也。」超等疑之。
他日,公又與遂書,多所點竄,如遂改定者;超等愈疑遂。
公乃與克日會戰,先以輕兵挑之,戰良久,乃縱虎騎夾擊,大破之,斬成宜、李堪等。
遂、超等走涼州,楊秋奔安定,關中平。
……
冬十月,軍自長安北征楊秋,圍安定。
秋降,復其爵位,使留撫其民人。
十二月,自安定還,留夏侯淵屯長安。
212年(建安17-献帝)
11歳。
天水での出来事。
姜維父が死んだのはこの辺関連?
(楊阜伝)
馬超之戦敗渭南也、走保諸戎。太祖追至安定、而蘇伯反河間、将引軍東還。阜時奉使、言於太祖曰、「超有信、布之勇、甚得羌、胡心、西州畏之。若大軍還、不厳為之備、隴上諸郡非国家之有也。」太祖善之、而軍還倉卒、為備不周。超率諸戎渠帥以撃隴上郡県、隴上郡県皆応之、惟冀城奉州郡以固守。超尽兼隴右之衆、而張魯又遣大将楊昂以助之、凡万余人、攻城。阜率国士大夫及宗族子弟勝兵者千余人、使従弟岳於城上作偃月営、与超接戦、自正月至八月拒守而救兵不至。州遣別駕閻温循水潛出求救、為超所殺、於是刺史、太守失色、始有降超之計。阜流涕諫曰、「阜等率父兄子弟以義相勵、有死無二;田単之守、不固於此也。棄垂成之功、陷不義之名、阜以死守之。」遂号哭。刺史、太守卒遣人請和、開城門迎超。超入、拘岳於冀、使楊昂殺刺史、太守。
阜内有報超之志、而未得其便。頃之、阜以喪妻求葬仮。阜外兄姜敘屯歴城。阜少長敘家、見敘母及敘、説前在冀中時事、歔欷悲甚。敘曰、「何為乃爾?」阜曰、「守城不能完、君亡不能死、亦何面目以視息於天下!馬超背父叛君、虐殺州将、豈独阜之憂責、一州士大夫皆蒙其恥。君擁兵專制而無討賊心、此趙盾所以書弒君也。超強而無義、多釁易図耳。」敘母慨然、敕敘従阜計。計定、外与郷人姜隱、趙昂、尹奉、姚瓊、孔信、武都人李俊、王霊結謀、定討超約、使従弟謨至冀語岳、並結安定梁寬、南安趙衢、龐恭等。約誓既明、十七年九月、与敘起兵於鹵城。超聞阜等兵起、自将出。而衢、寬等解岳、閉冀城門、討超妻子。超襲歴城、得敘母。敘母罵之曰、「汝背父之逆子、殺君之桀賊、天地豈久容汝、而不早死、敢以面目視人乎!」超怒、殺之。阜与超戦、身被五創、宗族昆弟死者七人。超遂南奔張魯。馬超は渭南で戦って敗れると、逃走して蛮族たちを支配した。
太祖は追撃して安定まで来たが、蘇伯が河間で反乱を起こしたので、軍をひきあげ東に帰ろうとした。
楊阜は当時使者となっていたが太祖に進言した、
「馬超は韓信・鯨布の武勇をもち、はなはだ羌族の心をつかんでおりまして、西方の州では彼を恐れています。
もし大軍が帰還しますならば、厳重にその備えをしない限り、隴上の諸郡(隴西、南安、漢陽、永陽)は国家のものでなくなりましょう」
太祖はその言葉をもっともだとしたが、軍の帰還があわただしかったために、ゆきとどいた備えをしなかった。馬超は蛮族の酋長たちをひきい隴上の郡県を攻撃した。
隴上の郡県はすべて彼に呼応し、ただ冀城だけが州郡(の刺史・太守)を奉じて固守した。
馬超は隴右の軍勢をすべてあわせたうえに、張魯が大将の楊昂を派遣して彼を助けていた。
合計一万余人が城を攻撃した。
楊阜は国の士大夫と一族の子弟のうち戦争にたえられる者計千余人をひきい、従弟の楊岳に城壁の上に偃月形の陣営を作らせ、馬超と戦闘を交えた。
正月から八月まで抵抗したが救援の兵はやってこなかった。
州では別駕の閻温に水中をくぐりぬけて城を出、救援を要請させたが、馬超に殺された。
その結果、刺史と太守は色を失い、馬超に降伏しようと考えるようになった。
楊阜は涙を流していさめ、述べた、
「私どもは父兄子弟をひきいて道義をもって励ましあい、たとえ死ぬことはあっても二心をもつことはありません。田単の守備でも、これほど堅固ではありません。〔降伏は〕ほとんどなしとげられた功業を棄て去り、不義の名におちいります。私は死をもって守りますぞ。」かくて号泣した。
刺史と太守はついに人をやって和議を請い、城門を開いて馬超を迎えた。
馬超は入城すると、冀に楊岳を拘束し、楊昂に刺史と太守を殺させた。誓約が明確になったのち、十七年(212)九月、姜叙と鹵城で兵をあげた。
馬超は楊阜らが旗あげしたと聞くと、みずから兵をひきいて出陣した。
ところが趙衢・梁寛らは楊岳を解放し、冀の城門を閉ざし、馬超の妻子を討伐した。
馬超は歴城を襲撃して姜叙の母をとらえた。
姜叙の母は彼を罵倒した、
「おまえは父にそむいた逆子、君を殺した凶賊じゃ。天も地もどうして長い間おまえをゆるしておこうか。それなのに、早く死にもせず、平気でどのつらをさげて人をみるのか。」
馬超は腹を立てて彼女を殺した。
楊阜は馬超と戦い、身体に五箇所の傷を受け、一族の弟たち七人が戦死した。
馬超はかくて南方張魯のもとに逃走した。
皇甫謐列女傳曰:
姜敘母者,天水姜伯奕之母也。建安中,馬超攻冀,害涼州刺史韋康,州人凄然,莫不感憤。……
(閻温伝)
閻溫字伯儉,天水西城人也。以涼州別駕守上邽令。
馬超走奔上邽,郡人任養等舉眾迎之。
溫止之,不能禁,乃馳還州。超復圍州所治冀城甚急,州乃遣溫密出,告急於夏侯淵。
賊圍數重,溫夜從水中潛出。
明日,賊見其跡,遣人追遮之,於顯親界得溫,執還詣超。
超解其縛,謂曰:
「今成敗可見,足下為孤城請救而執於人手,義何所施?若從吾言,反謂城中,東方無救,此轉禍為福之計也。不然,今為戮矣。」
溫偽許之,超乃載溫詣城下。
溫向城大呼曰:「大軍不過三日至,勉之!」城中皆泣,稱萬歲。
超怒數之曰:「足下不為命計邪?」溫不應。
時超攻城久不下,故徐誘溫,冀其改意。
復謂溫曰:「城中故人,有欲與吾同者不?」溫又不應。
遂切責之,溫曰:「夫事君有死無貳,而卿乃欲令長者出不義之言,吾豈苟生者乎?」超遂殺之。
(夏侯淵伝)
十七年,太祖乃還鄴,以淵行護軍將軍,督硃靈、路招等屯長安,擊破南山賊劉雄,降其眾。圍遂、超餘黨梁興於鄠,拔之,斬興,封博昌亭侯。
馬超圍涼州刺史韋康於冀,淵救康,未到,康敗。去冀二百餘里,超來逆戰,軍不利。汧氐反,淵引軍還。
213年(建安18-献帝)
12歳。
(武帝紀)
十一月,初置尚書、侍中、六卿。
馬超在漢陽,復因羌、胡為害,氐王千萬叛應超,屯興國。
使夏侯淵討之。※漢陽は天水
(資治通鑑、213年)
初,魏公操追馬超至安定,聞田銀、蘇伯反,引軍還。
參涼州軍事楊阜言於操曰:「超有信、布之勇,甚得羌、胡心;若大軍還,不設備,隴上諸郡非國家之有也。」操還,超果率羌、胡擊隴上諸郡縣,郡縣皆應之,惟冀城奉州郡以固守。
超盡兼隴右之眾,張魯復遣大將楊昂助之,凡萬餘人,攻冀城,自正月至八月,救兵不至。
刺史韋康遣別駕閻溫出,告急於夏侯淵,外圍數重,溫夜從水中潛出。明日,超兵見其跡,遣追獲之。
超載溫詣城下,使告城中云:「東方無救。」溫向城大呼曰:「大軍不過三日至,勉之!」城中皆泣,稱萬歲。
超雖怒,猶以攻城久不下,徐徐更誘溫,冀其改意。
溫曰:「事君有死無二,而卿乃欲令長者出不義之言乎!」超遂殺之。
已而外救不至,韋康太守欲降。
楊阜號哭諫曰:「阜等率父兄子弟以義相勵,有死無二,以為使君守此城。今奈何棄垂成之功,陷不義之名乎!」
刺史、太守不聽,開城門迎超。
超入,遂殺刺史、太守,自稱征西將軍、領并州牧、督涼州軍事。
魏公操便夏侯淵救冀,未到而冀敗。
淵去冀二百餘里,超來逆戰,淵軍不利。
氐王千萬反應超,屯興國,淵引軍還。
會楊阜喪妻,就超求假以葬之。
阜外兄天水姜敘為撫夷將軍,擁兵屯歷城。
阜見敘及其母,歔欷悲甚。
敘曰:「何為乃爾?」阜曰:「守城不能完,君亡不能死,亦何面目以視息於天下!馬超背父叛君,虐殺州將,豈獨阜之憂責,一州士大夫皆蒙其恥。君擁兵專制而無討賊心,此趙盾所以書弒君也。超強而無義,多釁,易圖耳。」敘母慨然曰:「咄!伯奕,韋伯君遇難,亦汝之負,豈獨義山哉!人誰不死,死於忠義,得其所也。但當速發,勿復顧我;我自為汝當之,不以餘年累汝也。」
敘乃與同郡趙昂、尹奉、武都李俊等合謀討超,又使人至冀,結安定梁、南安趙衢使為內應。
超取趙昂子月為質,昂謂妻異曰:「吾謀如是,事必萬全,當奈月何?」異聲應曰:「雪君父之大恥,喪元不足為重,況一子哉!」
九月,阜與敘進兵,入鹵城,昂、奉據祁山,以討超。
超聞之,大怒,趙衢因譎說超,使自出擊之。
超出,衢與梁閉冀城門,盡殺超妻子。
超進退失據,乃襲歷城,得敘母。敘母罵之曰:「汝背父之逆子,殺君之桀賊,天地豈久容汝!而不早死,敢以面目視人乎!」超殺之,又殺趙昂之子月。楊阜與超戰,身被五創。
超兵敗,遂南奔張魯。
魯以超為都講祭酒,欲妻之以女。或謂魯曰:「有人若此,不愛其親,焉能愛人!」魯乃止。操封討超之功,侯者十一人,賜楊阜爵關內侯。
214年(建安19-献帝)
13歳。
(夏侯淵伝)
十九年,趙衢、尹奉等謀討超,姜敘起兵鹵城以應之。衢等譎說超,使出擊敘,於后盡殺超妻子。
超奔漢中,還圍祁山。敘等急求救,諸將議者欲須太祖節度。淵曰:「公在鄴,反覆四千里,比報,敘等必敗,非攻急也。」遂行,使張郃督步騎五千在前,從陳倉狹道入,淵自督糧在後。郃至渭水上,超將氐羌數千逆郃。未戰,超走,郃進軍收超軍器械。淵到,諸縣皆已降。韓遂在顯親,淵欲襲取之,遂走。
(武帝紀)
十九年春正月,始耕籍田。
南安趙衢、漢陽尹奉等討超,梟其妻子,超奔漢中。
219年(建安24-献帝)
18歳。
定軍山の戦い。
劉備漢中王。
(姜維伝)
〈傅子曰:維為人好立功名,陰養死士,不脩布衣之業。〉
『傅子』にいう。姜維は功名を樹立することを好む人物で、ひそかに決死の士を養い、庶民の生業にたずさわらなかった。
(姜維伝)
仕郡上計掾,州闢為從事。以父冏昔為郡功曹,值羌、戎叛乱,身衛郡将,沒於戦場,賜維官中郎,參本郡軍事。
郡に出仕して上計掾となり、州に召し出されて従事に任命された。父の姜冏は昔、郡の功曹であったとき、羌族の反乱に遭遇し、身をもって群将を守って戦場で死亡した。そのため姜維に中郎の官を贈り、本郡の軍事に参与させた。
220年(延康元-献帝/黄初元-曹丕)
19歳。後漢滅亡。
221年(黄初2-曹丕/章武元-劉備/-)
20歳。
劉備即位。蜀漢建国。
222年(黄初3-曹丕/章武2-劉備/黄武元-孫権)
21歳。
夷陵の戦い。
228年(太和2-曹叡/建興6-劉禅/黄武7-孫権)
27歳。
姜維、蜀へ。
倉曹掾、奉義将軍、当陽亭侯。
(姜維伝)
建興六年,丞相諸葛亮軍向祁山,時天水太守適出案行。
維及功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔等從行。太守聞蜀軍垂至而諸縣響應,疑維等皆有異心,於是夜亡保上邽。
維等覺太守去,追遲,至城門,城門已閉,不納。維等相率還冀,冀亦不入維。
維等乃俱詣諸葛亮。会馬謖敗於街亭。亮拔将西縣千餘家及維等還,故維遂與母相失。建興六年(228)、丞相諸葛亮の軍が祁山に向った。そのとき、天水の太守はたまたま巡察に出かけ、姜維および功曹の梁緒、主簿の尹賞、主記の梁虔らが随行していた。太守は蜀軍が今にもおし寄せんとしており、諸県も呼応していると聞くと、姜維らすべてが異心を抱いているのではないかと疑った。そこで夜半逃亡して上邽にたてこもった。
姜維らは太守が逃亡したのに気づくと追いかけたが、城門にたどりついたころには、城門はすでに閉ざされ、中に入れてくれなかった。
姜維らが連れだって冀県に帰ってくると、冀県もまた姜維を入れてくれなかった。姜維らはそこでいっしょに諸葛亮のもとへ赴いた。
たまたま馬謖が街亭で敗北し、諸葛亮は西県を陥して千余軒の住民を連れ出し、姜維らを率いて帰還した。そのため姜維は母と離ればなれになってしまった。〈魏略曰:天水太守馬遵将維及諸官屬隨雍州刺史郭淮偶自西至洛門案行,會聞亮已到祁山,淮顧遵曰:「是欲不善!」遂驅東還上邽。遵念所治冀縣界在西偏,又恐吏民樂乱,遂亦隨淮去。時維謂遵曰:「明府當還冀。」遵謂維等曰:「卿諸人(回)覆信,皆賊也。」各自行。維亦無如遵何,而家在冀,遂與郡吏上官子脩等還冀。冀中吏民見維等大喜,便推令見亮。二人不獲已,乃共詣亮。亮見,大悅。未及遣迎冀中人,會亮前鋒為張郃、費繇等所破,遂将維等卻縮。維不得還,遂入蜀。諸軍攻冀,皆得維母妻子,亦以維本無去意,故不沒其家,但系保官以延之。此語與本傳不同。〉
亮辟維為倉曹掾,加奉義将軍,封當陽亭侯,時年二十七。
諸葛亮は姜維を召し出して倉曹掾とし、奉義将軍の官位を加え、当陽亭侯に封じた。時に二十七歳であった。
〈魏略曰:天水太守馬遵将維及諸官屬隨雍州刺史郭淮偶自西至洛門案行,会聞亮已到祁山,淮顧遵曰:「是欲不善!」遂驅東還上邽。遵念所治冀縣界在西偏,又恐吏民樂乱,遂亦隨淮去。時維謂遵曰:「明府當還冀。」遵謂維等曰:「卿諸人(回)覆信,皆賊也。」各自行。維亦無如遵何,而家在冀,遂與郡吏上官子脩等還冀。冀中吏民見維等大喜,便推令見亮。二人不獲已,乃共詣亮。亮見,大悅。未及遣迎冀中人,会亮前鋒為張郃、費繇等所破,遂将維等卻縮。維不得還,遂入蜀。諸軍攻冀,皆得維母妻子,亦以維本無去意,故不沒其家,但系保官以延之。此語與本傳不同。〉
亮與留府長史張裔、參軍蔣琬書曰:
「姜伯約忠勤時事,思慮精密,考其所有,永南、季常諸人不如也。其人,涼州上士也。」
又曰:「須先教中虎歩兵五六千人。姜伯約甚敏於軍事,既有膽義,深解兵意。此人心存漢室而才兼於人,畢教軍事,當遣詣宮,覲見主上。」諸葛亮は、留府長史の張裔、参軍の蔣琬に手紙を送って、「姜伯約は与えられたその時の仕事を忠実に勤め、思慮精密であり、彼のもっている才能を考えると、永南・季常(馬良)らの諸君も及ばないものがある。この男は涼州における最高の人物である。」と述べた。
また、「まず中虎歩軍の兵五、六千人を教練する必要がある。姜伯約は軍事にはなはだ敏達していて、度胸もあるうえ、兵士の気持ちを深く理解している。この男は漢室に心を寄せ、しかも人に倍する才能を有しているゆえ、軍事の教練が終わったら、宮中に参上させ、主上にお目通りさせてもらいたい」ともいった。〈孫盛雜記曰:初,姜維詣亮,與母相失,復得母書,令求當歸。維曰:「良田百頃,不在一畝,但有遠志,不在當歸也。」〉
229年(太和3-曹叡/建興7-劉禅/黄龍元-孫権)
28歳。
(多分)倉曹掾、奉義将軍、当陽亭侯。または、中監軍、征西将軍。
(姜維伝)
後遷中監軍、征西将軍。
後に中監軍・征西将軍に昇進した。
※何年か不明
230年(太和4-曹叡/建興8-劉禅/黄龍2-孫権)
29歳。
(多分)倉曹掾、奉義将軍、当陽亭侯。または、中監軍、征西将軍。
231年(太和5-曹叡/建興9-劉禅/黄龍3-孫権)
30歳。
(多分)倉曹掾、奉義将軍、当陽亭侯。または、中監軍、征西将軍。
232年(太和6-曹叡/建興10-劉禅/嘉禾元-孫権)
31歳。
(多分)倉曹掾、奉義将軍、当陽亭侯。または、中監軍、征西将軍。
233年(青龍元-曹叡/建興11-劉禅/嘉禾2-孫権)
32歳。
(多分)中監軍、征西将軍。
234年(青龍2-曹叡/建興12-劉禅/嘉禾3-孫権)
33歳。
中監軍、征西将軍→(諸葛亮死後)右監軍、輔漢将軍、平襄侯。
五丈原の戦い。
諸葛亮死去。
魏延、殺される。
成都に帰還。
十二年,亮卒,維還成都,為右監軍、輔漢将軍,統諸軍,進封平襄侯。
十二年(234)、諸葛亮がなくなると、姜維は成都に帰還し、右監軍・輔漢将軍となって、諸軍を統率し、平襄侯に爵位をあげられた。
235年(青龍3-曹叡/建興13-劉禅/嘉禾4-孫権)
236年(青龍4-曹叡/建興14-劉禅/嘉禾5-孫権)
237年(景初元-曹叡/建興15-劉禅/嘉禾6-孫権)
238年(景初2-曹叡/延煕元-劉禅/赤烏元-孫権)
37歳。
右監軍、輔漢将軍、平襄侯。
蒋琬に従って漢中駐屯。
延熙元年,隨大将軍蔣琬住漢中。
延熙元年(238)、大将軍蒋琬に随行して漢中に駐屯した。
239年(景初3-曹叡、曹芳/延煕2-劉禅/赤烏2-孫権)
38歳。
琬既遷大司馬。以維為司馬,數率偏軍西入。
蒋琬が大司馬に昇進した後(239)、姜維は司馬に任命され、たびたび一軍を指揮して、西方へ侵入した。
240年(正始元-曹芳/延煕3-劉禅/赤烏3-孫権)
39歳。
(郭淮伝)
正始元年(240),蜀将羌維出隴西。淮遂進軍,追至強中,維退,遂討羌迷當等,按撫柔氐三千餘落,拔徙以實関中。
遷左将軍。
涼州休屠胡梁元碧等,率種落二千餘家附雍州。淮奏請使居安定之高平,為民保障,其後因置(西川)〔西州〕都尉。轉拜前将軍,領州如故。正始元年(240)、蜀将の姜維が隴西に出陣した。
郭淮はかくて軍を進め、彊中まで追撃し、姜維は退却した。
そのまま羌族迷当らを討伐し、従順な氐族三千余部落を鎮撫し、強制移住させて関中を充実させた。
241年(正始2-曹芳/延煕4-劉禅/赤烏4-孫権)
40歳。
(後主伝)
四年冬十月,尚書令費禕至漢中,與蔣琬咨論事計,歲盡還。
242年(正始3-曹芳/延煕5-劉禅/赤烏5-孫権)
41歳。
漢中から涪に移る。
(後主伝)
五年春正月,監軍姜維督偏軍,自漢中還屯涪縣。
243年(正始4-曹芳/延煕6-劉禅/赤烏6-孫権)
42歳。
鎮西大将軍、涼州刺史。
蒋琬、漢中から涪に移る。
費禕、大将軍。
(後主伝)
六年冬十月,大司馬蔣琬自還漢中,住涪。
十一月,大赦。以尚書令費禕為大将軍
(蒋琬伝)
琬以為昔諸葛亮數窺秦川,道險運艱,競不能克,不若乘水東下。乃多作舟船,欲由漢、沔襲魏興、上庸。會舊疾連動,未時得行。而眾論鹹謂如不克捷,還路甚難,非長策也。於是遣尚書令費禕、中監軍姜維等喻指。
琬承命上疏曰:
「芟穢弭難,臣職是掌。自臣奉辭漢中,已經六年,臣既闇弱,加嬰疾疢,規方無成,夙夜憂慘。今魏跨帶九州,根蒂滋蔓,平除未易。若東西並力,首尾掎角。雖未能速得如志,且當分裂蠶食,先摧其支黨。然吳期二三,連不克果,俯仰惟艱,實忘寢食。輒與費禕等議,以涼州胡塞之要,進退有資,賊之所惜;且羌、胡乃心思漢如渴。又昔偏軍人羌,郭淮破走,算其長短,以為事首,宜以姜維為涼州刺史。若維征行,銜持河右,臣當帥軍為維鎮繼。今涪水陸四通,惟急是應。若東北有虞,赴之不難。」
由是琬遂還住涪。蒋琬は、昔、諸葛亮がたびたび秦川をうかがいながら、道路の険阻と運送の困難のために、けっきょく成功できなかったのだから、水に乗って東方へ下るほうがよいと考えた。そこで多くの船舶を造り、漢水・汴水を通って魏興・上庸を襲撃しようと望んだ。たまたま持病が続けざまに起ったため、ただちに実行に移せないでいた。しかも大多数の意見は、すべてもしも勝利が得られなかった場合、帰途ははなはだ困難になるだろうから、秀れた計画ではないということだった。その結果、尚書令の費禕、中監軍の姜維らに聖旨を伝えさせた。
蒋琬は命令を受けると、上疏して述べた、
「世にはびこる害悪をとり除き、災難をおさえるのは、臣(わたくし)の職務として引き受けねばならぬことです。
ご命令をかしこみ漢中に駐屯するようになってから、すでに六年が経過いたしました。
臣は暗愚なうえに、疾病にかかったため、計画を成就しえず、朝夕悩み心を痛めております。
現在、魏は九つの州を支配し、その基礎はいよいよ強固となっており、始末するのは今のところ容易ではありません。
もしも東西が力を合わせ、前後相い呼応したならば、すぐに目的を遂げられないとしても、とにかく領土の一宇を切り取って蚕食し、先に彼らの仲間を打ち砕いておくことはできるはずであります。
ところが呉は約束を違え、くり返し決行をためらいました。
起居にもそのことを思って苦しみ、実に寝食を忘れるほどです。
涼州の蛮族が住む要害の地は進むにも退くにもたよりとなり、賊軍が大事にしているところですが、一方羌族のほうでは心中漢中を渇望しておりますし、また昔、一軍が羌に侵入した際、〔魏の雍州刺史〕郭淮が敗北した事実もあります。
その優劣を測るに、まっ先に目をつけるべきだと、費禕らと議論するたびに申しております。
どうか姜維を涼州刺史にご任命ください。
もしも姜維が征討に赴き、河右を制圧したならば、臣は軍を率いて姜維の後に続きおさえに当たりましょう。
現在涪は水陸両道によって四方に通じており、ここで緊急事態が発生すれば必ず呼応するものがあらわれるでしょう。もしもわが国の東北でめんどうな事件がおこっても、そこから駆けつけることはむずかしくありません。」
この上奏の結果、蒋琬は涪まで引き返して駐留することになった。
(費禕伝)
琬自漢中還涪,禕遷大將軍,錄尚書事。
六年,遷鎮西大将軍,領涼州刺史。
六年(243)、鎮西大将軍に昇進し、涼州刺史を兼任した。
244年(正始5-曹芳/延煕7-劉禅/赤烏7-孫権)
43歳。
(後主伝)
七年閏月,魏大将軍曹爽、夏侯玄等向漢中,鎮北大将軍王平拒興勢圍,大将軍費禕督諸軍往赴救,魏軍退。夏四月,安平王理卒。
秋九月,禕還成都。
(費禕伝)
延熙七年,魏軍次於興勢,假禕節,率眾往御之。……禕至,敵遂退,封成鄉侯。
琬固讓州職,禕復領益州刺史。禕當國功名,略與琬比。
245年(正始6-曹芳/延煕8-劉禅/赤烏8-孫権)
44歳。
(後主伝)
十二月,大将軍費禕至漢中,行圍守
246年(正始7-曹芳/延煕9-劉禅/赤烏9-孫権)
45歳。
蒋琬死去。
247年(正始8-曹芳/延煕10-劉禅/赤烏10-孫権)
46歳。
衛将軍、禄尚書事。
(後主伝)
十年,涼州胡王白虎文、治無戴等率衆降,衛将軍姜維迎逆安撫,居之於繁縣。
是歲,汶山平康夷反,維往討,破平之。
十年,遷衛将軍,與大将軍費禕共録尚書事。
是歲,漢山平康夷反,維率衆討定之。十年(247)、衛将軍に昇進し、大将軍の費禕とともに禄尚書事となった。
この年(247)、汶山郡平康県の蛮族が反乱を起し、姜維は軍勢を率いてこれを討ち平定した。又出隴西、南安、金城界,與魏大将軍郭淮、夏侯霸等戦於洮西。
胡王治無戴等舉部落降,維将還安處之。また隴西・南安・金城の諸軍の地に出陣し、魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮水の西で合戦した。
蛮王の治無戴らが部族をあげて降伏したので、姜維は彼らを連れて帰還し〔成都の近くの繁県に〕安住させた。
(郭淮伝)
八年(247),隴西、南安、金城、西平諸羌餓何、燒戈、伐同、蛾遮塞等相結叛亂,攻圍城邑,南招蜀兵,涼州名胡治無戴復叛應之。討蜀護軍夏侯覇督諸軍屯為翅。淮軍始到狄道,議者僉謂宜先討定枹罕,內平惡羌,外折賊謀。淮策維必來攻覇,遂入渢中,轉南迎覇。維果攻為翅,會淮軍適至,維遁退。進討叛羌,斬餓何、燒戈,降服者萬餘落。
八年(247)、隴西、南安、金城、西平の諸羌族餓何(がか)・焼戈(しょうか)・伐同(ばつどう)・蛾遮塞(がしゃさい)らが結託して反乱を起し、城邑を攻撃包囲し、南方から蜀の兵を招いた。涼州の蛮族の名家治無戴(ちぶたい)もまた反乱を起こしてこれに呼応した。
討蜀護軍の夏侯覇は諸軍を指揮して為翅に駐屯した。郭淮の軍が最初狄道に到着したとき、論者は皆先に枹罕を討って平定し、内は暴悪な羌族を平らげ、外は賊の計画をうちくだくべきだと主張した。郭淮は、姜維が必ずおしよせて夏侯覇を攻撃すると判断し、そのまま渢中(ふうちゅう)に入り、南に転じて夏侯覇を迎えた。姜維ははたして為翅を攻撃したが、ちょうど郭淮の軍が到着したので、姜維は逃走した。進撃して反乱の羌族を討伐し、餓何(がか)・焼戈(しょうか)を斬った。降伏する者は一万余の部落にのぼった。(集解)
渢中(ふうちゅう)→「謝鍾英曰渢中當在狄道南為翅北」
248年(正始9-曹芳/延煕11-劉禅/赤烏11-孫権)
47歳。
(後主伝)
十一年夏五月,大将軍費禕出屯漢中。秋,涪陵屬國民夷反,車騎将軍鄧芝往討,皆破平之。
(郭淮伝)
九年(248),遮塞等屯河関、白土故城,據河拒軍。淮見形上流,密於下渡兵據白土城,撃,大破之。治無戴圍武威,家屬留在西海。淮進軍趨西海,欲掩取其累重,會無戴折還,與戦於龍夷之北,破走之。
令居惡虜在石頭山之西,當大道止,斷絕王使。淮還過討,大破之。
姜維出石營,從強川,乃西迎治無戴,留陰平太守廖化於成重山築城,斂破羌保質。
淮欲分兵取之。諸将以維衆西接強胡,化以據險,分軍兩持,兵勢轉弱,進不制維,退不拔化,非計也,不如合而俱西,及胡、蜀未接,絕其內外,此伐交之兵也。淮曰:「今往取化,出賊不意,維必狼顧。比維自致,足以定化,且使維疲於奔命。兵不遠西,而胡交自離,此一舉而兩全之策也。」
乃別遣夏侯覇等追維於沓中,淮自率諸軍就攻化等。維果馳還救化,皆如淮計。九年(248)、蛾遮塞らは河関・白土の古城に駐屯し、河を根拠として抵抗した。郭淮は上流地域で行動すると見せかけておき、ひそかに下流から兵を渡し白土城を占拠し、攻撃して大いにこれをうち破った。治無戴は武威を包囲したが、その家族は西海に留まっていた。郭淮は軍を進めて西海に赴き、襲撃してその妻子を奪取せんとした。たまたま治無戴が敗れて帰途についたので、彼と龍夷の北で戦い、敗走させた。
令居の暴悪な蛮人が石頭山の西に居を構え、街道に出て邪魔をし、王使を絶っていた。郭淮は帰路立ちよって討伐し、これを大いにうち破った。
姜維が石営に出陣し、彊川を通り、西方に向って治無戴を出迎え、陰平の太守廖化を成重山に留めて城を築かせ、破れた羌族から確保していた人質を収容した。
郭淮は兵を分けてこれを奪取せんとした。諸将は、姜維の軍勢は西方の強力な蛮族と接しており、廖化が要害を占拠している、〔わが方は〕軍を分けて両方に対処すれば兵の勢力を弱化させ、進んでは姜維を制御しえず、退いては廖化を陥落しえず、計画として成り立たない、兵力を結集して西方に向い、蛮族と蜀がまだ連絡しないうちに、その内と外を遮断するほうがよい、これこそ連合している敵を討伐するいくさであると主張した。
郭淮はいった、「今、出かけていって廖化を陥とし、賊の不意をつけば、姜維は必ず狼狽する。姜維が自分で駆けつけるころには、廖化を平定できるであろう。そのうえ姜維をして奔命に疲れさせる結果となる。兵を遠くまで西征させずとも、蛮族との連合は自然と離れる。これこそ一挙両全の策である」
そこで別に夏侯覇らを派遣して、沓中に姜維を追わせ、郭淮は自身で諸軍をひきいて廖化のもとへ行き攻撃した。姜維ははたして馳せ帰って廖化を救い、すべて郭淮の計算どおりとなった。
(費禕伝)
十一年,出住漢中,自琬及禕,雖自身在外,慶賞刑威,皆遙先咨斷然,後乃行。其推任如此。
249年(正始10、嘉平元-曹芳/延煕12-劉禅/赤烏12-孫権)
48歳。
(後主伝)
十二年春正月,魏誅大将軍曹爽等,右将軍夏侯覇來降。
夏四月,大赦。
秋,衛将軍姜維出攻雍州,不克而還。将軍句安、李韶降魏。
(姜維伝)
十二年,假維節復出西平,不克而還。
維自以練西方風俗,兼負其才武,欲誘諸羌、胡以為羽翼,謂自隴以西可斷而有也。每欲興軍大舉,費禕常裁製不從,與其兵不過萬人。十二年(249)、姜維は節を与えられ、ふたたび西平に出陣したが、勝利を得ることなく帰還した。姜維は西方の風俗に習熟しているという自信のうえに、軍事の才があると自負していたから、各種の羌族を誘い入れ友軍にしようとの望みを抱き、そうなれば隴より以西の地は魏から切断して支配できると考えた。〔姜維が〕大軍を動かそうと望むたびに、費禕はつねに制約を加えて思いどおりにさせず、わずか一万の兵を与えるだけだった。
〈漢晉春秋曰:費禕謂維曰:「吾等不如丞相亦已遠矣;丞相猶不能定中夏,況吾等乎!且不如保國治民,敬守社稷,如其功業,以俟能者,無以為希冀徼倖而決成敗於一舉。若不如志,悔之無及。」〉
(郭淮伝)
嘉平元年(249),遷征西将軍,都督雍、涼諸軍事。是歲,與雍州刺史陳泰協策,降蜀牙門将句安等於翅上。嘉平元年(249)、征西将軍・都督雍涼諸軍事に昇進した。
この年、雍州刺史の陳泰と策略を練り、蜀の牙門将句安らを翅の側で降伏させた。
(鄧艾伝)
出參征西軍事,遷南安太守。嘉平元年,與征西将軍郭淮拒蜀偏将軍姜維。維退,淮因西撃羌。
艾曰:「賊去未遠,或能復還,宜分諸軍以備不虞。」於是留艾屯白水北。
三日,維遣廖化自白水南向艾結營。
艾謂諸将曰:「維今卒還,吾軍人少,法當來渡而不作橋。此維使化持吾,令不得還。維必自東襲取洮城。」
洮城在水北,去艾屯六十里。艾即夜潛軍徑到,維果來渡,而艾先至據城,得以不敗。賜爵關内侯,加討寇将軍,后遷城陽太守。地方へ出て参征西軍事となり、南安太守に昇進した。
嘉平元年(249)、征西将軍郭淮とともに蜀の偏将軍姜維の侵攻を防いだ。姜維が退却すると、郭淮はそれにつけこんで西方の羌族攻撃に向かった。鄧艾は、「賊軍はまだ遠くまで行っておりませんから、、引き返してくるかもしれません。諸軍を分けて思いがけぬ事態に備えるのが適当かと存じます」と述べた。その結果、鄧艾を留めて白水の北に駐屯させた。三日後、姜維は廖化を派遣し、白水の南から鄧艾に向い陣を構築させた。鄧艾は諸将に対していった、「姜維が今、突如引き換えしてきたのに、わが軍は少数だ。戦法からいっても〔敵は〕当然渡河してくるべきなのに橋を造ろうとしない。これは姜維が廖化をわが軍と対峙させ、帰れなくさせておき、姜維自身は東へ向い洮(とう)城を襲い取るつもりにちがいない。」洮城は白水の北にあり、鄧艾の陣営から六十里離れていた。鄧艾はその夜、ひそかに軍を動かし、〔洮城へ〕直行した。姜維は予想どおり渡河しておし寄せたが、鄧艾が先に着いて城にたてこもったため、〔魏は〕敗北せずにすんだ。〔その功績によって鄧艾は〕関内侯の爵位を賜与され、討寇将軍の号を加えられ、のちに城陽太守へ転任した。
250年(嘉平2-曹芳/延煕13-劉禅/赤烏13-孫権)
49歳。
(後主伝)
十三年,姜維復出西平,不克而還。
251年(嘉平3-曹芳/延煕14-劉禅/赤烏14、太元元-孫権)
50歳。
(後主伝)
十四年夏,大将軍費禕還成都。冬,復北駐漢壽。
252年(嘉平4-曹芳/延煕15-劉禅/神鳳元、建興元-孫権、孫亮)
51歳。
(費禕伝)
延熙十五年,命禕開府。
253年(嘉平5-曹芳/延煕16-劉禅/建興2-孫亮)
52歳。
費禕、暗殺される。
(後主伝)
十六年春正月,大将軍費禕為魏降人郭循所殺於漢壽。
夏四月,衛将軍姜維復率衆圍南安,不克而還。
(姜維伝)
十六年春,禕卒。
夏,維率數萬人出石營,經董亭,圍南安。魏雍州刺史陳泰解圍至洛門,維糧盡退還。十六年(253)春、費禕がなくなった。夏、姜維は数万の軍勢を率いて〔武都より〕石営に出、董亭を経て、南安を包囲したが、魏の雍州刺史陳泰が包囲を解かんとして洛門(南安の東南にある)に到達し、姜維は兵粮尽きて撤退帰国した。
(諸葛恪伝)
(注)漢晋春秋曰、恪使司馬李衡往蜀姜維令同挙曰古人有言聖人不能為時至亦不可失也 今敵政在私門[時魏政在司馬氏]外内猜隔兵挫於外而民自曹操以来彼之亡形未有如今者也 若大挙伐之使呉攻其東漢入其西[此為称蜀為漢之證]彼救西則東虚重東則西軽以練実之軍乗虚軽之敵破之必矣[何焯曰誠有是形但亦当審己]維従之[此年姜維亦出囲狄道見魏志斉王紀嘉平五年注蜀志後主伝延煕十六年衛将軍姜維囲南安不克而還]
254年(正元元-曹芳、曹髦/延煕17-劉禅/5鳳元-孫亮)
53歳。
(後主伝)
十七年春正月,姜維還成都。大赦。
夏六月,維復率衆出隴西。
冬,拔狄道、(河間)[河関]、臨洮三縣民,居於綿竹、繁縣
(姜維伝)
明年,加督中外軍事。
復出隴西,守狄道長李簡舉城降。進圍襄武,與魏将徐質交鋒,斬首破敵,魏軍敗退。維乘勝多所降下,拔河間狄道、臨洮三縣民還。翌年(254)、督中外軍事の官位を加えられた。
ふたたび隴西に出陣したところ、狄道を守備していた県長の李簡が城を挙げて降伏した。
侵攻して襄武を包囲し、魏の将徐質と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は撤退した。
姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降伏させ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を拉致して帰還した。
(張嶷伝)
魏狄道長李簡密書請降,衛将軍姜維率嶷等因簡之資以出隴西。既到狄道,簡悉率城中吏民出迎軍。軍前與魏将徐質交鋒,嶷臨陣隕身,然其所殺傷亦過倍。
この年は延熙十七年(254)であった。魏の狄道の長である李簡が密書をよこして降伏を願い出た。衛将軍の姜維は張嶷らを率い、李簡の軍資を頼みとして隴西に出陣した。狄道に到着すると、李簡は城下の吏民を率いて軍を出迎えた。
軍を進めて魏の将徐質と合戦し、張嶷は陣中で落命したが、味方の損害の倍以上の敵兵を殺傷した。
(陳泰伝)
蜀大将軍姜維率衆依麹山築二城、使牙門将句安、李歆等守之、聚羌胡質任等寇偪諸郡。征西将軍郭淮与泰謀所以御之、泰曰、
「麹城雖固、去蜀険遠、当須運糧。羌夷患維労役、必未肯附。今囲而取之、可不血刃而拔其城;雖其有救、山道阻険、非行兵之地也。」
淮従泰計、使泰率討蜀護軍徐質、南安太守鄧艾等進兵囲之、断其運道及城外流水。安等挑戦、不許、将士困窘、分糧聚雪以稽日月。維果来救、出自牛頭山、与泰相對。泰曰、
「兵法貴在不戦而屈人。今絶牛頭、維無反道、則我之禽也。」
敕諸軍各堅壘勿与戦、遣使白淮、欲自南渡白水、循水而東、使淮趣牛頭、截其還路、可並取維、不惟安等而已。淮善其策、進率諸軍軍洮水。維懼、遁走、安等孤県、遂皆降。(254)
蜀の大将軍姜維は軍勢をひきつれ麹山を利用して二つの城を築き、牙門将句安(こうあん)・李歆(りきん)らにそれを守備させ、羌族の人質などを集めて諸郡に侵入した。征西将軍の郭淮は陳泰にそれを防御する手段について相談した。陳泰はいった、
「麹城は堅固ではありますが、蜀からけわしい道をへだてて遠く離れており、当然兵糧の運送を期待しなければなりません。羌族は姜維の労役を厄介がっており、積極的に味方をしないにちがいありません。今、包囲してそれを奪えば、刃を血にぬらさずにその城を陥落できましょう。彼らに救援があったとしても、山道は険阻で、兵を動かせる土地ではございません。」
郭淮は陳泰の計略に従い、陳泰に討蜀護軍の徐質、南安太守の鄧艾らを統率させ、軍をすすめて彼らを攻撃させ、その運送路と城外の流水を断ち切らせた。句安らが戦いをいどんでも応戦を許さなかったので、〔蜀の〕将兵は困窮し、食糧を配分し〔水の代わりに〕雪を集めて月日を引き伸ばした。
姜維は予想通り救援に来、牛頭山から出て陳泰と対峙した。
陳泰は、「兵法では戦わずに敵を屈服させることを高く評価する。(『孫子』謀攻)今、牛頭の道を断ち切り、姜維の帰路がなくなれば、われわれのとりことなる」
といい、諸軍に各自とりでを固めて戦いを交えてはならぬと命令した。使者をやって郭淮に進言し、自分は南方に進んで白水を渡り、水路にそって東に向うつもりだから、郭淮は牛頭に向い、その帰路をさえぎってほしい、ただ句安らだけでなく姜維もあわせてとらえるべきだと述べた。郭淮はその策に賛成し、諸軍をひきいて進み、洮水に軍を置いた。姜維は恐れて逃走したので、句安らは孤立無援となり、かくて全員降伏した。
255年(正元2-曹髦/延煕18-劉禅/5鳳2-孫亮)
54歳。
郭淮死去。
(後主伝)
十八年春,姜維還成都。
夏,復率諸軍出狄道,與魏雍州剌史王經戦於洮西,大破之。經退保狄道城,維卻住鍾題。
(姜維伝)
後十八年,復與車騎将軍夏侯覇等俱出狄道,大破魏雍州刺史王經於洮西,經衆死者數萬人。經退保狄道城,維圍之。魏徵西将軍陳泰進兵解圍,維卻住鐘題。
のち十八年(255)、また車騎将軍夏侯覇らとともに狄道に出、洮水の西において魏の雍州刺史王経をさんざんにうち破った。王経の軍勢の死者は数万人に及んだ。王経が退却して狄道城にたてこもると、姜維はそれを包囲した。
魏の征西将軍陳泰が軍勢を進めて包囲を解いたので、姜維は退却して鍾題に駐屯した。
(陳泰伝)
淮薨(255),泰代為征西将軍,假節都督雍、涼諸軍事。
後年,雍州刺史王經白泰,雲姜維、夏侯覇欲三道向祁山、石營、金城,求進兵為翅,使涼州軍至枹罕,討蜀護軍向祁山。泰量賊勢終不能三道,且兵勢惡分,涼州未宜越境,報經:「審其定問,知所趣向,須東西勢合乃進。」
時維等将數萬人至枹罕,趣狄道。泰敕經進屯狄道,須軍到,乃規取之。泰進軍陳倉。會經所統諸軍於故関與賊戦不利,經輒渡洮。泰以經不堅據狄道,必有他變。並遣五營在前,泰率諸軍繼之。經巳與維戦,大敗,以萬餘人還保狄道城,餘皆奔散。維乘勝圍狄道。
泰軍上邽,分兵守要,晨夜進前。鄧艾、胡奮、王祕亦到,即與艾、祕等分為三軍,進到隴西。艾等以為「王經精卒破衄於西,賊衆大盛,乘勝之兵既不可當,而将軍以烏合之卒,繼敗軍之後,将士失氣,隴右傾盪。古人有言:『蝮蛇螫手,壯士解其腕。』孫子曰:『兵有所不撃,地有所不守。』蓋小有所失而大有所全故也。今隴右之害,過於蝮蛇,狄道之地,非徒不守之謂。姜維之兵,是所辟之鋒。不如割險自保,觀釁待弊,然後進救,此計之得者也。」泰曰:「姜維提輕兵深入,正欲與我争鋒原野,求一戦之利。王經當高壁深壘,挫其銳氣。今乃與戦,使賊得計,走破王經,封之狄道。若維以戦克之威,進兵東向,據櫟陽積穀之實,放兵收降,招納羌、胡,東争関、隴,傳檄四郡,此我之所惡也。而維以乘勝之兵,挫峻城之下,銳氣之卒,屈力致命,攻守勢殊,客主不同。兵書雲『脩櫓轒榲,三月乃成,拒堙三月而後已』。誠非輕軍遠入,維之詭謀倉卒所辦。縣軍遠僑,糧谷不繼,是我速進破賊之時也,所謂疾雷不及掩耳,自然之勢也。洮水帶其表,維等在其內,今乘高據勢,臨其項領,不戦必走。寇不可縱,圍不可久,君等何言如此?」
遂進軍度高城嶺,潛行,夜至狄道東南高山上,多舉烽火,鳴鼓角。狄道城中将士見救者至,皆憤踴。維始謂官救兵當須衆集乃發,而卒聞已至,謂有奇變宿謀,上下震懼。自軍之發隴西也,以山道深險,賊必設伏。泰詭從南道,維果三日施伏。定軍潛行,卒出其南。維乃緣山突至,泰與交戦,維退還。涼州軍從金城南至沃干阪。泰與經共密期,當共向其還路,維等聞之,遂遁,城中将士得出。經嘆曰:「糧不至旬,向不應機,舉城屠裂,覆喪一州矣。」泰慰勞将士,前後遣還,更差軍守,並治城壘,還屯上邽。
初,泰聞經見圍,以州軍将士素皆一心,加得保城,非維所能卒傾。表上進軍晨夜速到還。衆議以經奔北,城不足自固,維若斷涼州之道,兼四郡民夷,據関、隴之險,敢能沒經軍而屠隴右。宜須大兵四集,乃致攻討。
大将軍司馬文王曰、「昔諸葛亮常有此志、卒亦不能。事大謀遠、非維所任也。且城非倉卒所拔、而糧少為急、征西速救、得上策矣。」泰毎以一方有事、輒以虛声擾動天下、故希簡白上事、驛書不過六百里。司馬文王語荀顗曰、「玄伯沈勇能断、荷方伯之重、救将陷之城、而不求益兵、又希簡上事、必能辦賊故也。都督大将、不当爾邪!」郭淮が逝去すると(255)、陳泰は代って征西大将軍・仮節都督雍涼諸軍事となった。
後年、雍州刺史の王経は陳泰に進言して姜維と夏侯覇が三つの街道から祁山・石営・金城に向おうとしているから、兵を為翅に進め、涼州の軍を枹罕に行かせ、討蜀護軍を祁山に向かわせたい、と述べた。
陳泰は賊の勢いからして絶対に三つの道を進むことは不可能だ、そのうえ軍の勢力を分散させることは避けるべきだし、涼州の境界を越えるのは適当でないと判断し、王経に答えた、
「定期の報告書を検討し、ご趣旨は承知した。東西の勢力が合するのを待ってから進軍しよう」
そのとき姜維らは数万人をひきつれて枹罕まで来、狄道に向った。陳泰は王経に軍を進めて狄道に駐屯し、〔陳泰の〕軍の到着を待ってから計画によって彼らを攻略することを命令した。陳泰は陳倉に軍を進めた。たまたま王経配下の諸軍は古い関所のあたりで賊と戦闘を交え負けいくさとなった。王経はすぐに洮水を渡った。陳泰は王経が狄道を占拠して固めないことから別の変事が起るにちがいないと判断し、五軍営の兵すべて派遣して前を行かせ、陳泰は諸軍を率いてそれに続いた。王経はすでに姜維と戦って大敗し、一万余人をつれて引き返し、狄道城にたてこもったが、他の兵はみな散りぢりになって逃げた。姜維は勝利に乗じて狄道を包囲した。陳泰は上邽に軍を置き、兵を分けて要所を守らせると、夜を日に継いで前進した。鄧艾・胡奮・王秘もまた到着したので、さっそく鄧艾・王秘らと兵を分けて三軍とし、進軍して隴西に到着した。
鄧艾らは主張した、
「王経の精鋭兵は西方で敗北を喫し、賊の軍勢はたいそう勢いづいております。勝利に乗じた軍は敵対することがむずかしいうえに、将軍は烏合の兵をひきい、敗軍の後を受け、将兵は気力を失い、隴西はひっくりかえっております。古人は『蝮蛇(まむし)が手をさせば、ますらおはその腕を切り離す』といっており、『孫子』には『敵軍も攻撃してはならない場合があり、土地も守ってはならない場合がある』とあります。つまり小さい所で損失があっても大きな所で安全を保ちうるからです。今、隴西の害毒は蝮蛇よりもはなはだしく、狄道の地は別に守っていないというわけではございません。姜維の軍は、それこそ避けるべき鋭い勢いがあります。要害の地をきりとって安全を保ち、隙をうかがい衰えるのを待って、その後で進軍して救助するのです。これが計略のうち最適のものです」
陳泰はいった、
「姜維は軽装の兵をひっさげ深く侵入しており、まさしくわが軍と原野で鉾先を争い、一戦の勝利を求めようと願っている。王経は城壁を高くし、とりでを深くして、その鋭気をくじくべきであったのだ。それなのに今、いくさを交えたのだから、賊は計略どおりにいき、王経を敗走させ、狄道に閉じ込めたのだ。もし姜維が戦勝による武威を示しつつ兵を進めて東に向い櫟陽(れきよう)に蓄積された充分な穀物をよりどころとし、四つの郡(隴西・南安・天水・略陽)に檄文をとばすことにでもなれば、それこそわが軍にとって厄介なこととなる。ところが姜維は勝利に乗じた軍をもって、険固な城の下で頓挫しており、鋭気をもった兵卒は、力をくじかれ命を投げ出している。攻守の形勢が変って、主客転倒したのだ。兵書に『櫓(おおだて)や轒榲(ふんおん)(城攻めの四輪車)を整え、三ヶ月かかってやっと完成し、土塁は三ヶ月たったのちにやっと土盛りを終る』とある。実際、軽装の軍をもって深く侵入しているのだから、姜維の人をあざむく策略でも早急に用意できるものではない。本拠地を遠く離れた軍は、糧食がつながらないもので、今こそわが軍がただちに進撃し賊をうち破る時である。いわゆる『急な雷鳴は耳をふさぐひまがない』(淮南子、兵略訓、六韜、軍勢篇)というやつで、自然の勢いである。洮水がその外をめぐり、姜維らはその中にいる。今、高所に登り、有利な地勢を占め、敵の首ねっこに臨めば、戦わずとも必ず逃走する。侵略者を野放しにするわけにはいかぬし、包囲を長く放置するわけにもいかぬ。君らはどうしてこのような言を吐くのだ」
かくして軍を進めて高城嶺を越え、こっそり行動して、夜に狄道の東南にある高い山の上に到達した。たくさん烽火をあげ、太鼓と角笛をならした。狄道の城中にいる将兵は救援の到着を見て、皆、心を高ぶらせおどりあがった。姜維は最初救援の官軍は軍勢の集結を待ってから出発するにちがいないと思っていた。ところが突然もう到着していると聞き、前から練られた奇計があるものと思いこみ、上も下もふるえおののいた。軍が隴西を出発してから、山道は深く険しかったので、賊は必ず伏兵を設けていると考え、陳泰は南道を通るふりをした。姜維は予期どおり三日の間伏兵を置いていた。正規軍はひそかに行動し、突然その南に姿をあらわした。姜維はそこで山によりそいながら突撃してきた。陳泰は彼と交戦し、姜維は涼州に引き退いたが、軍は金城を通って南に向い、沃干阪(ほくかんはん)に到達した。陳泰は王経とともに内密に約束をかわし、いっしょにその帰路に向うことにしていた。姜維らはそれを聞くと逃走してしまい、城中の将兵は外に出ることができた。王経は歎息していった、
「食糧はあと十日分にも足りませんでした。先に危機に瀕したとき救援に来てくれなかったら、城をあげて潰滅し、一州を喪失したでしょう」
陳泰は将兵を慰労し、前後に分けて帰還させ、あらためて軍兵を選んで守備につけ、同時に城壁を修理させると、帰還して上邽に駐屯した。
それより前、陳泰は王経が包囲されたと聞いたとき、州郡の将兵が平素から皆心を一つにしており、それに加えて城を保持する力があるから、姜維が急に陥れられるものではないと考えた。軍を進め夜を日に継いで、早急に到着する旨上奏文をたてまつった。多数の人の意見では、王経は逃走し、城は固守する力はない、姜維がもし涼州への交通路を遮断し、四郡の人民・蛮族をあわせ、関・隴の要害を占拠すれば、王経の軍を全滅させ、隴西を攻略できるであろうから、大軍が四方から集結するのを待って、それから攻撃討伐を行うのが適当であると考えた。
大将軍司馬文王(司馬昭)はいった、
「昔諸葛亮はつねづねこれと同じ志を抱いていたが、けっきょく不可能だった。事は大きくはかりごとは遠大であり、姜維のになえる仕事ではない。それに城は早急に陥とされるものではないが、食糧が少ないのが緊急事である。征西将軍がすみやかに救援に赴いたのは、最上の策にかなっている。」
(鄧艾伝)
高貴郷公即尊位,進封方城亭侯。毌丘儉作亂,遣健步齎書,欲疑惑大眾,艾斬之,兼道進軍,先趣樂嘉城,作浮橋。司馬景王至,遂據之。文欽以後大軍破敗於城下,艾追之至丘頭。欽奔呉。呉大将軍孫峻等號十萬眾,将渡江,鎮東将軍諸葛誕遣艾據肥陽,艾以與賊勢相遠,非要害之地,輒移屯附亭,遣泰山太守諸葛緒等於黎漿拒戰,遂走之。其年徵拜長水校尉。以破欽等功,進封方城郷侯,行安西将軍。
高貴郷公が帝位につくと、方城亭侯に爵位があがった。カン丘倹は反乱を起すと、早足の者を派遣して文書を送り、大衆を混乱させようと図ったが、鄧艾はその使者を斬り、通常の倍の速度で軍を進め、先に楽嘉城に赴き浮橋を作った。司馬景王(司馬師)は到着すると、そのまま楽嘉を根拠とした。……
解雍州刺史王經圍於狄道,姜維退駐鍾提,乃以艾為安西将軍,仮節、領護東羌校尉。
議者多以為維力已竭,未能更出。艾曰:
「洮西之敗,非小失也;破軍殺将,倉廩空虛,百姓流離,幾於危亡。今以策言之,彼有乘勝之勢,我有虛弱之實,一也。彼上下相習,五兵犀利,我将易兵新,器杖未復,二也。彼以船行,吾以陸軍,勞逸不同,三也。狄道、隴西、南安、祁山,各當有守,彼專為一,我分為四,四也。從南安、隴西,因食羌谷,若趣祁山,熟麥千頃,為之縣餌,五也。賊有黠數,其來必矣。」(255)
狄道で包囲されていた雍州刺史王経を救助し、姜維は退いて鍾提に駐屯した。そこで鄧艾を安西将軍・仮節領護東羌校尉に任命した。
多くの論者は、姜維の力はすでに力尽きているから再度の出撃はないと主張したが、鄧艾はいった、
「〔王経の〕洮西(とうせい)の敗戦は小さな失敗ではない。軍は敗れ将は殺され、米倉は空になり、住民は流浪することとなり、ほとんど危機滅亡の状態といってよい。今、作戦の点からいえば、敵には勝ちに乗ずる勢いがあり、わが方には虚弱な体質がある。これが第一の点だ。
敵は上下ともによく訓練されていて、武器も鋭利であるが、わが方は将軍が〔王経より鄧艾に〕交替し兵卒も新たに派遣されてきた者で、武器もまだ不充分なままである。これが第二の点だ。
敵は船によって行動し、わが方は陸地を行軍してきたのだから、苦労は同じではない。これが第三の点だ。
狄道・隴西・南安・祁山には、それぞれ守備を置かなければならない。敵が一方に集中できるのに対して、わが方は四箇所に分散することになる。これが第四の点だ。
南安・隴西に向かえば、羌族に食糧を頼ることになるが、もし祁山へ向かえば、千頃(けい)にわたって成熟した麦がある。それが敵をつる餌となるだろう。これが第五の点だ。
賊軍はこざかしい策略を弄するから、その来攻はまちがいない。」
(張翼伝)
十八(255)年,與衛将軍姜維俱還成都。維議復出軍,唯翼廷争,以為國小民勞,不宜黷武。維不聽,将翼等行,進翼位鎮南大将軍。維至狄道,大破魏雍州刺史王經,經衆死於洮水者以萬計。翼曰:「可止矣,不宜復進,進或毀此大功。」維大怒。曰:「為蛇畫足。」維竟圍經於狄道,城不能克。自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往。
十八年(255)、衛将軍の姜維とともに成都に帰還した。姜維が再度の出兵を提議したとき、ただ張翼だけが朝議の席で反対論を述べ、国家の弱小と民衆の労苦を根拠に、みだりに武力を行使してはならないと主張した。姜維は聞き入れず、張翼らを率いて出発し、張翼の位を進めて鎮南大将軍とした。姜維は狄道に到着すると、魏の雍州刺史王経をさんざんにうち破った。洮水(とうすい)で死んだ王経の軍兵の数は五けたにのぼった。張翼が、「とどまるべきです。これ以上進攻してはなりません。進攻すれば、あるいはこの大殊勲に傷をつけることになるかもしれません」というと、姜維は大いに腹を立てた。〔張翼は〕「蛇の絵をかいて足を書き加えるようなものですぞ」といった。姜維はけっきょく狄道城にいる王経を包囲したが、陥すことができなかった。張翼が異論をとなえて以来、姜維は内心張翼が気に入らなくなっていたが、それでもいつも引き連れて同行し、張翼もまた仕方なく遠征に加わった。
256年(甘露元-曹髦/延煕19-劉禅/太平元-孫亮)
55歳。
大将軍。
段谷の戦い。
(姜維伝)
十九年春,就遷維為大将軍。更整勒戎馬,與鎮西大将軍胡濟期会上邽。
濟失誓不至,故維為魏大将鄧艾所破於段谷,星散流離,死者甚眾。
眾庶由是怨讟,而隴已西亦騷動不寧。維謝過引負,求自貶削。為後将軍,行大将軍事。十九年(256)春、遠征先において姜維を大将軍に昇進させた。
さらに戦闘準備をととのえ、鎮西大将軍の胡済としめし合わせて上邽で落ち合う手はずであったが、胡済は約束を破ってやってこなかった。
そのために姜維は段谷において魏の大将鄧艾にうち破られ、軍兵はちりぢりになって逃げまどい、多大の戦死者を出した。
人々はそのためひじょうに怨み、隴以西の地でも騒乱がおこり不安定になった。
姜維はあやまちを謝し責めを負って、みずから官を下げてほしいと願い出、後将軍・行大将軍事となった。
(後主伝)
十九年春,進姜維位為大将軍,督戎馬,與鎮西将軍胡濟期會上邽,濟失誓不至。
秋八月,維為魏大将軍鄧艾所破於上邽。維退軍還成都。
(鄧艾伝)
頃之,維果向祁山,聞艾已有備,乃回從董亭趣南安,艾據武城山以相持。
維與艾爭險,不克,其夜,渡渭東行,緣山趣上邽,艾與戰於段谷,大破之。しばらくして、姜維は予想どおり祁山へ向かったが、鄧艾がすでに備えをしていると聞くと、方向を変えて董亭を通って南安へ進んだ。鄧艾は武城山にたてこもって対峙した。姜維は鄧艾と要害の地を占拠せんと争ったが勝利を得られなかったので、その夜、渭水を渡って東へ進み、山に沿って上邽(じょうけい)へと向かった。鄧艾は彼と段谷において戦い、大いにこれをうち破った。
甘露元年詔曰:「逆賊姜維連年狡黠,民夷騷動,西土不寧。艾籌畫有方,忠勇奮發,斬将十數,馘首千計;国威震於巴、蜀,武聲揚於江、岷。今以艾為鎮西将軍、都督隴右諸軍事,進封鄧侯。分五百戶封子忠為亭侯。」
二年,拒姜維於長城,維退還。遷征西将軍,前後增邑凡六千六百戶。甘露元年(256)、詔勅が下された、
「逆賊姜維が連年狡猾な動きを見せたため、民衆も蛮族も動揺し、西方地域はおちつかなかった。鄧艾は、理にかなった計略を立て、忠節と勇気を奮い起し、二けたにのぼる将を斬り、四けたにのぼる首をとった。国威は巴・蜀の地をふるわせ、武勇のほまれは長江・岷江のあたりにとどろいた。今、鄧艾を鎮西将軍・都督隴右諸軍事に任命し、鄧侯に爵位を進め、五百戸を分割して子の忠を亭侯にとりたてる。」
257年(甘露2-曹髦/延煕20-劉禅/太平2-孫亮)
56歳。
諸葛誕の乱。
(姜維伝)
二十年,魏徵東大将軍諸葛誕反於淮南,分関中兵東下。
維欲乘虛向秦川,復率數萬人出駱谷,逕至沈嶺。時長城積穀甚多而守兵乃少,聞維方到衆皆惶懼。魏大将軍司馬望拒之,鄧艾亦自隴右,皆軍於長城。維前住芒水,皆倚山為營。望、艾傍渭堅圍,維數下挑戦,望、艾不應。二十年(257)、魏の征東大将軍諸葛誕が淮南で反逆し、関中の兵を分けて東方へ下った。姜維はその虚に乗じて秦川へ向おうと欲し、またも数万の軍勢を率いて駱谷に出、ただちに沈嶺に到達した。
当時長城(沈嶺のすぐ北にある城)にはたいへん多くの穀物が貯蔵されていたのに、魏の守備兵は少数であったので、姜維がやってきたと聞き、人々は恐れおののいた。
魏の大将軍の司馬望が守備に当り、鄧艾もまた隴右より駆けつけ、みな長城に陣を張った。姜維は前進して芒水に駐屯し、すべて山を利用して陣営を築いた。
司馬望・鄧艾は渭水にそって防禦のとりでを固めた。姜維は何度も戦いを挑んだが、二人は応戦しなかった。
(楊戯伝)
延熙二十年(257),隨大将軍姜維出軍至芒水。戲素心不服維,酒後言笑,每有傲弄之辭。維外寬內忌,意不能堪,軍還,有司承旨奏戲,免為庶人。後景耀四年(261)卒。
(諸葛瞻伝)
自瞻、厥、建統事、姜維常徵伐在外(253-258)、宦人黄皓竊弄機柄、咸共将護、無能匡矯、然建特不与皓好往来。
※253-258
258年(甘露3-曹髦/景耀元-劉禅/永安元-孫亮、孫休)
57歳。
景耀元年,維聞誕破敗,乃還成都。復拜大将軍。
景耀元年(258)、姜維は諸葛誕の敗北を聞くと、成都に帰還した。ふたたび大将軍に任命された。
(後主伝)
景耀元年(258)、姜維還成都。史官言景星見、於是大赦、改年。
宦人黄皓始專政。
呉大将軍孫琳廃其主亮、立琅邪王休。景耀元年(258)、姜維が成都に帰還した。史官が景星(めでたい星)があらわれたと言上し、そのため大赦が行われ、年号が改められた。
宦官の黄皓がはじめて政治権力を握った。
呉の大将軍孫綝がその主君孫亮を廃して、瑯邪王の孫休を立てた。
(陳祗伝)
大将軍姜維雖班在祗上,常率衆在外,希親朝政。祗上承主指,下接閹豎,深見信愛,権重於維。景耀元年(258)卒,
(董厥伝)
亮卒後、稍遷至尚書僕射、代陳祗為尚書令、遷大将軍平台事、而義陽樊建代焉。
259年(甘露4-曹髦/景耀2-劉禅/永安2-孫休)
58歳。
(姜維伝)
初,先主留魏延鎮漢中,皆實兵諸圍以御外敵。敵若來攻,使不得人。及興勢之役,王平捍拒曹爽,皆承此制。
維建議,以為錯守諸圍,雖合《周易》「重門」之義,然適可禦敵,不獲大利。不若使聞敵至,諸圍皆斂兵聚谷,退就漢、楽二城。使敵不得入平,臣重関鎮守以捍之。有事之日,令遊軍並進以伺其虛。敵攻関不克,野無散谷,千里縣糧,自然疲乏。引退之日,然後諸城並出,與遊軍並力搏之,此殄敵之術也。於是令督漢中胡濟卻住漢壽,監軍王含守楽城,護軍蔣斌守漢城,又於西安、建威、武衛、石門、武城、建昌、臨遠皆立圍守。※この頃(258-262)
260年(甘露5、景元元-曹髦、曹奐/景耀3-劉禅/永安3-孫休)
59歳。
(後主伝)
(景耀)三年(260)秋九月、追諡故将軍関羽、張飛、馬超、龐統、黄忠。
三年(260)秋九月、もとの将軍の関羽・張飛・馬超・龐統・黄忠に諡号を追贈した。
261年(景元2-曹奐/景耀4-劉禅/永安4-孫休)
60歳。
(後主伝)
(景耀)四年(261)春三月、追諡故将軍趙雲。冬十月、大赦。
四年(261)春三月、もとの将軍趙雲に諡号を追贈した。冬十月、大赦が行われた。
(趙雲伝)
〈雲別傳載後主詔曰:「雲昔從先帝,功積既著。朕以幼沖,涉塗艱難,賴恃忠順,濟於危險。夫諡所以敘元勳也,外議雲宜諡。」
大将軍姜維等議,以為雲昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石,忠以衛上,君念其賞,禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹按諡法,柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍乱曰平,應諡雲曰順平侯。〉
262年(景元3-曹奐/景耀5-劉禅/永安5-孫休)
61歳。
侯和の戦い。
五年,維率衆出漢。侯和為鄧艾所破,還住沓中。
維本羈旅托國,累年攻戦,功績不立。而宦官黄皓等弄権於内,右大将軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇。
維亦疑之,故自危懼,不復還成都。五年(262)、姜維は軍勢を率いて侯和に出、鄧艾に撃破され、引き返して沓中に駐屯した。
姜維はもともと故郷を離れて蜀に身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら、功績を立てることができずにいるうち、宦官の黄皓らが宮中にいて権力をわがものとし、右大将軍の閻宇が黄皓と結託した。
しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もそれを疑っていたので、危惧の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。〈華陽國志曰;維惡黄皓恣擅,啟後主欲殺之。後主曰:「皓趨走小臣耳,往董允切齒,吾常恨之,君何足介意!」維見皓枝附葉連,懼於失言,遜辭而出。後主敕皓詣維陳謝。維説皓求沓中種麥,以避内逼耳。〉
(廖化伝注)
漢晋春秋曰:景耀五年(262),姜維率衆出狄道,廖化曰:「『兵不戢,必自焚』,伯約之謂也。智不出敵,而力少於寇,用之無厭,何以能立?詩云『不自我先,不自我後』,今日之事也。」
(陳留王紀)
冬十月,蜀大将姜維寇洮陽,鎮西将軍鄧艾拒之,破維於侯和,維遁走。
263年(景元4-曹奐/炎興元-劉禅/永安6-孫休)
62歳。
蜀滅亡。
六年,維表後主:
「聞鐘会治兵關中,欲規進取,宜並遣張翼、廖化詣督堵軍分護陽安關口、陰平橋頭,以防未然。」皓徵信鬼巫,謂故終不自致。
啟後主寢其事,而群臣不知。
及鐘会将向駱谷,鄧艾将人沓中。
然後乃遣右車騎廖化詣沓中為維援,左車騎張翼、輔國大将軍董厥等詣陽安關口以為諸圍外助。
比至陰平,聞魏将諸葛緒向建威,故住待之。
月餘,維為鄧艾所摧,還住陰平。
鐘会攻圍漢、樂二城,遣別将進攻關口,蔣舒開城出降,傅僉格鬥而死。六年(263)、姜維は後主に上表して、
「聞きますれば、鍾会は関中で出動の準備をととのえ、進攻の計画を練っているとか。張翼・廖化の二人に諸軍を指揮させ、陽安関の入口と陰平橋のたもとをそれぞれ固めさせ、危険に対して未然に処置なさいますように」と述べた。
黄皓は鬼神や巫(みこ)の言葉を信用し、敵は絶対にやってこないと考え、後主にその進言をとりあげないように言上したが、群臣は何も知らなかった。
鍾会が駱谷に向い、鄧艾が沓中に侵入しようというときになってはじめて、右車騎将軍の廖化を沓中にやって姜維の援軍とし、左車騎将軍の張翼、輔国大将軍の董厥らを陽安関の入口に向わせ、諸陣営の外にあって救援態勢をとらせることにした。
陰平(沓中への道筋に当る)まで来たとき、魏の将諸葛緒が建威に向ったと聞いたため、留まってこれを待ち受けた。
一ヶ月あまりたって、姜維は鄧艾に撃破され、陰平に引き退いた。
鍾会が漢・楽二城を攻撃包囲し、別将を派遣して関口(陽安関口)に進撃させたため、蒋舒は城を開け渡して降伏し、傅僉は格闘して戦死した。〈漢晉春秋曰:蔣舒将出降,乃詭謂傅僉曰:「今賊至不擊而閉城自守,非良圖也。」僉曰:「受命保城,惟全為功,今違命出戦,若喪師負國,死無益矣。」舒曰:「子以保城獲全為功,我以出戦克敵為功,請各行其志。」遂率衆出。僉謂其戦也,至陰平,以降胡烈。烈乘虛襲城,僉格鬥而死,魏人義之。蜀記曰:蔣舒為武興督,在事無稱。蜀命人代之,因留舒助漢中守。舒恨,故開城出降。〉
会攻樂城,不能克。
聞關口已下,長驅而前,翼、厥甫至漢壽,維、化亦捨陰平而退。
適與翼、厥合,皆退保劍閣以拒会。鍾会は楽城を攻撃したが、落とすことができないまま、関口がすでに落ちたと聞き長駆して進撃した。
張翼・董厥がやっと漢寿に到達したところで、姜維・廖化は陰平を捨てて退却してきて、ちょうど張翼・董厥らと出会い、そろって引き退き剣閣にたてこもって鍾会に対抗した。会與維書曰:
「公侯以文武之德,懷邁世之略,功濟巴、漢、聲暢華夏,遠近莫不歸名。每惟疇昔,嘗同大化,呉札、鄭喬,能喻斯好。」
維不答書,列營守險。
会不能克,糧運縣遠,将議還歸。鍾会は姜維に文書を送り述べた、
「あなたは文武両面にわたる才能をもたれ、世人をしのぐ策略を胸に抱かれ、功業を巴・漢の地にあげられ、名声は中華の地にまで聞えわたり、遠きも近きもあなたに心を寄せないものはございません。過去に思いを馳せるたびに、かつては〔国を異にしても〕大きな理想に心を通わせたことを考えるのです。呉の季札と鄭の子産の交情(春秋時代、二人は国を異にしながらよく理解しあった)は、友情のあり方というものを理解しておりました。」
姜維は返書を出さず、軍営をつらね要害を固めた。
鍾会は抜くことができず、はるか遠方から兵糧輸送を行っているため、帰還の相談をしようと考えた。
而鄧艾自陰平由景穀道傍入,遂破諸葛瞻於綿竹。
後主請降於艾,艾前據成都。
維等初聞瞻破,或聞後主欲固守成都,或聞欲東入呉,或聞欲南人建寧。
於是引軍由廣漢、郪道以審虛實。ところが鄧艾は陰平から景谷道を通って〔剣閣の〕脇から侵入し、かくて綿竹において諸葛瞻を撃破した。
後主が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都を占領した。
姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、後主は成都を堅守するつもりでいるとか、東方の呉に入国するつもりであるとか、南方の建寧に入るつもりであるとか、いろいろの情報が流れた。
そこで軍を引いて、広漢・郪(し)の街道を通りつつその真偽を確認しようとした。尋被後主敕令乃投戈放甲,詣会於涪軍前,将士鹹怒,拔刀斫石。
ついで後主の勅令をうけたので、武器を投げ出しよろいをぬいで、鍾会のもとに出頭し、涪の陣営の前まで赴いた。将兵はみな怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切った。
〈干寶晉紀云:會謂維曰;「來何遲也?」維正色流涕曰:「今日見此為速矣!」會甚奇之。〉
干宝(かんぽう)の『晋紀』にいう。鍾会が姜維に向かって、「どうして来るのがおそかったのだ」といった。姜維はきりっとした表情になり、涙を流して、「今日ここでお会いしたのは早すぎると思っています」と答えた。鍾会は彼をひじょうに立派だと思った。
会厚待維等,皆権還其印號節蓋。
会與維出則同輿,坐則同席,謂長史杜預曰:
「以伯約比中土名士,公休、太初不能勝也。」鍾会は姜維らを手厚くもてなし、かりの処置として、彼らの印璽・節(はた)・車蓋をみな返してやった。鍾会は姜維と外出するときには同じ車に乗り、座にあるときには同じ敷物に坐り、長史の杜預に向かって、「伯約(姜維)を中原の名士と比較すると、公休(諸葛誕)や太初(夏侯玄)でも彼以上ではあるまいな」といった。
〈世語曰:時蜀官屬皆天下英俊,無出維右。〉
会既構鄧艾,艾檻車征,因将維等詣成都,自稱益州牧以叛。
鍾会は鄧艾を罪に陥れ、鄧艾が護送車で召還されたのち、そのまま姜維らを率いて成都に至り、勝手に益州の牧と称して反旗をひるがえした。
〈漢晉春秋曰:會陰懷異圖,維見而知其心,謂可構成擾乱以圖克復也,乃詭説會曰:「聞君自淮南已來,算無遺策,晉道克昌,皆君之力。今復定蜀,威德振世,民高其功,主畏其謀,欲以此安歸乎!夫韓信不背漢於擾攘,以見疑於既平,大夫種不從范蠡於五湖,卒伏劍而妄死,彼豈闇主愚臣哉?利害使之然也。今君大功既立,大德已著,何不法陶硃公泛舟絕跡,全功保身,登峨嵋之嶺,而從赤松游乎?」會曰:「君言遠矣,我不能行,且為今之道,或未盡於此也。」維曰:「其他則君智力之所能,無煩於老夫矣。」由是情好歡甚。
華陽國志曰:維教會誅北來諸将,既死,徐欲殺會,盡坑魏兵,還復蜀祚,密書與後主曰:「原陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。」
孫盛晉陽秋曰:盛以永和初從安西将軍平蜀,見諸故老,及姜維既降之後密與劉禅表疏,説欲偽服事鍾會,因殺之以復蜀土,會事不捷,遂至泯滅,蜀人於今傷之。盛以為古人云,非所困而困焉名必辱,非所據而據焉身必危,既辱且危,死其将至,其姜維之謂乎!鄧艾之入江由,士衆鮮少,維進不能奮節綿竹之下,退不能總帥五将,擁衛蜀主,思後圖之計,而乃反覆於逆順之間,希違情於難冀之會,以衰弱之國,而屢觀兵於三秦,已滅之邦,冀理外之奇舉,不亦闇哉!
臣松之以為盛之譏維,又為不當。於時鍾會大衆既造劍閣,維與諸将列營守險,會不得進,已議還計,全蜀之功,幾乎立矣。但鄧艾詭道傍入,出於其後,諸葛瞻既敗,成都自潰。維若回軍救内,則會乘其背。當時之勢,焉得兩濟?而責維不能奮節綿竹,擁衛蜀主,非其理也。會欲盡坑魏将以舉大事,授維重兵,使為前驅。若令魏将皆死,兵事在維手,殺會復蜀,不為難矣。夫功成理外,然後為奇,不可以事有差牙,而抑謂不然。設使田單之計,邂逅不會,復可謂之愚闇哉!〉
『漢晋春秋』にいう。
鍾会はひそかに反逆の意図を抱いていた。姜維は会見して彼の本心を見抜き、騒乱状態を作り出すことによって蜀復興の道が開けると考えた。
そこで詭計を立てて鍾会に進言した、
「聞けばあなたは淮南の戦役(毌丘倹・諸葛誕の反乱鎮圧)以来、計策に遺漏なく、晋の政道が隆盛になったのも、みなあなたのおかげであるとか。
今また蜀を平定されて、威光と恩徳は世間にとどろき、民衆はあなたの功績を高く評価し、主君はあなたの軍略を畏怖しておられます。
かかる状況をもって誰に身を寄せるおつもりですか。〔誰も受け入れてくれませんぞ。〕
そもそも韓信は混乱の時代に漢を裏切らなかったため、平和になってから疑われ、大夫種(しょう)(春秋時代の越の臣)は五湖に舟を浮かべて立ち去った范蠡の態度を見習わなかったため、けっきょく自決を迫られ無駄死をしました。
彼ら(漢の高祖・越王勾践、韓信・大夫種)はいったい暗愚な君主、愚かな臣下であったのでしょうか。利害によってそうなったまでです。
いま、あなたは大きな功績をすでに樹立され、大きな徳をすでに明らかにされておられます。
どうして陶朱公(范蠡)が舟を浮かべて行先をくらまし、功名を維持し見の安全を保った手本とし、〔漢の張良が望んだように〕峨眉山に登って、仙人の赤松子に従って遊ぼうとはなさらないのですか。」
鍾会が、「あなたの言葉は浮世離れしていて、わしにはとても実行できない。それに現在とるべき手段はなにもそれだけに限るまい」というと、姜維は、「それ以外の手段(反逆することを意味する)ならば、あなたの才智と能力によってできることです。この老人をわずらわせるまでもないでしょう」と答えた。このことから、二人の間はいよいよ親密になった。『華陽国志』にいう。
姜維は鍾会をそそのかして、北方(魏)から来た諸将を誅殺させ、彼らが死んだあと、おもむろに鍾会を殺し、魏の兵士をことごとく生き埋めにし、蜀朝を復興させるつもりだった。
後主に密書を送って次のように述べた、「願わくば陛下には数日の屈辱をお忍びくださらんことを。臣は危機に瀕した社稷をふたたび安んじ、光を失った日月をふたたび明るくするつもりです。」孫盛の『晋春秋』にいう。
私孫盛は、永和の初年、安西将軍(桓温)の蜀平定に随行し、古老たちと会った。
姜維が降伏した後、ひそかに劉禅に上奏文を送って、鍾会に服従したふりをし、機会をとらえて彼を殺し、蜀の国土をとり戻すつもりだと申し送ったが、計画が失敗に帰したため、けっきょく滅亡になったという話になると、蜀の人々は今でもこれを残念がっていた。
私の考えでは、古人(孔子)は「困(くる)しむ必要のないことに困めば、わが名は必ず辱められ、いるべきでないところにいれば、わが身は必ず危うくなる。屈辱を蒙ったうえに危険が迫れば、死期は今にも訪れよう」(『易』繋辞伝下)といっているが、それは姜維にあてはまることであろうか。鄧艾が江由へ侵入した際、軍勢は少数であったにもかかわらず、積極的には姜維は綿竹における戦いに参加して忠節を誓うこともできず、消極的には五将を指揮して蜀の君主を護衛しつつ、今後の謀りごとを立てることもできなかった。しかも順(魏に帰順したこと)・逆(反乱に参与したこと)の間をいったりきたりし、期待し難い機会をつかんで、鍾会の厚情を裏切ることを考え、衰弱した国力をもって、何度も三秦(関中)に圧力をかけてみたり、滅亡した国をもって、道理にはずれた成功を収めようと望んだりした。なんと愚かなことよ。臣裴松之の意見。
孫盛の姜維に対する避難はやはり妥当ではないと考える。当時、鍾会の大軍はすでに剣閣まで到達していたが、姜維が諸将とともに陣営を連ねて要害を防衛したからこそ、鍾会は侵攻することができず、帰還の計画を相談しはじめたのであって、蜀を無事に守りきる功業は、ほとんど樹立されるところだった。ただ鄧艾がぬけ道を通って脇から侵入し、その後方に進出し、諸葛瞻が敗北したのち成都が自滅したのである。姜維がもし軍をめぐらして国内の救援に向かっていたならば、鍾会はその背後を襲っていたであろう。当時の情勢ではどうして〔剣閣と国内の〕両方を救うことが可能であったろうか。それなのに姜維が綿竹で忠節を奮うことができなかったとか、蜀の君主を護衛できなかったとか非難しているのは、理屈にあわない。
鍾会は魏の将をことごとく生き埋めにして反逆の大事を決行し、姜維に重装備の軍兵を授け、先鋒をつとめさせようと計画した。もしも魏の将が皆殺しにされ、兵権が姜維の手に握られていたならば、鍾会を殺害して蜀を復興するのも困難ではなかったであろう。
そもそも功業は道理の外で成就されて、はじめてすぐれたものとされるのである。事にいきちがいがあって、うまくいかなかったのだからといって、けなしてだめだというべきではない。もし田単(戦国時代奇策によって燕を破り、滅亡寸前の斉を救った名将)の計略が、機会にめぐりあえず失敗していたとするならば、それを暗愚といってよかろうか。
……
264年(咸煕元-曹奐/-/元興元-孫休、孫皓)
63歳。
鍾会の乱。殺される。
欲授維兵五萬人,使為前驅。魏将士憤發,殺会及維,維妻子皆伏誅。
姜維に兵士五万を授け、先鋒をつとめさせるつもりだったが、魏の将兵は憤激して鍾会と姜維を殺害した。姜維の妻子もみな処刑された。
〈世語曰:維死時見剖,膽如(斗)大。〉
郤正著論論維曰:
「姜伯約據上将之重,處群臣之右。
宅舍弊薄,資財無餘,側室無妾媵之褻,後庭無聲樂之娛。衣服取供,輿馬取備,飲食節制,不奢不約,官給費用,隨手消盡;察其所以然者,非以激貪厲濁,抑情自割也。
直謂如是為足,不在多求。凡人之談,常譽成毀敗,扶高抑下,鹹以姜維投厝無所,身死宗滅,以是貶削,不復料擿,異乎《春秋》褒貶之義矣。
如姜維之樂學不倦,清素節約,自一時之儀表也。」郤正は論文を書いて姜維について述べた、「姜伯約は上将の重責を占め、群臣の上に位置していたが、粗末な家に住み、余分な財産を持たず、別棟に妾を置く不潔さもなく、奥の間で音楽を奏させるたのしみももたず、あてがわれた衣服をまとい、備えつけの車と馬を使用し、飲食を節制して、ぜいたくもせず倹約もせず、お上より支給された俸禄の類を右から左へ使い果たした。彼がそうした理由を推察すると、それによって貪欲な者や不潔な者を激励しようとしたり、自己の欲望を抑制し断ち切ろうとしたのではない。ただそれだけで充分であり、多くを求める必要はないと考えたからであった。およそ人の議論というものは、つねに成功者をたたえて失敗者をけなし、高いものをさらにもちあげ、低いものをさらに抑えつけるものであって、誰も彼も姜維が身を寄せる場所もなく、その身は殺され一族は根絶やしにされたことをとりあげ、それを理由に非難をあびせ、もう一度検討しなおそうとはしないが、これは『春秋』が示す価値判断のたてまえとは違ったものである。姜維のように学問を楽しんで倦むことなく、清潔で質素、自己を抑制した人物は、当然その時代の模範なのである。」
※注で、孫盛が郤正の論を奇妙だと、姜維を非難している。それに対して裴松之が反論していたり。
〈孫盛曰:異哉郤氏之論也!夫士雖百行,操業萬殊,至於忠孝義節,百行之冠冕也。姜維策名魏室,而外奔蜀朝,違君徇利,不可謂忠;捐親苟免,不可謂孝;害加舊邦,不可謂義;敗不死難,不可謂節;且德政未敷而疲民以逞,居禦侮之任而致敵喪守,於夫智勇,莫可雲也:凡斯六者,維無一焉。實有魏之逋臣,亡國之乱相,而雲人之儀表,斯亦惑矣。縱維好書而微自藻潔,豈異夫盜者分財之義,而程、鄭降階之善也?
臣松之以為郤正此論,取其可稱,不謂維始終行事皆可準則也。所云「一時儀表」,止在好學與儉素耳。本傳及魏略皆雲維本無叛心,以急逼歸蜀。盛相譏貶,惟可責其背母。餘既過苦,又非所以難郤正也。〉
孫盛はいう。
郤正の論は何と奇妙なことよ。
そもそも士人たる者はくさぐさの行為をなし、生き方はさまざまにわかれるけれども、忠孝義節ということになると、それは全ての覆う最高のものである。
姜維は魏朝の官禄をはみながら、蜀朝に出奔し、主君に背き利益に走ったのだから、忠ということはできない。
親を見捨てて危険を免れようとしたのだから、孝ということはできない。
故国に害を加えたのだから、義ということはできない。
国が敗れながら危難に命を投げ出さなかったのだから、節ということはできない。
そのうえ政治の恩恵がまだゆきわたっていないのに、民衆を疲弊させ武力をふるい、防禦の任務につきながら、敵を招きよせ拠点を失った。
その智と勇についても特筆すべき何事もない。
およそこの六点(忠・孝・義・節・智・勇)のうち、姜維はなに一つ所有していないのである。
まことに魏朝の亡命者、亡国の乱相である。
それを人間の模範と称すとは、なんと見当はずれであることよ。
たとえ姜維が書物を好み少々清潔な生き方をしたとしても、いったいあの盗んだ物を貧乏人に分けてやるような盗人の道義心や、高い官位を降りようとした程鄭の善行と異なろうか。臣裴松之の意見。
郤正のこの論は、姜維の称賛すべき点をとりあげたもので、姜維のすべての行為を模範とすべきだと述べているわけではない。
「その時代の模範」という言葉は、ただ学問を好んだことと倹約・質素であったことについての言である。
しかも本伝および『魏略』ではいずれも姜維には本来反逆の心がなかったのだが、危急に迫られ蜀に帰順したといっている。
孫盛は非難するならば、ただ母に背いたことだけを責めればよい。
その他はあまりにも過酷であり、また郤正を攻撃する論拠にはなりえない。維昔所俱至蜀,梁緒官至大鴻臚,尹賞執金吾,梁虔大長秋,皆先蜀亡沒。
昔、姜維といっしょに蜀にやってきた人たちのうち梁緒は大鴻臚に、尹賞は執金吾に梁虔は大長秋にそれぞれ官位が上ったが、みな蜀の滅亡より先に没した。
「三国志」姜維-ちくま索引
①
303-6
309
321
335
357
358
③
478-483
④
182
183
218
220
269
270
273-275
276
282
295-297
299
300
302-306
⑤
81-84
87
89
128
129
139
140
151
152
191
266
285
291
297
339
353
405
406
412
413
420★
441
447
448
451-453
481
483
⑧
105
106
① 303-304 ── 斉王紀注 (諸葛恪に呼応した姜維について、虞松が司馬師に分析) ※253年
① 305 ── 斉王紀 (費禕暗殺者郭脩を誉める詔勅。姜維が捕らえた) ※253年
① 306 ── 斉王紀注 (姜維が郭脩を脅迫したが屈しなかった)
① 309 ── 斉王紀注 (内容は許允の司馬昭、司馬師暗殺計画が中心) ※254年
① 321 ── 高貴郷公紀 (8月、姜維に王経が大敗したこと) ※255年
① 335 ── 高貴郷公紀 (鄧艾が姜維に段谷で大勝、詔勅) ※256年
① 357 ── 陳留王紀 (10月、姜維が洮陽侵入、侯和で鄧艾に撃破される) ※262年
① 358 ── 陳留王紀 (5月、詔勅。姜維の非難。蜀がたのみにしているのは姜維一人。蜀討伐を命じる) ※263年
※蜀討伐の詔勅の姜維評とか、他
http://medamayaki1.blog6.fc2.com/blog-entry-277.html
③ 478-483 ── 陳泰伝 (陳泰関連の戦い。牛頭山。王経。) ※249-255年
④ 182 ── 郭淮伝 (隴西に進出。退却) ※240年
④ 183 ── (郭淮が夏侯覇を姜維に向かわせ、郭淮自身は廖化を攻撃。) ※248年
④ 218 ── 王基伝 (王基が司馬昭の呉侵入を諫める中で、言及) ※258年
④ 220 ── 王基伝注 (本文のより詳細のもの) ※258年
④ 269-270 ── 鄧艾伝 (鄧艾が郭淮とともに姜維の侵攻を防ぐなど) ※249年
④ 273-275 ── 鄧艾伝 (鄧艾が王経を救援、姜維の作戦の5つの分析) ※255年
④ 274 ── 鄧艾伝 (鄧艾、段谷の戦いで姜維に勝利) ※256年
④ 274 ── 鄧艾伝 (鄧艾へ詔勅。姜維に勝利したこと) ※256年
④ 274 ── 鄧艾伝 (鄧艾、姜維を長城で防ぐ) ※257年
④ 274 ── 鄧艾伝 (鄧艾、姜維を侯和で破る) ※262年
④ 275 ── 鄧艾伝 (蜀討伐) ※263年
④ 276 ── 鄧艾伝 (鄧艾が姜維をひきあいに自慢話) ※263年
④ 282 ── 鄧艾伝 (段灼の鄧艾擁護の上奏の中) ※267年
④ 295-297 ── 鍾会伝 (蜀討伐・剣閣) ※263年
④ 299 ── 鍾会伝 (蜀討伐・諸葛緒のこと) ※263年
④ 300 ── 鍾会伝 (蜀滅亡・降伏) ※263年
④ 302-306 ── 鍾会伝 (鍾会の乱) ※263-364年
⑤ 81-84 ── 後主伝 (いろいろ) ※242-263年
⑤ 87 ── 後主伝 (降伏した劉禅の勅命) ※263年
⑤ 89 ── 後主伝 (洛陽の劉禅に関する司馬昭の言葉の中。)
⑤ 128 ── 諸葛亮伝注 (諸葛亮が姜維をとらえたこと) ※228年
⑤ 129 ── 諸葛亮伝注 (裴松之がそのことについて)
⑤ 139 ── 諸葛亮伝注 (姜維が諸葛亮に、辛毘がきたから出てこないだろうと言ったこと) ※234年
⑤ 140 ── 諸葛亮伝注 (諸葛亮死後の撤退) ※234年
⑤ 151 ── 諸葛亮伝 (樊建のところ)
⑤ 152 ── 諸葛亮伝注 (諸葛瞻・董厥らとの関係について)
⑤ 191 ── 趙雲伝(注) (趙統のこと。注で趙雲の諡号についての意見)
⑤ 266 ── 陳祗伝 (実権は姜維より大きかったとか。258年死去)
⑤ 285 ── 廖立伝 (姜維が流された廖立を訪れて意気が衰えないことを称賛した)
⑤ 291 ── 李厳伝注 (諸葛亮の李厳関連の文の中)
⑤ 297 ── 魏延伝 (諸葛亮死後のこと) ※234年
⑤ 339 ── 来敏伝 (来敏の子、来忠のこと)
⑤ 353 ── 譙周伝注 (注で孫盛が言及。内容は劉禅、譙周を非難)
⑤ 405 ── 張嶷伝 (北伐)
⑤ 406 ── 張嶷伝注 (姜維の北伐に加わる前の張嶷の劉禅への言葉)
⑤ 412 ── 蒋琬伝 (費禕と一緒に蒋琬に聖旨をつたえた)
⑤ 413 ── 蒋琬伝 (蒋琬の上疏の中)
⑤ 420-435 ── ★姜維伝 (姜維伝)
⑤ 441 ── 鄧芝伝 (姜維の才能を評価)
⑤ 447 ── 張翼伝 (張翼。姜維にただ一人反論) ※255年
⑤ 448 ── 張翼伝 (張翼、しかたなく姜維に従う。蜀滅亡) ※-263年
⑤ 451-452 ── 廖化伝注 (姜維を批判)
⑤ 453 ── 楊戯伝 (楊戯が姜維に従って芒水に。姜維に心服してなくていつも嘲笑。姜維は嫌悪して、帰還後免官させた)
⑤ 481 ── 楊戯伝(季漢輔臣賛) (王嗣とか)
⑤ 483 ── 評 (張翼の評の部分)
※姜維伝以外の姜維さん①(蜀)
http://medamayaki1.blog6.fc2.com/blog-entry-279.html
⑧ 105-106 ── 諸葛恪伝注 (諸葛恪が姜維に手紙を送った) ※253年
姜維の文章(全三国文)
蒲元伝を書いたらしい。
姜維[编辑]
維字伯約,天水冀人。仕魏為郡從事中郎,參本郡軍事。見疑來降,丞相亮辟為倉曹掾,加奉義將軍,封當陽亭侯,遷中監軍征西將軍。亮卒,為右監軍輔漢將軍,進封平襄侯,遷鎮西大將軍,領涼州刺史,又遷衛將軍,錄尚書事,加督中外軍事,拜大將軍。以假谷之敗,貶為后將軍,行大將軍事。后復拜大將軍。以避黃皓住沓中,尋拒鍾會于劍閣。蜀亡,謀興復,為魏將士所殺。
表后主[编辑]
聞鍾會治兵關中,欲規進取,宜并遣張翼、廖化督諸軍分護陽安關口、陰平橋頭,以防未然。《蜀志·姜維傳》密書通后主[编辑]
愿陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。《華陽國志》七欲偽服事鍾會,因殺之以復蜀土。《蜀志·姜維傳》注引《晉陽秋》,密與劉禪表疏云云。
議謚趙云[编辑]
云昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石。忠以衛上,君念其賞;禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹案《謚法》:「柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平。」應謚云曰「順平」矣。《蜀志·趙云傳》注引《云別傳》建議殄敵[编辑]
錯守詣圍,雖合《周易》重門之義,然適可御敵,不獲大利,不若使聞敵至,諸圍皆斂兵聚谷,退就漢、樂二城,使敵不得入。平且重關鎮守以捍之,有事之日,令游軍并進,以伺其虛。敵攻關不克,野無散谷,千里縣糧,自然疲乏。引退之日,然后諸城并出,與游軍并力搏之,此殄敵之術也。《蜀志·姜維傳》報母書[编辑]
良田百頃,不計一畝。但見遠志,無有當歸。《晉書·五行志》中。又《御覽》三百十引孫盛《雜記》。又九百八十九引孫盛《異同評》蒲元傳[编辑]
君性多奇思,于斜谷為諸葛亮鑄刀三千口,刀成,自言漢水鈍弱,不任淬用,蜀江爽烈,是謂大金之元精,天分其野,乃命人于成都取江水。君以淬刀,言雜涪水,不可用。取水者捍言不雜。君以刀畫水,言雜八升。取水者叩頭云,于涪津覆水,遂以涪水八升益之。以竹筒內鐵珠滿中,舉刀斷之,應手虛落,因曰神刀。今屈耳環者,乃是其遺范。《藝文類聚》六十蒲元別傳[编辑]
君性多奇思,得之天然,鼻類之事出若神,不嘗見鍛功,忽于斜谷為諸葛亮鑄刀三千口。熔金造器,特異常法。刀成,白言漢水鈍弱,不任淬用,蜀江爽烈,是謂大金之元精,天分其野,乃命人于成都取之。有一人前至,君以淬刀,言雜涪水,不可用。取水者猶捍言不雜,君以刀畫水,云「雜八升,何故言不雜衤集?」取水者方叩首伏,云實于涪津渡負倒覆水,懼怖,遂以涪水八升益之。于是咸共驚服,稱為神妙。刀成,以竹筒密內鐵珠滿其中,舉刀斷之,應手靈落,若生芻,故稱絕當世,因曰神刀。今之屈耳環者,是其遺范也。《御覽》三百四十五
関連
備考
とりあえず整理。