小説の会話と日常の会話は、似ていることもあるにしても、同じだとみなすことはできない。
小説、会話というテーマで思い出すのはクンデラによるヘミングウェイの短編小説「白い象のような山並み(Hills Like White Elephants)」についての考察。
一つの状況の、なかんずく会話の視覚的かつ聴覚的な表層をとらえようとしているのである。
(クンデラ「裏切られた遺言」)
会話の本質?
会話の本質とはなにか。
小説の形式で特徴的なもののひとつ、会話部分を独立させるための話法(直接話法)があるということといえるのではないか。
小説と思考
小説の形式は、思考の形式ともっともよく似ている――という風に最近は考えていたり。
小説も思考も、言葉をメインで用いること、直線的時間的、シングルタスク的(リンゴという単語に複数のニュアンスをもたせることはできても、それを”同時に”受け取ることはできない)……。
会話は、台詞の部分は視覚的、聴覚的なものである。
コミュニケーションは、会話と同時に発生することが多いが、根本的にはそれとはまた別の経路で行われる、テレパシーのようなものではないのか。
コミュ障(言語能力に障害があるわけではない)が成立する理由。
コミュニケーション能力はテレパシー能力のようなものだと思えば、会話の意味のなさ、会話の台詞部分の、思考などとの異質さ(カギカッコでくくるのがふさわしい)も理解できるのではないか。
視覚的、聴覚的な会話とテレパシー部分の融合
クンデラのいうヘミングウェイの視覚的、聴覚的会話について。
ヘミングウェイは、「白い象のような山並み」で、このような会話とはどのようなものかということの真理に迫ろうとしたのではないか。
テレパシー部分を、ヘミングウェイは会話に混ぜることはしなかった。
その他の(あるいはそれ以前の)大部分の小説の会話は、大抵の場合、わかりやすいようにという理由で(真理の探求よりも、世界は安易に理解できるものとして描きだすことを優先して)、視覚的、聴覚的であるはずの会話に、テレパシー部分を補完して作られる。
その結果、日常会話はこんな風にはならないだろうということが読者にもわかる(否定されるわけではない)会話が、大多数の小説的会話として書かれていく。
テープで録音した会話を聞いてみれば、たとえそれが後で公開されることを前提とした対談であっても、やはり会話的であることを免れない(原稿を朗読するのでないかぎり)。
会話とテレパシーをあわせたものが台詞である、といっていいのだろうか。
特に演劇の場合は顕著かも。そうでないとなりたたない。
続き
そして、それが必ずしも悪いわけではない。
ただし、その融合はあくまで、便宜的に継ぎ合わせたものであるという、根本的には裂け目があるということへの配慮が足りないと、ある種のリアリティが失われる。
テレパシーにたよる部分が多いことから、対話はしばしばテレパシーの不完全さによってちぐはぐになる。
そのミスが一つもない会話が成立する世界は、デフォルメされた世界だとはいえるのではないか。
小説の楽しみあるいは欲求が、世界の認識、実存の認識の楽しみあるいは欲求である――と考えるならば、それは図形の丸を赤で塗っただけのリンゴの絵のようにものたりない。
会話にもいろいろある。
日常生活ではほとんど行わないにしても、議論などの思考的な会話が存在しないわけではない。