2016.06.22
1303文字 / 読了時間:1.6分程度
essay

史実の定義?

史実は、歴史解釈的に正しいと判断された架空の世界――って理解でいいのかな。
どのみちそんな風に考えているけれど。

たとえば映画の形式みたいな世界観で、過去とは巻き戻した部分のことで、史実とは確かにその巻き戻した部分であること……ということとは違うんじゃないかと思ってたり。

まあとりあえずそんな前提で。

歴史の定義?

人間の思考は、省エネのために(進化論的に有利そうってことで)モデルを参考にするようになっているんじゃないかなとか。
シミュラクラ現象(模様がすぐに顔にみえるあれ)みたいな感じで。

歴史は、その系譜のなかにあるんじゃないかな。

個人的な生き方のモデル、社会的な生き方のモデル……そういうものを必要だと考えるニーズにこたえるものとして歴史という概念に含まれるものは生み出されてきたんじゃないかなとか。

だからこそ、歴史認識のなかではほとんど常に「人物」がその時代を代表する顔となり、またその時代を象徴する言葉(台詞やあるいはモットーなど)が想定される。

歴史はいわば人体的に人間によって認識されるもので、昔からありつづけているのではないか。

たとえば、第2次世界大戦のドイツといえばヒットラーであって、多数いたはずのドイツ人たちはヒットラーに比べればはるかに存在感がない。
またカエサルは、「賽は投げられた」という。

そして、それは稚拙さというわけでもない。

現代の歴史学は最近誕生したもので、それは歴史へのアプローチのひとつにすぎない。

だからまあ歴史小説を歴史学論文の下位互換みたいにみなすことには違和感がある。
歴史小説家が、そういう考え方だったりすることもありえるから、ややこしいわけで。

とりあえず、人間が好む歴史は――「人物」がいて、彼らの「言葉」がある、そしてそれらは自らの個人的な生き方のモデル、属する社会のモデルとなるとみなすことができる――そういうものであって、これらは歴史学的な水準がどうであれ、必要とされるために存続しつづけていくんじゃないかなとか。

顔と言葉の特殊な地位という可能性?

歴史だけでもないけれど。

顔と言葉は、人間の認識のなかで、特異な地位を占めているのではないかという実感はあるかも。

顔はシミュラクラ現象的なものも含めて。

チェシャ猫の消え方も、顔(表情)には特殊な地位がある、と受け取れば、それほど変わったことでもないのではないか。

言葉は、ここでは話し言葉(台詞)のこと。

話し言葉(パロール)は、人間の認識にとって特異な地位を占めるのではないか。

パロールとエクリチュール――小説

小説自体をエクリチュールとしてとらえるのではなくて。

直接話法か直接話法でないか――の区別により高い地位を与えて考えてみることの意義?

直接話法を含む小説は、直接話法と非直接話法で成り立っている。

パロールとかの用語を使って言いなおすとこんなかんじ。

直接話法(パロール)を含む小説は、直接話法(パロール)と非直接話法(エクリチュール)で成り立っている。

人間の認識が話し言葉としてとらえるときには、書き言葉としてとらえるときと、それは違う存在の水準にあるのではないかということ。

まとめ

とりあえず、メモ。





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