2016.07.17
3967文字 / 読了時間:5分程度
三国志

阮籍の「為鄭沖勧晋王牋」が書かれた時期について――の記事の続き。

阮籍と司馬昭の関係?

阮籍と司馬昭の関係は解釈がわかれるところ。

  • 阮籍は反司馬氏派(司馬昭含む)だったけれど、権力によって無理やり加担させられた被害者説(これについては阮籍に同情する派、阮籍批判派がある感じ)
  • 阮籍は司馬昭派説

阮籍の作品からのアプローチだと、阮籍は反司馬氏派だったことにしたほうが、作品と作者の現実がより密接になって良いという側面はあるような。

ただし、作者と作品を結びつけすぎることは危険であることも確か。

阮籍と嵆康と司馬昭

同じ竹林の七賢にも後世加えられていたり、何かとセットで扱われることが多い阮籍と嵆康だけれど。

とりあえず、嵆康と阮籍は親しかったらしい。

晋書、阮籍伝

籍又能為青白眼,見禮俗之士,以白眼對之。及嵇喜來弔,籍作白眼,喜不懌而退。
喜弟康(嵆康)聞之,乃齎酒挾琴造焉,籍大悅,乃見青眼。
由是禮法之士疾之若仇,而帝每保護之。

で、その嵆康といえば毌丘倹の乱のときに毌丘倹に協力しようとした(結局やめた)けれど。

晋書、嵆康伝

初,康居貧,嘗與向秀共鍛於大樹之下,以自贍給。潁川鐘會,貴公子也,精練有才辯,故往造焉。康不為之禮,而鍛不輟。良久會去,康謂曰:「何所聞而來?何所見而去?」會曰:「聞所聞而來,見所見而去。」會以此憾之。及是,言於文帝曰:「嵇康,臥龍也,不可起。公無憂天下,顧以康為慮耳。」因譖「康欲助毌丘儉,賴山濤不聽。昔齊戮華士,魯誅少正卯,誠以害時亂教,故聖賢去之。康、安等言論放蕩,非毀典謨,帝王者所不宜容。宜因釁除之,以淳風俗」。帝既昵聽信會,遂並害之。

阮籍伝でも嵆康伝でも鍾会が登場することは結構意味があるかもしれないと考えているけれど、今はそれはおいといて。

このことから、嵆康は反司馬氏派だったと考えられるけれど。

ただ、この毌丘倹の乱の時(255)は、まだ司馬師が生きているということはあったり。

そして、毌丘倹の上奏文をみると、毌丘倹は、司馬師を廃して弟司馬昭を立てるべきだと言っていたり。

(毌丘倹伝注)

按師之罪、宜加大辟、以彰奸慝。
春秋之義、一世為善、一世宥之。懿有大功、海内所書、依古典議、廃師以侯就弟。
弟昭、忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度、忠誠為国、不与師同。

司馬師の罪を考えますと、大罪を加えて、邪悪を明白に示すのが当然と存じます。『春秋』のたてまえでは、一代において善をおこなえば、十代にわたって罪をゆるされます。
司馬懿には大功があり、海内の書に記されております。古典の判断に依拠し、司馬師をやめさせて、列侯として邸に帰しますように。
弟の司馬昭は、誠実でつつしみ深く、寛大で明るく、善を楽しみ士人を愛し、世俗を超越した君子の風格があり、国家のために忠誠を捧げておりまして、司馬師とは異なります。
臣どもは打ち首を覚悟に保証いたします。司馬師の代りとして玉体を輔導いたさせますように。

つまり、後世からみると、司馬師と司馬昭(司馬懿、司馬炎等も)は、あくまで同じ司馬氏として一緒くたに扱うことが多い気がするけれど、当時の人間にとってはそうではなかったらしいということは、蔑ろにしない方がいいんじゃないかなとか。

てことで、少なくとも阮籍が嵆康と親しかったからという理由で反司馬昭でもあったと解釈することは難しいんじゃないかなとか。

阮籍と司馬昭の距離?

晋書を見る限り、阮籍は司馬昭にかなり親しかったんじゃないかなとは思えてきたり。

晋書、阮籍伝

籍本有濟世志,屬魏、晉之際,天下多故,名士少有全者,籍由是不與世事,遂酣飲為常。
文帝初欲為武帝求婚於籍,籍醉六十日,不得言而止。
鐘會數以時事問之,欲因其可否而致之罪,皆以酣醉獲免。

及文帝輔政,籍嘗從容言於帝曰:「籍平生曾游東平,樂其風土。」帝大悅,即拜東平相。
籍乘驢到郡,壞府舍屏鄣,使內外相望,法令清簡,旬日而還。

籍は本より世をすくうの志有るも、魏、晋の際に属し、天下、故多く、名士全きこと有る者少なし。
籍、是に由世事にあずからず、遂に酣飲を常とす。
文帝、初め武帝の為に婚を籍に求めんと欲するも、籍は醉うこと六十日、言うを得ずして止む。
鍾会、しばしば時事を以て之に問い、其の可否に因りて罪に致さんことを欲す。
皆、酣醉を以て免るるを獲たり。

……

籍聞步兵廚營人善釀,有貯酒三百斛,乃求為步兵校尉。
遺落世事,雖去佐職,恆遊府內,朝宴必與焉。
會帝讓九錫,公卿將勸進,使籍為其辭。
籍沈醉忘作,臨詣府,使取之,見籍方據案醉眠。使者以告,籍便書案,使寫之,無所改竄。辭甚清壯,為時所重。

籍、步兵の廚營の人の善く釀して、酒三百斛を貯うる有りと聞き、乃ち求めて歩兵校尉と為る。
世事を遺落し、佐職を去ると雖も、恆に府内に遊び、朝宴は必ず焉に與かる。

帝の九錫を讓るに会い、公卿は将に勧進せんとし、籍をして其の辞をつくらしむ。
籍は沈醉して作を忘る。
府にいたるに臨んで、之を取らしむるに、籍のまさに案に據りて醉眠するを見る。
使者以て告ぐれば、籍は便ち案に書して之を寫さしめ、改竄する所無し。
辞は甚だ清壮、時の重んずる所となる。

この辺は阮籍は司馬昭派と考えてよさそうな部分。

  • 文帝初欲為武帝求婚於籍
  • 及文帝輔政,籍嘗從容言於帝曰:「籍平生曾游東平,樂其風土。」
  • 遺落世事,雖去佐職,恆遊府內,朝宴必與焉。
  • 使者以告,籍便書案,使寫之,無所改竄。辭甚清壯,為時所重。

この辺は、阮籍は反司馬昭派だったと考えてもよさそうな部分。

  • 籍本有濟世志,屬魏、晉之際,天下多故,名士少有全者,籍由是不與世事,遂酣飲為常。
  • 鐘會數以時事問之,欲因其可否而致之罪,皆以酣醉獲免。(※鍾会は司馬昭の腹心ということで)
  • 籍沈醉忘作(※勧進文書きたくなかったからサボタージュで超消極的抗議?)

阮籍は司馬昭派だった説をとる場合?

阮籍は司馬昭派だった説をとる場合、次の点をどう処理するかについて。

  • 籍本有濟世志,屬魏、晉之際,天下多故,名士少有全者,籍由是不與世事,遂酣飲為常。
  • 鐘會數以時事問之,欲因其可否而致之罪,皆以酣醉獲免。(※鍾会は司馬昭の腹心ということで)
  • 籍沈醉忘作(※勧進文書きたくなかったからサボタージュで超消極的抗議?)

「籍本有濟世志,屬魏、晉之際,天下多故,名士少有全者,籍由是不與世事,遂酣飲為常」――これについては、阮籍伝の著者の解釈だということでとりあえず保留すればよさそう。

「鐘會數以時事問之,欲因其可否而致之罪,皆以酣醉獲免」――これについては、単に阮籍が鍾会個人を嫌っていた(白眼視のエピソード他等から)だけという可能性も高そう。鍾会が来たのも、司馬昭の意向ではなく単に鍾会の個人的意向で阮籍を陥れたかっただけとか。

「籍沈醉忘作」――単なる酒好き(あるいは依存症)でその時もたまたま酔っ払っていただけ。すぐに書けるものだったから使者が来てからでもいいかと最初から当人は考えていて予定通り。

てことで、結構辻褄もあうし、阮籍は少なくとも反司馬昭ではなかったんじゃないかなという印象。

そうでないと、さすがに勧進文書いたのは、少なくとも褒められたことではないし、擁護もしづらいんじゃないかなとか。

阮籍が司馬昭の側で中途半端な存在な理由?

阮籍が司馬昭の側で中途半端な存在なのは、鍾会の影響が大きかった説。

とりあえず、こんな解釈を考えてみたり。

「籍本有濟世志,屬魏、晉之際,天下多故,名士少有全者」……名士が全うすることが少なかった原因のかなりの部分は鍾会のせいだったという可能性(嵆康等)。

「鐘會數以時事問之,欲因其可否而致之罪」……鍾会は阮籍を陥れようとしたけれども失敗した。ただし、陥れることは成功しなかったにしても権力から遠ざけることについては(陥れるつもりがあるならその程度のことも試みている可能性)失敗していなかった説。歩兵校尉でだらだらしてたのも鍾会のせいだったかもしれない可能性。

阮籍「為鄭沖勧晋王牋」が263年10月に書かれた(その説を採用)にもかかわらず蜀征伐について触れないのは、鍾会(殺されたのは264年1月)の功績を阮籍が取りあげたくなかったから(阮籍がせこくなるけど……)。

鍾会と不仲で鍾会死後から司馬昭の側近として活躍しはじめた羊祜の例もあるし。

晋書、羊祜伝

鐘會有寵而忌,祜亦憚之。
及會誅,拜相國從事中郎,與荀勖共掌機密。

遷中領軍,悉統宿衛,入直殿中,執兵之耍,事兼內外。

晋の時代まで阮籍が生きていたら?

晋の時代まで阮籍が生きていたらどうなったのか。

てことで、あくまでこの解釈をつきすすめていった場合の仮定。

阮籍は263年に死んでいたり。

阮籍の死は勧進文を書いてすぐなので、反司馬昭阮籍解釈の場合、勧進文がよっぽどストレスだった(屈辱だった)とか自殺だったとかも考えることはできるかもしれないけれど、とりあえずそれはおいといて。

司馬昭派阮籍として今回考えると、阮籍の死は単なる病死とかじゃないかな。

ことでもしこの時死なないで(病死だとしたら病気が治るとかで)晋まで生きていたら、阮籍はどうなったかなとか。

鍾会も死んで鍾会の邪魔は入らなくなったわけだし。

竹林の七賢の他のメンバーのように、晋で高位高官にのぼった阮籍――とかも見られたのかも。

「籍本有濟世志」てことなら充分ありえることだと思うし。

晋の三公にのぼった阮籍とか、まあそれはそれで楽しいかも。

とはいえ、作品の評価は作者の評価も混ざってくるから、そうなったら阮籍の作品の評価も下がったかも?

まとめ

基本的に鍾会が好きなので、どうしても鍾会の存在感高めな解釈になりがちだけど……。

それについてはとりあえず、出来る限りなんでも鍾会が関わっている可能性を考えたあと、もう一度振り返って是非その他を検討すればいいんじゃないかな。

とりあえずおわり。





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