2016.07.17
4697文字 / 読了時間:5.9分程度
三国志

阮籍を考える上で、あるいは阮籍と司馬昭の関係を考える上でやっぱり外せないのは「為鄭沖勧晋王牋」だと思ったり。

この阮籍「為鄭沖勧晋王牋」は晋書その他にあるわけではなくて「文選」に収録されている感じ。

阮籍の「為鄭沖勧晋王牋」?

阮籍の「為鄭沖勧晋王牋」は「文選」に収録されていたり。

こんな感じ。

文選、為鄭沖勧晋王牋

阮嗣宗

〈臧榮緒晉書曰:鄭沖,字文和,滎陽人也,位至太傅。又曰:魏帝封晉太祖為晉公,太原等十郡為邑,進位相國,備禮九錫。太祖讓不受。公卿將校皆詣府勸進,阮籍為其辭。魏帝,高貴鄉公也。太祖,晉文帝也。〉

  沖等死罪。伏見嘉命顯至,竊聞明公固讓,沖等眷眷,實有愚心,以為聖王作制,百代同風,褒德賞功,有自來矣。

〈漢書,武帝詔曰:古者賞有功,褒有德。左氏傳,叔孫曰:叔出季處,有自來矣。〉

昔伊尹,有莘氏之媵〈田證切〉臣耳,一佐成湯,遂荷阿衡之號;

〈說苑,鄒子說梁王曰:伊尹,有莘之媵臣,湯立以為三公。史記曰:伊尹欲干湯,乃為有莘媵臣。毛詩曰:實維阿衡,實左右商王。毛萇曰:阿衡,伊尹也。〉

周公藉已成之勢,據既安之業,光宅曲阜,奄有龜蒙;

〈尚書曰:光宅天下。又曰:魯侯伯禽宅曲阜。毛詩曰:奄有龜蒙,遂荒大東。毛萇曰:龜山、蒙山也。〉

呂尚磻溪之漁者,一朝指麾,乃封營丘。

〈尚書中候曰:王即迴駕水畔,至磻溪之水,呂尚釣於崖。史記曰:西伯以呂尚為太師。武王東伐,師尚父左仗黃鉞,右秉白旄以誓。武王以平商,封尚父於齊營丘。魏書,荀攸勸進曰:昔周公承文武之跡,受已成之業;呂望暫把旄鉞,一時指麾。皆大啟土宇,跨州兼國。〉

自是以來,功薄而賞厚者,不可勝數。

〈東觀漢記,曹節上書曰:功薄賞厚,誠有踧踖也。〉

然賢哲之士,猶以為美談。

〈公羊傳曰:魯人至今以為美談。〉

況自先相國以來,世有明德,

〈王隱晉書宣紀曰:天子策命上為相國。又景紀曰:天子策上為相國。毛詩曰:世有哲王。尚書曰:明德惟馨。〉

翼輔魏室,以綏天下,朝無闕政,民無謗言。

〈南都賦曰:朝無闕政,風烈昭宣。左氏傳曰:晉悼公即位,民無謗言,所以復霸也。〉

  前者,明公西征靈州,北臨沙漠,榆中以西,望風震服,羌戎東馳,迴首內向。

〈王隱晉書文紀曰:姜維出隴右,上帥輕兵到靈州,大破之,諸虜震服。漢北地郡有靈州縣,金城郡有榆中縣。李陵書曰:遠聽之臣,望風馳命。爾雅曰:震,懼也。長楊賦曰:靡節西征,羌僰東馳。封禪文曰:昆蟲闓澤,回首面內。劇秦美新曰:回首內嚮,喁喁如也。〉

東誅叛逆,全軍獨克,禽闔閭之將,斬輕銳之卒,以萬萬計,威加南海,名懾〈之涉切〉三越。

〈王隱晉書文紀曰:諸葛誕反,上親臨西園,四面並攻。須臾陷潰,斬送誕首。魏志曰:誕閉城自守,遣小子靚至吳請救。吳遣唐咨、王祚來應誕。及斬誕,唐咨、王祚皆降。吳兵萬衆,器仗軍實山積。孫子兵法曰:用兵之法,全軍為上,破軍次之。闔閭,吳王也,以比孫權。爾雅曰:慴,懼也。郭璞曰:即懾字也。漢書有三越,謂吳越及南越、閩越也。〉

宇內康寧,苛慝不作。

〈過秦論曰:包舉宇內。尚書,五福,三日康寧。左氏傳,晉叔向曰:有楚國者,其棄疾乎?君居陳、蔡,苛慝不作,盜賊伏隱也。〉

是以殊俗畏威,東夷獻舞。

〈范曄後漢書曰:東夷自少康以後,世服王化,獻其樂舞。〉

  故聖上覽乃昔以來禮典舊章,開國光宅,顯茲太原。

〈毛詩曰:率由舊章。周易曰:大君有命,開國承家。〉

明公宜承聖旨,受茲介福,允當天人。

〈易曰:受茲介福,以中正也。左氏傳,楚子曰:軍志雲,允當即歸。〉

元功盛勳,光光如彼;國土嘉祚,巍巍如此。內外協同,靡倀靡違。由斯征伐,則可朝服濟江,掃除吳會;

〈國語曰:齊教大成,定三革,隱五刃,朝服以濟河,而無怵惕焉,文事勝矣。〉

西塞江源,望祀岷山。

〈漢書曰:江水祀蜀,塞特牲,亦牛犢。塞,謂報神恩也。禮記曰:東巡狩,望祀山川。漢書曰:秦並天下,令祠官祠瀆山。瀆山,蜀之岷山也。〉

迴戈弭節,以麾天下,

〈長楊賦曰:迴戈聊指,南越相夷;靡節西征,羌、僰東馳。今以靡為弭,誤也。〉

遠無不服,邇無不肅。

〈國語,祭公謀父曰:近無不聽,遠無不服。〉

今大魏之德,光於唐虞;明公盛勳,超於桓文。然後臨滄州而謝支伯,登箕山而揖許由,豈不盛乎!

〈莊子曰:舜讓天下於子州支伯,子州支伯曰:予有幽憂之病,方且治之,未暇治天下。支或為交。呂氏春秋曰:昔堯朝許由於沛澤之中,請屬天下於夫子,許由遂之箕山之下。〉

至公至平,誰與為鄰?

〈仲長子昌言曰:人主臨之以至公。莊子,魯侯曰:其道幽遠而無人,吾誰與之為鄰。〉

何必勤勤小讓也哉!沖等不通大體,敢以陳聞。

文選考異

注「魏帝高貴鄉公也太祖晉文帝也」:袁本、茶陵本無此十三字。案:此不當無,或二本脫。
注「武王以平商」:袁本、茶陵本「以」作「已」,是也。
注「公羊傳曰魯人至今以為美談」:袁本此十二字作「美談已見上文」,是也。茶陵本複出,非。
注「漢北地郡有靈州縣」:袁本、茶陵本「漢」下有「書」字,是也。
注「上親臨西園」:袁本「園」作「圍」,是也。茶陵本亦誤「園」。
注「迴戈聊指」:案:「聊」當作「邪」,各本皆誤。
今大魏之德:袁本、茶陵本無「今」字。陳雲「今」晉書作「令」,為是。案:此尤校添而復偽其字耳。
注「吾誰與之為鄰」:袁本、茶陵本無「之」字,是也。所引山木篇文。

注をつけたのは誰かについては、こんなかんじ。

《文選》、又稱《昭明文選》。是中國現存的最早一部詩文總集、由南朝梁武帝的長子蕭統組織文人共同編選。蕭統死後謚“昭明”、所以他主編的這部文選稱作《昭明文選》。本版本是宋代淳熙年間尤袤所刻之李善註本,并以清代胡克家之文選《考異》加注釋。

コピペ終わり。

阮籍伝のなかの「為鄭沖勧晋王牋」?

「晋書」になくて「文選」にあるとはじめに書いたとおり、晋書の阮籍伝には「為鄭沖勧晋王牋」の内容自体は収録されていないけれど。

ただ、「為鄭沖勧晋王牋」を書いたこと自体については記述はあったり。

晋書、阮籍伝

籍聞步兵廚營人善釀,有貯酒三百斛,乃求為步兵校尉。
遺落世事,雖去佐職,恆遊府內,朝宴必與焉。

會帝讓九錫,公卿將勸進,使籍為其辭
籍沈醉忘作,臨詣府,使取之,見籍方據案醉眠。使者以告,籍便書案,使寫之,無所改竄。辭甚清壯,為時所重。

籍、步兵の廚營の人の善く釀して、酒三百斛を貯うる有りと聞き、乃ち求めて歩兵校尉と為る。
世事を遺落し、佐職を去ると雖も、恆に府内に遊び、朝宴は必ず焉に與かる。

帝(司馬昭)の九錫を讓るに会い、公卿は将に勧進せんとし、籍をして其の辞をつくらしむ。
籍は沈醉して作を忘る。
府にいたるに臨んで、之を取らしむるに、籍のまさに案に據りて醉眠するを見る。
使者以て告ぐれば、籍は便ち案に書して之を寫さしめ、改竄する所無し。
辞は甚だ清壮、時の重んずる所となる。

「會帝讓九錫,公卿將勸進,使籍為其辭」が、よほどのことがないかぎり「為鄭沖勧晋王牋」を書いたことなんじゃないかなとか。

またここでの帝は司馬昭のこと。

阮籍が「為鄭沖勧晋王牋」を書いた時期?

阮籍が「為鄭沖勧晋王牋」を書いた時期はいつなのかについて。

これについては、

阮籍の「為鄭沖勧晋王牋」について
大上 正美

に詳しかったり。

てことで、以下、これを読んでのメモとか感想とか。

とりあえず、基本的には文帝紀(文帝は司馬昭のこと)のこの辺のことという認識が一般的な様子。

(晋書、文帝紀)

冬十月……

……今進公位為相國,加綠綟綬。又加公九錫,其敬聽後命。……

公卿將校皆詣府喻旨,帝以禮辭讓。
司空鄭沖率群官勸進曰:
「伏見嘉命顯至,竊聞明公固讓,沖等眷眷,實有愚心。以為聖王作制,百代同風,褒德賞功,有自來矣。昔伊尹,有莘氏之媵臣耳,一佐成湯,遂荷阿衡之號。周公藉已成之勢,據既安之業,光宅曲阜,奄有龜蒙。呂尚,磻溪之漁者也,一朝指麾,乃封營丘。自是以來,功薄而賞厚者,不可勝數,然賢哲之士,猶以為美談。況自先相國以來,世有明德,翼輔魏室,以綏天下,朝無秕政,人無謗言。前者明公西征靈州,北臨沙漠,榆中以西,望風震服,羌戎來馳,回首內向,東誅叛逆,全軍獨克。禽闔閭之將,虜輕銳之卒以萬萬計,威加南海,名懾三越,宇內康寧,苛慝不作。是以時俗畏懷,東夷獻舞。故聖上覽乃昔以來禮典舊章,開國光宅,顯茲太原。明公宜承奉聖旨,受茲介福,允當天人。元功盛勳,光光如彼;國土嘉祚,巍巍如此。內外協同,靡愆靡違。由斯征伐,則可朝服濟江,掃除吳會,西塞江源,望祀岷山。回戈弭節,以麾天下,遠無不服,邇無不肅。令大魏之德,光于唐虞;明公盛勳,超于桓文。然後臨滄海而謝支伯,登箕山而揖許由,豈不盛乎!至公至平,誰與為鄰,何必勤勤小讓也哉。」
帝乃受命。

ただし、司馬昭の九錫については何度も同じことを繰り返しているせいで、阮籍の「會帝讓九錫,公卿將勸進,使籍為其辭」が、この文帝紀の時(264年)のこととは限らないという問題があるらしい。

文選に注をつけた李善は、これは高貴郷公(曹髦)の時のことだとしているとか。

とりあえず、阮籍が「為鄭沖勧晋王牋」を書いた時期についての諸説はだいたいこんな感じらしい。

  • 263年10月……晋書、文帝紀を採用
  • 258年……帝は曹髦(李善)

この二つの説が主流らしい。

その他としては、こんな。

  • 260年……帝は曹髦(李善)(260年の可能性も多少有)
  • 261年……勧進文のなかの記述等から261年8月の4回めのが妥当なのではないか(大上さんの説)

大上さんは、あえて261年8月の4回めのものだろうという考えの様子。

てことで、こじつけようと思えば、全6回どれもこじつけることはできそう

てか、その司馬昭九錫年表、この論文の注にあって便利だけど、自分でもそのうちまとめておこうかな。

「為鄭沖勧晋王牋」が書かれたのがいつかが重要な理由

「為鄭沖勧晋王牋」が書かれた時期をどう設定するかは、阮籍の解釈で重要だったり。

まずは大上さんの説。

以上の点から考えて、鄭沖たち司馬昭推戴派に政治的に利用されたことは疑いないとしても、阮籍という人間を考察する場合、代作した勧進文自体のもつ政治的有効性は、全くと言ってよいほど問題にならないのである。

大上さんは、この引用にもあるとおり、阮籍は「鄭沖たち司馬昭推戴派に政治的に利用された」という解釈。

それについては今はいいとして。

阮籍が「為鄭沖勧晋王牋」を書いた時期が重要なのは、書かれた時期次第で阮籍の解釈が異なってくるからだったり。

大上さんが紹介している今村与志雄さん説。

(258年説)……その場合、司馬昭の王朝簒奪の野望のかなり初期の段階から、阮籍は司馬昭側に加担していたとする。
(263年10月説)……その場合、嵆康刑死直後の「一種の転向現象の一つと見られなくはない」とする。

嵆康が死んだのは、多分262年……。

「為鄭沖勧晋王牋」はいつ書かれたかの個人的解釈?

解釈としては、創作用なら全種類考えてみてもいいわけだけど。
今回はそれはおいといて。

大上さんの263年でない説の根拠のひとつは、蜀滅亡(10月)後なのに、蜀を滅ぼしたことについて触れていないことを上げているけれど。

阮籍の勧進文はこれ。

由斯征伐,則可朝服濟江,掃除呉會;西塞江源,望祀岷山(※蜀の岷山)。

とはいえ、文脈的にも全体的に時事的なことは含めない感じだし、これだけで263年説を否定するのは、とりあえず自分はとらないでもいいかなとか。

てことで、263年10月説をとりあえず採用しているけれど。

ただし、曹髦存命時の258年説は、曹髦がかかわってくるということで、それはそれで可能性として魅力はあると思ったり。

まとめ

阮籍と司馬昭については、また別の記事であらためて書くことに。

とりあえずおわり。





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