別に、小説の面白さや価値のもとになるのは、小説でしかできないことだけ――というわけでもないけれど。
ただ、小説でしかできないこと――を見定めることは、なぜ小説なのか、を考える時にはやっぱり必要だとは思ったり。
小説でしかできないことは何か?
小説でしかできないこととは、要するに言葉の問題だと思ったり。
てことで、今回はそういう側面の強い作家だと思われるクンデラで考えてみることに。
名言bot様から(他所の人のbot)。
アニェスはこう考えた。生きること、生きることにはなんの幸福もない。生きること、世界のいたるところに自分の苦しむ自我を運びまわること。しかし、存在すること、存在することは幸福である。存在すること。噴水に変ること、宇宙が温かい雨のように降りそそいでくる石の水盤に変ること。《不滅》
— ミラン・クンデラ (@M_Kundera_bot) 2016年6月3日
疲れた人間が窓から眺めるポプラの美しさと不滅をくらべれば、不滅は笑止な幻想であり、うつろな単語であり、捕虫網に追いかけられる一陣の風である。不滅、年老いた疲れた人間は、もうそんなことをまるで考えようとしなくなる。《不滅》
— ミラン・クンデラ (@M_Kundera_bot) 2016年6月3日
彼女は、恋人の口から発せられた孤独という言葉が、より抽象的で高貴な意味を獲得するのを理解した。誰の関心も惹くことなしに人生を渡っていくこと。話しても聞いてもらえないこと。苦しんでいても同情されないこと。《無知》
— ミラン・クンデラ (@M_Kundera_bot) 2016年6月4日
ふたりは一度も互いに理解し合ったことがなかったが、しかしいつも意見が一致した。それぞれ勝手に相手の言葉を解釈したので、ふたりのあいだには、素晴らしい調和があった。無理解に基づいた素晴らしい連帯があった。《笑いと忘却の書》
— ミラン・クンデラ (@M_Kundera_bot) 2016年6月4日
こういうものを取り扱うのは、言葉の比率を削らなければジャンルとして成り立たない、映像系のジャンルより、すべて言葉で構成される小説の方が適している。
たとえば、「彼女は、恋人の口から発せられた孤独という言葉が、より抽象的で高貴な意味を獲得するのを理解した。誰の関心も惹くことなしに人生を渡っていくこと。話しても聞いてもらえないこと。苦しんでいても同情されないこと。」は台詞なりナレーションで組み込むことはできるかもしれない。
しかし、ナレーションや台詞では、小説ほどこの言葉にじっくり向き合うことはできない。(少なくとも大量には)
では、詩などの韻文と比較するとどうか。
詩も言葉であるから扱えるかもしれない。
ただし、人間の思考の形式に最も似た――私は小説の文章をそう考えている――小説に比べると、詩は詩的であることの制限がかけられる。
小説の言葉は人間の思考的であり、詩の言葉は人間の感覚的(あるいは記憶的?)であると――大雑把にいうことができるだろうか。
小説の言葉は人間の思考に似ている――のか
小説の言葉は人間の思考的である、とひとまず考えておく。
だから、小説自体は、人類や文明があるかぎり消え去ることはないと思う。
ただし、その本質は、今ある小説のニーズの大部分とは無縁のものでもある。
物語も、キャラクターも、思想も、ほとんどのものは、別のもので代替可能である。
昔は、技術的な問題で小説しか選択肢がなかっただけで、今あるいは今後はそういうことはない。
詩は現代ではだいぶマイナーな存在になったが、といって滅びることはないだろう。
それと同じように、小説もまた、いずれは似たような道はたどるのかもしれない。
小説にたまたま技術的な問題で多くつめ込まれいた要素は、今後はもっと効率のいい形式につめこまれていくようになるだろう。
小説と思考
小説は思考の形式と似ているのではないか。
小説の文には、2つの種類がある(小説だけではないけれども、今は小説の話なので小説)。
直接話法と間接話法の区別。
これは、「」の有無や形式的な問題だけではなくて、もう少し深い部分の違いにもとづいているのではないか。
直接話法の「」の部分と、その他の部分の本質的、本来的、実存的な違い。
語り手は、決して直接話法の「」の内部には入り込まない。
入り込むことが禁じられているからである。
自ら語りながら(あるいは作りながら)入り込むことができない領域ということ。
思考にも、直接話法の「」の部分と、それ以外の部分があるのではないか。
直接話法の「」だけで構成された思考は、夢をみているようなものかもしれない。
逆に、直接話法の「」以外だけで構成された思考は、よりロゴス的な思考といえるかもしれない。
まとめ
とりあえず今日の考え事メモここまで。
おわり。