2016.02.14
6331文字 / 読了時間:7.9分程度
三国志

前回の記事では、鍾会の乱の鍾会の計画や目的その他について考えてみたけれど。

今回はその協力者であった姜維にとって、鍾会の乱あるいは鍾会の計画はどのようなものだったか、考えてみることに。

姜維と鍾会の関係について確認しておきたいところ?

とりあえず姜維伝における姜維と鍾会の関係について。

姜維の降伏先?

姜維は劉禅がいて鄧艾が落とした成都ではなく、鍾会のいる「涪(ふ)」に行って魏に降伏した。

姜維伝はこんなかんじ。

(→姜維伝

後主請降於艾,艾前據成都。
維等初聞瞻破,或聞後主欲固守成都,或聞欲東入呉,或聞欲南人建寧。
於是引軍由廣漢、郪道以審虛實。

後主が鄧艾に降伏を願い出たため、鄧艾は進軍して成都を占領した。
姜維らが諸葛瞻の敗北を聞いた当初、後主は成都を堅守するつもりでいるとか、東方の呉に入国するつもりであるとか、南方の建寧に入るつもりであるとか、いろいろの情報が流れた。
そこで軍を引いて、広漢・郪(し)の街道を通りつつその真偽を確認しようとした。


尋被後主敕令乃投戈放甲,詣会於涪軍前,将士鹹怒,拔刀斫石。

ついで後主の勅令をうけたので、武器を投げ出しよろいをぬいで、鍾会のもとに出頭し、涪の陣営の前まで赴いた
将兵はみな怒りのあまり、刀を抜いて石をたたき切った。

広漢や郪(し)は、おおよそ成都や涪の東。
てことで姜維は剣閣から東の方をまわっていて、結局その途中で劉禅の命令を受けて降伏することにしていたり。

ただ、劉禅は成都で鄧艾に降伏していたけれど、姜維は成都ではなく涪あるいは鍾会のもとに向かってそこで降伏したというのは、たまたま近くだったのかもしれないけれど、何か意図があったのかなとも。

とりあえず「詣会於涪軍前」ってあるし、あくまで姜維は鍾会のところに出頭してそれが涪だった、ということかな。

姜維は劉禅から命令を受けた時、成都が遠い場所にいたわけでもなく(たぶん)、涪のすぐ近くにいたわけでもなく(たぶん)、成都へ帰る通り道に涪があるような場所にいたわけでもない。
成都のほうに行こうとすれば行けたはずで、なんとなく成都に向かうほうが自然な感じはしたり。

それでそれなりに理由や意味があるのかなとも思うんだけど、それは何かはあんまりよくわからない。

※姜維の降伏先について追記(2016.2.18)

(※追記ここから)

と考えたんだけど……。

ツイッターでこのような指摘を頂いたり。

姜維が鍾会のもとに出頭した理由ですが、恐らくは鍾会軍と戦いを交える寸前の状態であり、眼前の敵に降伏したということだと思います。華陽国志には姜維が郪から更に北、五城に出たことが記されています。また、姜維は胡烈に節伝を送っているので胡烈と相対していた可能性も
(@Jominian)

てことで、この指摘内容をここで無視する理由はないから、この姜維の降伏先について、「成都のほうに行こうとすれば行けたはずで、なんとなく成都に向かうほうが自然な感じはしたり」というのは成り立たないというふうに考えを改めることに。

ただ、一応考えたことだし、削除するのはなんだか微妙な気もするので、こういうことも考えたということをとりあえず残しておくことに。
(ブログ記事で、改訂版をあんまり作りたくないし)

(※追記ここまで)

ともかく姜維が選んだ降伏先の鍾会は確かに姜維を厚遇した

とりあえず姜維が鍾会のところに出向いたことは意味のある選択だったことは確か。
鍾会は姜維、ないしは姜維たちを相当厚遇していたり。

(姜維伝)

会厚待維等,皆権還其印號節蓋。
会與維出則同輿,坐則同席,謂長史杜預曰:
「以伯約比中土名士,公休、太初不能勝也。」

鍾会は姜維らを手厚くもてなし、かりの処置として、彼らの印璽・節(はた)・車蓋をみな返してやった。鍾会は姜維と外出するときには同じ車に乗り、座にあるときには同じ敷物に坐り、長史の杜預に向かって、「伯約(姜維)を中原の名士と比較すると、公休(諸葛誕)や太初(夏侯玄)でも彼以上ではあるまいな」といった。

これについては、もともと鍾会が相当蜀の人心を買うつもりで蜀に来ていて(たとえば文選にも名文として収録された代表作檄蜀文は、剣閣前に来てから思いついたわけでもないのではと推測)、檄蜀文の内容もかなり蜀の人心に配慮した内容になっていたり。
姜維の名前も出てくるけれど、名前呼び捨てではなくちゃんと字使って「姜伯約」だし。

諸葛孔明、仍規秦川、姜伯約屢出隴右、勞動我邊境、侵擾我氐羌。

鍾会は蒋琬の子蔣斌に蒋琬の墓参りがしたいから場所を教えてほしいとか手紙を出していたし、姜維は鍾会のところなら厚遇されそうなことはある程度予測がついていて、あるいはむしろある程度目処もたっていて、それで鍾会のところに来たのかなとか。

成都にいっても、少なくとも鄧艾が鍾会以上に姜維を厚遇する可能性は限りなく低いくらいには姜維も考えていただろうし(鄧艾は姜維を成都で姜維を小馬鹿にした逸話がある)。
また、成都には劉禅もまだいた気がするけど(たぶん?)、そもそもこれ以前の蜀での姜維の立場を思い出せば、劉禅のいるところがそもそも姜維にとって居心地がいいのか、あるいは居心地はともかく行きたい場所、やりたいことができると思える場所なのか、その辺は相当疑問ではあったり。

そして姜維は鍾会の乱に参加

姜維伝は展開が早いので、その後すぐ鍾会の反乱の記述になっていたり。

会既構鄧艾,艾檻車征,因将維等詣成都,自稱益州牧以叛。

鍾会は鄧艾を罪に陥れ、鄧艾が護送車で召還されたのち、そのまま姜維らを率いて成都に至り、勝手に益州の牧と称して反旗をひるがえした


欲授維兵五萬人,使為前驅
魏将士憤發,殺会及維,維妻子皆伏誅。

姜維に兵士五万を授け、先鋒をつとめさせるつもりだったが、魏の将兵は憤激して鍾会と姜維を殺害した。
姜維の妻子もみな処刑された。

なので、本文だけをみる限りでは、姜維は特に鍾会をそそのかしたとは特に書かれていなかったり。
とはいえ、単に本文には書いてないだけともいえるので、その点についてはこれだけではなんともいえないと思うけど。

鍾会の姜維の扱い?

鍾会は、姜維(姜維一味)をかなり重用するつもりであったらしい。

鍾会の計画のなかでの姜維の役割は、姜維伝では「欲授維兵五萬人,使為前驅」だし、鍾会伝でも「欲使姜維等皆将蜀兵出斜谷,会自将大眾隨其後。既至長安,令騎士從陸道,步兵從水道順流浮渭入河,以為五日可到孟津,與騎会洛陽,一旦天下可定也」だったり。

鍾会の計画は、姜維の長年の北伐の一番理想形のようなもの。
(姜維は現実的には涼州にこだわっていたけれど、もし長安、洛陽が落とせるなら涼州ではなくこっちを優先したと思う)

姜維が北伐の時に率いていた兵の数はどれくらいだったのか。
少なくとも鍾会に協力すれば5万率いて北伐できるなら、姜維にとってもかなり鍾会は役に立つし役立てたい存在だったんじゃないかなとも思えたり。

鍾会、姜維、互いにとっての(利用)価値?

てことで、鍾会にとっては司馬昭と戦うために姜維は必要だったし、姜維にとっても鍾会の計画はわりと濡れ手に粟みたいなところもあったのではないか。

姜維の鍾会利用計画?

姜維が鍾会を利用する計画は、演義がほぼ漢晋春秋をそのまま採用したので、有名かも。

裴松之の注のなかの姜維の計画

漢晋春秋(習鑿歯)はこんな。

漢晉春秋曰:
會陰懷異圖,維見而知其心,謂可構成擾亂以圖克復也,乃詭說會曰:
「聞君自淮南已來,算無遺策,晉道克昌,皆君之力。今復定蜀,威德振世,民高其功,主畏其謀,欲以此安歸乎!夫韓信不背漢於擾攘,以見疑於既平,大夫種不從范蠡於五湖,卒伏劍而妄死,彼豈闇主愚臣哉?利害使之然也。今君大功既立,大德已著,何不法陶硃公泛舟絕跡,全功保身,登峨嵋之嶺,而從赤松游乎?」
會曰:「君言遠矣,我不能行,且為今之道,或未盡於此也。」
維曰:「其他則君智力之所能,無煩於老夫矣。」
由是情好歡甚。

華陽国志(常璩)はコンパクトにまとまっていて便利。

華陽國志曰:維教會誅北來諸將,既死,徐欲殺會,盡坑魏兵,還復蜀祚,密書與後主曰:「原陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。」

『華陽国志』にいう。
姜維は鍾会をそそのかして、北方(魏)から来た諸将を誅殺させ、彼らが死んだあと、おもむろに鍾会を殺し、魏の兵士をことごとく生き埋めにし、蜀朝を復興させるつもりだった。
後主に密書を送って次のように述べた、「願わくば陛下には数日の屈辱をお忍びくださらんことを。臣は危機に瀕した社稷をふたたび安んじ、光を失った日月をふたたび明るくするつもりです。」

晋春秋(孫盛)は、あいかわらず孫盛好き勝手いってるけれど、孫盛の意見以外はこんな。

孫盛晉陽秋曰:
盛以永和初從安西將軍平蜀,見諸故老,及姜維既降之後密與劉禪表疏,說欲偽服事鍾會,因殺之以復蜀土,會事不捷,遂至泯滅,蜀人於今傷之。……

孫盛の『晋春秋』にいう。
私孫盛は、永和の初年、安西将軍(桓温)の蜀平定に随行し、古老たちと会った。
姜維が降伏した後、ひそかに劉禅に上奏文を送って、鍾会に服従したふりをし、機会をとらえて彼を殺し、蜀の国土をとり戻すつもりだと申し送ったが、計画が失敗に帰したため、けっきょく滅亡になったという話になると、蜀の人々は今でもこれを残念がっていた。

そして、その孫盛の意見に対する裴松之の言葉がこれ。

臣松之以為盛之譏維,又為不當。……
會欲盡坑魏將以舉大事,授維重兵,使為前驅。若令魏將皆死,兵事在維手,殺會復蜀,不為難矣。……

臣裴松之の意見。
……
鍾会は魏の将をことごとく生き埋めにして反逆の大事を決行し、姜維に重装備の軍兵を授け、先鋒をつとめさせようと計画した。もしも魏の将が皆殺しにされ、兵権が姜維の手に握られていたならば、鍾会を殺害して蜀を復興するのも困難ではなかったであろう。

つまり、裴松之が引いた注によると、そのなかでの姜維の計画自体はほぼ揺らいでいない。

「鍾会に魏の将兵を殺させる→姜維に兵を預けさせる→残った鍾会を殺す→蜀復興」――これが、裴松之がひく注、そして裴松之自身の考えでもある姜維の蜀復興計画にである。

もう少し姜維の計画、あるいは考えについて掘り下げてみたい

では、この裴松之の考える、あるいは裴松之の考えと合致する、姜維の計画解釈は、そのまま受け入れて構わないものなのだろうか。

孫盛がいうように(孫盛の考えじゃなくて孫盛の見聞報告ということで)、この裴松之のとる姜維の計画解釈は広く受け入れられていたものという可能性は高い。
とはいえ、そのことと、妥当性の高さは同じではないのも確か。

より辻褄をあわせて逸話のつぎはぎでない、どこまでも仮想的ではあっても心とか思考とかそういうものの働きを感じられる解釈をできる限り突き詰めていきたい――というのが個人的な理想あるいは願望。

ということで、いろいろ可能性を探っていきたいところ……。

個人的解釈として、姜維の鍾会利用計画を探る

てことで、姜維の真意的なものに近づく努力はしてみたいということで、自分なりに考えてみることに。

「殺会復蜀」のメリット?

裴松之の解釈は「若令魏將皆死,兵事在維手」となった時点で、姜維は「殺会復蜀」を行う計画――となっていたり。

この計画の良いところは、鍾会のような蜀外の人間を完全に排除できるということ。
ただし、この計画が成功しても、鍾会たちが来る前の蜀にそれなりに戻ることができるという「復蜀」は可能であっても、それは蜀(蜀漢)が掲げた大義名分であって姜維も北伐の目的としていたはずの「漢の復興」ではあいかわらず全然なかったり

一度滅ぼされて降伏した皇帝と臣下たちが集まってたまたま敵が自滅してくれたので再興させる国――というのも、かなりいろいろ未来は暗そうではあったり。

だから、「殺会復蜀」というのは、姜維にとってそれほどメリットはあるのかなあという疑問。

というか、少なくとも蜀の人間の大部分にとってはそれでも充分魅力は感じられたと思う。
とはいえ、それは姜維の足をひっぱる(あるいは姜維を否定的に見る)立場の人々が望むような計画ではなかったか。

なので、この「殺会復蜀」で終わる計画は、姜維の計画である可能性もあるにしても、何よりまず蜀の多数派(多分)が望む計画であって、それが姜維に仮託されただけという可能性も充分高いのではないのか。

姜維にとっては「殺会復蜀」には特に希望が見いだせない、冴えない計画なのではないかと思えたり。

つまり、姜維がそれを選ぶとしたら、冴えない選択をしたという印象。

では、姜維にとって最適な計画とは何か?

少なくとも姜維が実際に姜維に最適な計画を選んだとは限らない。歴史はそういうところもあるのは事実。
とはいえ、それを探ること自体は意味が無いわけではない。

少なくとも、鍾会が姜維に提示した姜維の役割は、そもそもかなり姜維にとって悪くない計画であった印象はあったり。

(姜維伝)
授維兵五萬人,使為前驅。

姜維伝の5万の兵を姜維に授ける――というのは、費禕時代(1万)の5倍の厚遇――という単純計算は無理かもしれないにしても悪くはない待遇だと思うし。
(5万だけで長安、洛陽落としてこいって話でもないし)

また鍾会伝のほう。

(鍾会伝)
欲使姜維等皆将蜀兵出斜谷,会自将大眾隨其後。
既至長安,令騎士從陸道,步兵從水道順流浮渭入河,以為五日可到孟津,與騎会洛陽,一旦天下可定也

とりあえず鍾会のことをひとまず置いておけば、これが達成できるなら姜維あるいは蜀漢の北伐の理想形ではないのかとか。

てことで。
姜維にとって理想的な計画があるとしたら何か。

どのみち鍾会に協力するのであれば、成都でその利用を終わりにするのは、長期的視野に欠けた中途半端な下策といえるのではないか。

また、一端鍾会を利用すると決めたのであれば、少なくとも鍾会伝にある計画が達成されるまでは協力関係のままでいるのが最適なのではないか。

鍾会を殺すのは1度だけしかしなくていいわけだし、なら一番良いタイミングで殺すのがいいと思う。

その最高のタイミングとは成都でではなくて少なくとも洛陽以降がよいのではないかとか。

なので、姜維にとって最適な計画はこんな感じ?

「鍾会の計画に協力して天下を平定→そこで鍾会を殺して漢復興→隆中対以来の蜀漢の悲願達成」

この可能性に賭ける方が、少なくとも姜維にとっては選択する可能性は高いんじゃないかなあとか。

個人的な印象として、姜維自身は、前のめり気味な考え方をする人なんじゃないかと思っていたり。

まとめ

てことで、今回は鍾会の乱を、姜維の方から考えてみたり。

前回の記事の鍾会のほうの解釈は、特にひねくれたところはないと思うけれど、今回は裴松之の解釈についてあえて否定してみたり……。

まあたまにはいいんじゃないかな。

おわり。


(追記 2016.02.15)

こんなご指摘を頂いたので、また改めて考える予定…。

(追記 2016.02.18)

改めて考えた箇所は、指摘があった部分に追記した。
改訂版書き直すか悩んだけど、自分のブログでそれは煩わしいかなと思ったので。

記事に指摘頂いたのはとてもありがたかったし感謝していたり。

おわり。





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