姜維の北伐について(涪中心?)メモ。
ていうか、他の人のTweet、ふぁぼ(いいね)よりブログのほうがあとで探しやすいので、こっちに備忘用メモ。
この記事(これも別の人の姜維北伐関連Tweetの備忘用記事)関連。
Tweet引用
姜維は256年の段谷の戦いで、自らが諸葛亮時代から鍛えあげてきた軍隊を喪失してしまった。軍隊を再建しなければ北伐続行は不可能。控えたのではなく出来なかった。ここでポイントは257年の諸葛誕の乱なんだよね。https://t.co/qvDfPC5lVi
— 松浦桀 (@HAMLABI3594) 2016年5月5日
おそらく257年の北伐に際して、姜維は胡濟の漢中軍を使った。諸葛亮と蔣琬は北伐に行ったきりで、成都には帰還しなかった。対照的に、姜維は北伐すると、ほぼ必ず成都へ帰還した。これは、姜維の北伐拠点が成都の近くであったことを示す。姜維の北伐拠点は243年から一貫して涪(ふう)である。
— 松浦桀 (@HAMLABI3594) 2016年5月5日
蔣琬の上疏「涪水陸四通」から、涪は交通の便が良い。鄧艾の「彼以船行」から、姜維は水路で北伐していた。姜維は、
「A 涪」陸路で
「B 漢壽(葭萌関近辺)」水路で
「C 沓中」陸路で
「D 臨洮」ここから東や北や西へ進軍したと思われる。— 松浦桀 (@HAMLABI3594) 2016年5月5日
北や東はジョミニャンのブログを読めばいいので、西について地図で示す。姜維は「D 臨洮」から水路で「E 」へ行き、そこから北の「F 枹罕」を拠点として北伐をした。以前雲子氏しめした「枹罕護軍」の印綬は、姜維が作らせたものであろう。 pic.twitter.com/bLIpXkcLY3
— 松浦桀 (@HAMLABI3594) 2016年5月5日
姜維は北伐に漢中軍を使わなかったと思われる。257年は姜維の中軍が半壊していたための臨時の措置であろう。姜維は段谷から7年後に出鎮したが、軍隊再建後に戦う相手も鄧艾なのだから、経験値を積ませるにしてはハードすぎる。それだけ事態が深刻だったのだろう。この戦いで趙広が戦死した。
— 松浦桀 (@HAMLABI3594) 2016年5月5日
引用、以上。
備考
姜維の北伐の拠点が涪の可能性はどれくらい成り立つかなあと考えてた。
姜維の北伐する方面が離れているのと(この人もいっているように257年の北伐はいろいろその他と異質だと思うので除外)、後は単にそっちの可能性はどれだけ追求できるのかなあとか。
とりあえず、備忘メモ用記事なので、よけいなことはここにかかなくていいや。
自分のこの辺についての見解は4月のTwitterでのやりとり(→この記事に収録)から特に変わっていないし。
とりあえずおわり。