世説新語楽しい。
最近、孫盛が好きになってきていたり。
で、世説新語を読んでいて気になったこと。
世説新語というか注(劉孝標)の部分だけど。
てか、世説新語も三国志みたいに注付きの原文が維基文庫とかに公開されると便利なんだけど。
探しても見つからないし。
孫盛異同雑語の曹操評の異同?
内容はほぼおなじだから同じ箇所を引用しているんじゃないかと思えるけれど、けっこう違いがあったり。
●三国志、裴松之注
孫盛異同雜語云、
太祖嘗私入中常侍張讓室、讓覺之;
乃舞手戟於庭、逾垣而出。
才武絶人、莫之能害。……孫盛の『異同雑語』にいう。
太祖はあるとき中常侍張譲の邸宅にこっそり侵入した。張譲はそれに気がついた。
そこで〔太祖は〕庭の中で手にもった戟をふりまわし、土塀をのり越えて逃げ出した。
人並みはずれた武技で、誰も彼を殺害できなかった。
●世説新語、劉孝標注
孫盛雑語云、
武王少好侠、放蕩不修行業。嘗私入常侍張譲宅中、
譲乃手戟於庭、踰垣而出。
有絶人力、故莫之能害也。孫盛『雑語』にいう、「武王(曹操)は若くして遊侠を好み、放蕩で身もちが修まらなかった。
ある時、ひそかに常侍張譲の家に入り、譲が庭で戟をとって撃とうとすると、垣をこえて逃げ出した。
人なみすぐれた力があったので、誰もかれをやっつけることができなかった。」(※訳は三国志はちくま、世説新語は明治書院)
同じものを引用したのだとしたら、かなり異同が大きいんじゃないかなあとか。
異同雑語は異同だけに異同が多いのか?
ちなみに明治書院の世説新語では「孫盛雑語」について、「『異同雑語』のこと。これも『三国志』裴注にしばしば引かれる。」と語釈がついていたり。
とりあえず、これについて個人的解釈案(思いつき)について箇条書き。
- 孫盛の雑語と異同雑語はじつは同じものではない可能性
- 似たり寄ったりの名前の似たり寄ったりの内容の書物を濫造していた可能性
- 「異同」という名称は、さまざまな異同を集めたものではなく孫盛自身の見解や思いつきの異同を集めたから異同という可能性
- 孫盛は小説家的才能が高いというのが個人的な孫盛評なので、彼は同じことについて次々にアイデアが浮かび新たに作品にしたくなる人物だった可能性
もちろん、明治書院の語釈にあるような「異同」と「異同雑語」は同じ書物(いろいろテキストによって違ってくるのはよくあること)という解釈が一番妥当な気はするけれど。
それをここで書いてもしかたないので(引用しかすることない)、この思いつき路線で個人的孫盛観を検討していってもいいかなあとは思ったり。
可能性。
劉孝標世界の孫盛雑語と裴松之世界の孫盛異同雑語のなかの曹操の比較
パラレルワールド(パラレル宇宙)ってロマンがあるなーと思うけれど。
物理でもまじめにそういう学説(パラレル宇宙論)があるみたいだけれど、ロマン的なのと物理的なのとでは、同じ名称なだけな気はしたり。
とりあえず昨日こんなNewtonの電子書籍版(パラレル宇宙論)買ってみたり(99円セールだったから)。
で、それはいいとして。
パラレルワールド的に、若い頃の曹操のふたつの世界が孫盛によって2通り語られている、と考えてみる。
- 裴松之世界の異同雑語で孫盛によって語られる曹操は、侵入した張譲の庭でみずから戟を振り回して暴れ(一応原文では張譲でも成り立ちそうだけれどここはちくま訳を尊重)その場から無事逃げ出すことができた。武技が人並み優れていたから(才武絶人)である。
- いっぽう劉孝標世界の雑語で孫盛によって語られる曹操は、侵入した張譲の庭で、張譲に戟で応戦されたが、その場から無事逃げ出すことができた。力が人並み優れていたからである(有絶人力)。
「才武絶人」と「有絶人力」の表現の違いが個人的に楽しいと思うんだけれど、ひとまずそれはおいといて。
ともかくその評価に繋がるのは、戟をもって暴れる張譲から無事逃げ出せた(侵入しした張譲邸から)という解釈でも、一応成り立つとは思うけれど。
自分で戟をふりまわして暴れた結果、無事逃げることができたという解釈(裴松之系)にすると、戟の箇所にも曹操の個人的武勇が優れていたという評価がかかるので、文章的にはよりしまってくるんじゃないかなとか。
この内容が史実か自体について個人的にはすごく疑わしい(偏見?)と思っている(その代わり、孫盛はその人物らしいエピソードを思いつく才能があると思っている)ので、戟をふりまわしたのが張譲か曹操かについては、孫盛が自由に決めることができる要素なんじゃないかな。
なので、異同雑語が孫盛の創作の異同を集めたものという解釈で考えてみるなら、孫盛としてはどちらのバージョンをより気に入っていたのか。
あるいは、孫盛はバリエーションを愛してそのまま残したと考えるなら、孫盛はどれかを選ぶことはなかったかもしれない。
ただし、後世の人間がどの解釈がより孫盛らしいかを決めたり解釈することはできる――そしてそういうスタイル自体が、(一見主観的すぎて信頼できないともみえる)孫盛的な歴史記述なんじゃないか――と考えていたり。
で、若い頃の曹操の個人的武勇があったというイメージを中心に考えるなら、ここは曹操が戟をふりまわすべきなのではないか。
なので、孫盛が決めなくても自分が孫盛の意志を継いでより彼の曹操のイメージをつきつめていく――くらいの志は(孫盛はそういう考えにもとづいてああなんだと思っている)もって考えてみてもいいんじゃないかなとか。少なくとも孫盛解釈の場合は。
では次に、「才武絶人」と「有絶人力」のどちらがより孫盛解釈的か。
- 曹操は若いころは遊侠を好んだ――劉孝標
- 曹操は個人的武勇に優れていた(有絶人力)――劉孝標
- 曹操は戟を振り回した――裴松之
最も孫盛的な要素を集めれば、これらを組み合わせるのがいいのではないか。
曹操の武と曹髦の武
これについては、以前にこんな記事(曹髦の武と曹操の武の共通点?)をかいていたり。
曹髦の武の性質の設定にも繋がるので、個人的に重要な部分だったり。
まとめ
世説新語は楽しいし、孫盛も楽しい。
最近はブログ書く余裕(というかそもそも調べたりする余裕)があんまりないので、記事はけっこうアバウトだけど……。
とはいえそれはいつものことでもあるけれど、あくまで当社比として。
とりあえずおわり。