曹髦の武は曹操に似ているって何
鍾会による「才同陳思,武類太祖(才能は陳思王(曹植)と同じほど、武勇は太祖(曹操)と似ておられます)」という曹髦評。
(高貴郷公紀注)
魏氏春秋曰:
公神明爽俊,德音宣朗。
罷朝,景王私曰:「上何如主也?」
鍾会對曰:「才同陳思,武類太祖。」
景王曰:「若如卿言,社稷之福也。」『魏氏春秋』(孫盛)にいう。
高貴郷公(曹髦)は英明で颯爽としており、ことばははっきりとよく通った。朝廷から退出すると司馬景王(司馬師)がひそかに、「お上はどのような君主か」というと、鍾会は、「才能は陳思王(曹植)と同じほど、武勇は太祖(曹操)と似ておられます」と答えた。司馬景王はいった、「きみのいうとおりなら、社稷にとって幸福である」と。
「才同陳思」の方は一応、詩や文学が好きということで、曹植に似ていると評するのも、なんとなくわかる気はするけれど。
ただ、「武類太祖」の方は、当時14歳で急遽皇帝に選ばれて即位したばかりの曹髦評として、なぜ知ってるのかとかなぜ断言できるのか、とかいろいろ疑問はでてくるような。
孫盛の魏氏春秋が出典なので、孫盛の創作要素が入っているのかなとはまず思いうかぶことだけれど。
孫盛は裴松之はこんな風に評している人だし。
臣松之以為史之記言、既多潤色、故前載所述有非実者矣、后之作者又生意改之、於失実也、不亦彌遠乎!凡孫盛制書、多用左氏以易舊文、如此者非一。嗟乎、后之学者将何取信哉?
……およそ孫盛は書物を作るとき、『左氏伝』の文を用いてもとの文章をかえる場合が多く、そのようなことは一つに止まらない。
ああ、後の学者はいったい真実をどうしてつかんだらよいのだ。
ただ、これに基づいて孫盛の書いた内容を否定していくことは簡単だけれど。
じゃあ、なんで裴松之は孫盛の書物をこんなに大量に引用したのかということにもなるし。
少なくとも、孫盛なりの整合性があるかは謙虚に検討してみるべきではないかっていう。
曹操の武?
ところで、武帝紀に同じ孫盛の記したものとして、次のようなものがあったり。
これは後半の部分の方が有名だけれど、前半の部分もこれはこれでおもしろかったり。
(武帝紀)
孫盛異同雜語云、太祖嘗私入中常侍張讓室、讓覺之;乃舞手戟於庭、逾垣而出。才武絶人、莫之能害。
博覽群書、特好兵法、抄集諸家兵法、名曰接要、又注孫武十三篇、皆伝於世。嘗問許子将、「我何如人?」子将不答。固問之、子将曰、「子治世之能臣、乱世之奸雄。」太祖大笑。年二十、挙孝廉為郎、除洛陽北部尉、遷頓丘令、孫盛の『異同雑語』にいう。
太祖はあるとき中常侍張譲の邸宅にこっそり侵入した。張譲はそれに気がついた。そこで〔太祖は〕庭の中で手にもった戟をふりまわし、土塀をのり越えて逃げ出した。人並みはずれた武技で、誰も彼を殺害できなかった。……
で、これを書いたのもまた孫盛だったり。
つまり少なくとも孫盛の設定ないしは孫盛のなかの曹操像は武芸に優れた人物だったのではないかという可能性が見えてきたり。
曹髦の武と曹操の武の共通点?
孫盛は東晋に仕えた人なので、少なくとも彼が生まれた時点ではすでに曹操も曹髦もともにとっくに死んでいて過去の人だったり。
孫盛がここで描く若き日(おそらく二十歳前、続くエピソードからして)の曹操は相当無頼であるが、曹髦もまた二十歳のとき司馬昭を殺すために本人が剣をふるって戦い、そのさなかで刺殺されたという変わった実績を持つ皇帝である。
(高貴郷公紀注)
(漢晋春秋)
帝自用剣
帝みずから剣をふるって立ち向かった。
孫盛が、曹髦の武は曹操の武に似ていると書いたとき、そこで想定していた武はこのような類の武(戟や剣を振り回して暴れる)なのではないか。
そう考えれば、十四歳の曹髦の武を評価したこともそれなりに理解できるのではないか。
曹髦の武を曹操の武に似ていると評したのは、孫盛かもしれないし、また鍾会かもしれない。
それはいずれでもそれなりに説得力がある気がする。
つまり、14歳の曹髦は、武芸をもともと好んでいて(詩や文学ももとから好んでいたのであろう)、鍾会はそのことを司馬師に語り、それを「才同陳思,武類太祖(才能は陳思王(曹植)と同じほど、武勇は太祖(曹操)と似ておられます)」と気の利いたかんじで表現した――ということではないか。
ついでに、孫盛について
今日は、「三国志用語の基礎知識(三国志事典)」というコンテンツを作ろうと思い立ってとりあえずテンプレートいじったり(またこれ)、記事も孫盛2つ書いてみたけれど。
孫盛さん、最初は姜維のことで嫌な印象あった気はするけれど、最近楽しい人だと思えるようになってきていたり。
とりあえず、歴史小説的に読むと、孫盛さんの書いたものの魅力がどこにあるかがつかみやすいのではないか、とか。
曹操もこんな感じで悪漢かっこいい。
(武帝紀注)
孫盛雜記曰、太祖聞其食器声、以為図己、遂夜殺之。既而凄愴曰、
「寧我負人、毋人負我!」
遂行。孫盛の『雑記』にいう。太祖は彼らの用意する食器の音を耳にして、自分を始末するつもりだと思いこみ、夜のうちに彼らを殺害した。
そのあと悲惨な思いにとらわれ、「わしが人を裏切ることがあろうとも、他人にわしを裏切らせはしないぞ」といい、かくして出発した。
演義の悪役としての曹操の造形の深さには、結構孫盛は強い影響を残しているんじゃないかとか。
曹髦像について
そして、こんな無頼漢的な曹操に似ているといわれた曹髦像も、いろいろ興味深いところではあったり。
とりあえず、曹髦のあの挙兵は、ある程度は皇后の詔も真実を含んでいて、粗暴気味なのはあったんじゃないかとは思ったり。
曹髦父ほどじゃないだろうけど。
漢晋春秋曰:
……「司馬昭之心,路人所知也。吾不能坐受廢辱,今日當與卿自出討之。」
……
「司馬昭の本心は、道行く人でも知っている。
私はこのまま坐して退位の恥辱を受けることはできない。今日こそ諸君とともに自分の方から出撃して彼を討ち取るべきだ。」
この曹髦のたぶん一番有名な言葉も、そんな性格が伺えるといえば伺えるような。
まとめ
「三国志用語の基礎知識(三国志事典)」、ぼちぼち進めていきたいなとはおもったり。
おわり。