孫盛(そんせい)は、東晋の政治家、学者。字は安国。生没年不明。太原中都の人。
魏の孫資の子孫であり、祖父は孫楚、その祖父が魏の孫資にあたる。
孫盛はまた清談の名手であった。
当時清談の名手として知られていた殷浩と議論が成り立つのは孫盛だけだったという。
孫盛の歴史評を考える上で、この点の影響は考慮にいれるべきではないだろうか。
裴松之は三国志の注に、孫盛の著書から数多く引用している。
三国志の人物や出来事について、かなり主観的で好き嫌いが激しいうえにそれを内容に持ちこんで創作することも厭わない自由さが特徴ないしは魅力の、注にひかれる書物の著者のなかでも個性が際立つ人物といえるのではないだろうか。
情報量は豊富。
主な著書に『魏氏春秋』『晋陽秋』『蜀世譜』『異同雑語』『異同記』『異同評』『雑記』など。
晋書に伝がある(→孫盛伝)。
参考資料――孫盛伝(晋書)
孫盛,字安國,太原中都人。祖楚,馮翊太守。父恂,潁川太守。恂在郡遇賊,被害。盛年十歲,避難渡江。及長,博學,善言名理。于時殷浩擅名一時,與抗論者,惟盛而已。盛嘗詣浩談論,對食,奮擲麈尾,毛悉落飯中,食冷而複暖者數四,至暮忘餐,理竟不定。盛又著醫卜及《易象妙於見形論》,浩等竟無以難之,由是遂知名。
起家佐著作郎,以家貧親老,求為小邑,出補瀏陽令。太守陶侃請為參軍。庾亮代侃,引為征西主簿,轉參軍。時丞相王導執政,亮以元舅居外,南蠻校尉陶稱讒構其間,導、亮頗懷疑貳。盛密諫亮曰:「王公神情朗達,常有世外之懷,豈肯為凡人事邪!此必佞邪之徒欲間內外耳。」亮納之。庾翼代亮,以盛為安西諮議參軍,尋遷廷尉正。會桓溫代翼,留盛為參軍,與俱伐蜀,軍次彭模,溫自以輕兵入蜀,盛領贏老輜重在後,賊數千忽至,眾皆遑遽。盛部分諸將,並力距之,應時敗走。蜀平,賜爵安懷縣侯,累遷溫從事中郎。從入關平洛,以功進封吳昌縣侯,出補長沙太守。以家貧,頗營資貨,部從事至郡察知之,服其高名而不劾之。盛與溫箋,而辭旨放蕩,稱州遣從事觀采風聲,進無威鳳來儀之美,退無鷹鸇搏擊之用,徘徊湘川,將為怪鳥。溫得盛箋,複遣從事重案之,髒私鋃籍,檻車收盛到州,舍而不罪。累遷秘書監,加給事中。年七十二卒。
盛篤學不倦,自少至老,手不釋卷。著《魏氏春秋》、《晉陽秋》,並造詩賦論難複數十篇。《晉陽秋》詞直而理正,咸稱良史焉。既而桓溫見之,怒謂盛子曰:「枋頭誠為失利,何至乃如尊君所說!若此史遂行,自是關君門戶事。」其子遽拜謝,謂請刪改之。時盛年老還家,性方嚴有軌憲,雖子孫白,而庭訓愈峻。至此,諸子乃共號泣稽顙,請為百口切計。盛大怒。諸子遂爾改之。盛寫兩定本,寄于慕容俊。太元中,孝武帝博求異聞,始於遼東得之,以相考校,多有不同,書遂兩存。子潛、放。
潛字齊由,為豫章太守。殷仲堪之討王國寶也,潛時在郡,仲堪逼以為諮議參軍,固辭不就,以憂卒。
放字齊莊,幼稱令慧。年七八歲,在荊州,與父俱從庾亮獵,亮謂曰:「君亦來邪?」應聲答曰:「無小無大,從公於邁。」亮又問:「欲齊何莊邪?」放曰:「欲齊莊周。」亮曰:「不慕仲尼邪?」答曰:「仲尼生而知之,非希企所及。」亮大奇之,曰:「王輔嗣弗過也。」庾翼子爰客嘗候盛,見放而問曰:「安國何在?」放答曰:「庾稚恭家。」爰客大笑曰:「諸孫太盛,有兒如此也!」放又曰:「未若諸庾翼翼。」既而語人曰:「我故得重呼奴父也。」終於長沙相。
参考資料――孫盛語録他
■1主観的で好き嫌いが激しい孫盛の意見と、それに対する裴松之の意見1(姜維伝注)
孫盛晉陽秋曰:盛以永和初從安西將軍平蜀,見諸故老,及姜維既降之後密與劉禪表疏,說欲偽服事鍾會,因殺之以復蜀土,會事不捷,遂至泯滅,蜀人於今傷之。盛以為古人云,非所困而困焉名必辱,非所據而據焉身必危,既辱且危,死其將至,其姜維之謂乎!鄧艾之入江由,士眾鮮少,維進不能奮節綿竹之下,退不能總帥五將,擁衛蜀主,思後圖之計,而乃反覆於逆順之間,希違情於難冀之會,以衰弱之國,而屢觀兵於三秦,已滅之邦,冀理外之奇舉,不亦闇哉!
孫盛の『晋春秋』にいう。
私孫盛は、永和の初年、安西将軍(桓温)の蜀平定に随行し、古老たちと会った。
姜維が降伏した後、ひそかに劉禅に上奏文を送って、鍾会に服従したふりをし、機会をとらえて彼を殺し、蜀の国土をとり戻すつもりだと申し送ったが、計画が失敗に帰したため、けっきょく滅亡になったという話になると、蜀の人々は今でもこれを残念がっていた。
私の考えでは、古人(孔子)は「困(くる)しむ必要のないことに困めば、わが名は必ず辱められ、いるべきでないところにいれば、わが身は必ず危うくなる。屈辱を蒙ったうえに危険が迫れば、死期は今にも訪れよう」(『易』繋辞伝下)といっているが、それは姜維にあてはまることであろうか。鄧艾が江由へ侵入した際、軍勢は少数であったにもかかわらず、積極的には姜維は綿竹における戦いに参加して忠節を誓うこともできず、消極的には五将を指揮して蜀の君主を護衛しつつ、今後の謀りごとを立てることもできなかった。しかも順(魏に帰順したこと)・逆(反乱に参与したこと)の間をいったりきたりし、期待し難い機会をつかんで、鍾会の厚情を裏切ることを考え、衰弱した国力をもって、何度も三秦(関中)に圧力をかけてみたり、滅亡した国をもって、道理にはずれた成功を収めようと望んだりした。なんと愚かなことよ。臣松之以為盛之譏維,又為不當。於時鍾會大眾既造劍閣,維與諸將列營守險,會不得進,已議還計,全蜀之功,幾乎立矣。但鄧艾詭道傍入,出於其後,諸葛瞻既敗,成都自潰。維若回軍救內,則會乘其背。當時之勢,焉得兩濟?而責維不能奮節綿竹,擁衛蜀主,非其理也。會欲盡坑魏將以舉大事,授維重兵,使為前驅。若令魏將皆死,兵事在維手,殺會復蜀,不為難矣。夫功成理外,然後為奇,不可以事有差牙,而抑謂不然。設使田單之計,邂逅不會,復可謂之愚闇哉!〉
臣裴松之の意見。
孫盛の姜維に対する避難はやはり妥当ではないと考える。当時、鍾会の大軍はすでに剣閣まで到達していたが、姜維が諸将とともに陣営を連ねて要害を防衛したからこそ、鍾会は侵攻することができず、帰還の計画を相談しはじめたのであって、蜀を無事に守りきる功業は、ほとんど樹立されるところだった。ただ鄧艾がぬけ道を通って脇から侵入し、その後方に進出し、諸葛瞻が敗北したのち成都が自滅したのである。姜維がもし軍をめぐらして国内の救援に向かっていたならば、鍾会はその背後を襲っていたであろう。当時の情勢ではどうして〔剣閣と国内の〕両方を救うことが可能であったろうか。それなのに姜維が綿竹で忠節を奮うことができなかったとか、蜀の君主を護衛できなかったとか非難しているのは、理屈にあわない。
鍾会は魏の将をことごとく生き埋めにして反逆の大事を決行し、姜維に重装備の軍兵を授け、先鋒をつとめさせようと計画した。もしも魏の将が皆殺しにされ、兵権が姜維の手に握られていたならば、鍾会を殺害して蜀を復興するのも困難ではなかったであろう。
そもそも功業は道理の外で成就されて、はじめてすぐれたものとされるのである。事にいきちがいがあって、うまくいかなかったのだからといって、けなしてだめだというべきではない。もし田単(戦国時代奇策によって燕を破り、滅亡寸前の斉を救った名将)の計略が、機会にめぐりあえず失敗していたとするならば、それを暗愚といってよかろうか。
■2主観的で好き嫌いが激しい孫盛の意見と、それに対する裴松之の意見2(姜維伝注)
孫盛曰:異哉郤氏之論也!夫士雖百行,操業萬殊,至於忠孝義節,百行之冠冕也。姜維策名魏室,而外奔蜀朝,違君徇利,不可謂忠;捐親苟免,不可謂孝;害加舊邦,不可謂義;敗不死難,不可謂節;且德政未敷而疲民以逞,居禦侮之任而致敵喪守,於夫智勇,莫可雲也:凡斯六者,維無一焉。實有魏之逋臣,亡國之亂相,而雲人之儀表,斯亦惑矣。縱維好書而微自藻潔,豈異夫盜者分財之義,而程、鄭降階之善也?
孫盛はいう。
郤正の論は何と奇妙なことよ。そもそも士人たる者はくさぐさの行為をなし、生き方はさまざまにわかれるけれども、忠孝義節ということになると、それは全ての覆う最高のものである。
姜維は魏朝の官禄をはみながら、蜀朝に出奔し、主君に背き利益に走ったのだから、忠ということはできない。親を見捨てて危険を免れようとしたのだから、孝ということはできない。故国に害を加えたのだから、義ということはできない。国が敗れながら危難に命を投げ出さなかったのだから、節ということはできない。そのうえ政治の恩恵がまだゆきわたっていないのに、民衆を疲弊させ武力をふるい、防禦の任務につきながら、敵を招きよせ拠点を失った。その智と勇についても特筆すべき何事もない。
およそこの六点(忠・孝・義・節・智・勇)のうち、姜維はなに一つ所有していないのである。まことに魏朝の亡命者、亡国の乱相である。
それを人間の模範と称すとは、なんと見当はずれであることよ。たとえ姜維が書物を好み少々清潔な生き方をしたとしても、いったいあの盗んだ物を貧乏人に分けてやるような盗人の道義心や、高い官位を降りようとした程鄭の善行と異なろうか。臣松之以為郤正此論,取其可稱,不謂維始終行事皆可準則也。所云「一時儀表」,止在好學與儉素耳。本傳及魏略皆雲維本無叛心,以急逼歸蜀。盛相譏貶,惟可責其背母。餘既過苦,又非所以難郤正也。
臣裴松之の意見。
郤正のこの論は、姜維の称賛すべき点をとりあげたもので、姜維のすべての行為を模範とすべきだと述べているわけではない。「その時代の模範」という言葉は、ただ学問を好んだことと倹約・質素であったことについての言である。しかも本伝および『魏略』ではいずれも姜維には本来反逆の心がなかったのだが、危急に迫られ蜀に帰順したといっている。孫盛は非難するならば、ただ母に背いたことだけを責めればよい。その他はあまりにも過酷であり、また郤正を攻撃する論拠にはなりえない。
■3孫盛の悪癖について(武帝紀注)
孫盛魏氏春秋云、答諸将曰、「劉備、人傑也、将生憂寡人。」
孫盛の『魏氏春秋』にいう。〔公は〕諸将に答えていった、「劉備は人傑である。将来わしを悩ませるであろう」
臣松之以為史之記言、既多潤色、故前載所述有非実者矣、后之作者又生意改之、於失実也、不亦彌遠乎!凡孫盛制書、多用左氏以易舊文、如此者非一。嗟乎、后之学者将何取信哉?
臣裴松之は考える。
歴史家が言葉を記す場合、潤色が多いものだ。したがって先行の書物に述べられていることには事実でないものがある。後の作者がまたかってな考えを起こしてそれを改める。真実を失うという点で、ますます距離があくというものではないか。
およそ孫盛は書物を作るとき、『左氏伝』の文を用いてもとの文章をかえる場合が多く、そのようなことは一つに止まらない。ああ、後の学者はいったい真実をどうしてつかんだらよいのだ。
それに、魏の武帝はまさに天下のため志をふるいたたせているところだ。それを〔呉王〕夫差の死を覚悟したときの言葉を用いている。もっとも見当違いの選択である。
■孫盛が高評価をおくる人物(袁紹伝注)
孫盛曰、観田豐、沮授之謀、雖良、平何以過之?
孫盛はいう。田豊と沮授の計略を観察すると、張良と陳平といえどもどうしてこれにまさることがあろうか。
■孫盛の良い点(諸葛亮伝注)
孫盛、習鑿齒搜求異同、罔有所遺、而並不載沖言、知其乖剌多矣。
孫盛や習鑿歯は異同を探し求めて、遺漏がないにもかかわらず、ともに郭沖の言辞を記載していない。
郭沖の言に事実との食い違いが多いことがわかろう。
参考資料――索引(ちくま)
①43,321
②266,403,505
③94,405,406,485
④86
⑤100,138,210,431,432,435
⑥62
⑦
⑧82,83※ただし、孫盛の著作からの引用他に多数
孫盛の評価
至於《後漢》紀傳,發源《東觀》。袁張所制,偏駁不倫;薛謝之作,疏謬少信。若司馬彪之詳實,華嶠之准當,則其冠也。及魏代三雄,記傳互出。《陽秋》、《魏略》之屬,《江表》、《吳錄》之類。或激抗難征,或疏闊寡要。唯陳壽《三志》,文質辨洽,荀張比之於遷固,非妄譽也。
至於晉代之書,系乎著作。陸機肇始而未備,王韶續末而不終,干寶述《紀》,以審正得序;孫盛《陽秋》,以約舉為能。按《春秋經傳》,舉例發凡;自《史》、《漢》以下,莫有準的。至鄧粲《晉紀》,始立條例。又擺落漢魏,憲章殷周,雖湘川曲學,亦有心典謨。及安國立例,乃鄧氏之規焉。
ただ陳寿の『三国志』だけは、文章も内容もよくゆきとどいている。荀勗や張華が陳寿を司馬遷や班固になぞらえたのは根拠なき称賛ではない。
晋代の史書は、著作郎によって書かれた。陸機がその口あけをしたが完備せず、王韶之がそのあとをつづけたが完全な集結をみなかった。干宝の『晋紀』の記述は、明細正確で、秩序があり、孫盛の『晋陽秋』は要点を得た記述に能力を見せている。(明治書院「文心雕龍」より)
孫盛の一族
祖父、孫楚は「漱石枕流」の故事で有名な人物。晋書に孫楚伝がある。
孫楚伝(晋書)
孫楚,字子荊,太原中都人也。祖資,魏驃騎將軍。父宏,南陽太守。楚才藻卓絕,爽邁不群,多所陵傲,缺鄉曲之譽。年四十餘,始參鎮東軍事。文帝遣符劭、孫郁使吳,將軍石苞令楚作書遺孫皓曰:
蓋見機而作,《周易》所貴;小不事大,《春秋》所誅。此乃吉凶之萌兆,榮辱所由生也。是故許、鄭以銜璧全國,曹譚以無禮取滅。載藉既記其成敗,古今又著其愚智,不復廣引譬類,崇飾浮辭。苟以誇大為名,更喪忠告之實。今粗論事要,以相覺悟。
昔炎精幽昧,歷數將終,恆、靈失德,災釁並興,豺狼抗爪牙之毒,生靈罹塗炭之難。由是九州絕貫,王綱解紐,四海蕭條,非複漢有。太祖承運,神武應期,征討暴亂,克甯區夏;協建靈符,天命既集,遂廓弘基,奄有魏域。土則神州中嶽,器則九鼎猶存,世載淑美,重光相襲,故知四隩之攸同,帝者之壯觀也。昔公孫氏承藉父兄,世居東裔,擁帶燕胡,憑陵險遠,講武遊盤,不供職貢,內傲帝命,外通南國,乘桴滄海,交酬貨賄,葛越布於朔土,貂馬延于吳會;自以控弦十萬,奔走之力,信能右折燕、齊,左震扶桑,輮轢沙漠,南面稱王。宣王薄伐,猛銳長驅,師次遼陽,而城池不守;枹鼓暫鳴,而元兇折首。於是遠近疆埸,列郡大荒,收離聚散,大安其居,眾庶悅服,殊俗款附。自茲以降,九野清泰,東夷獻其樂器,肅慎貢其楛矢,曠世不羈,應化而至,巍巍蕩蕩,想所具聞也。
吳之先祖,起自荊、楚,遭時擾攘,潛播江表。劉備震懼,亦逃巴、岷。遂因山陵積石之固,三江五湖浩汗無涯,假氣遊魂,迄茲四紀。兩邦合從,東西唱和,互相扇動,距捍中國。自謂三分鼎足之勢,可與泰山共相終始也。相國晉王輔相帝室,文武桓桓,志厲秋霜,廟勝之算,應變無窮,獨見之鑒,與眾絕慮。主上欽明,委以萬機,長轡遠禦,妙略潛授,偏師同心,上下用力,陵威奮伐,罙入其阻,并敵一向,奪其膽氣。小戰江由,則成都自潰;曜兵劍閣,則姜維面縛。開地六千,領郡三十。兵不逾時,梁、益肅清,使竊號之雄,稽顙絳闕,球琳重錦,充於府庫。夫韓並魏徙,虢滅虞亡,此皆前鑒,後事之表。又南中呂興,深睹天命蟬蛻內附,願為臣妾。外失輔車脣齒之援,內有羽毛零落之漸,而徘徊危國,冀延日月,此由魏武侯卻指山河,自以為強,殊不知物有興亡,則所美非其地也。
方今百僚濟濟,俊乂盈朝,武臣猛將,折沖萬里,國富兵強,六軍精練,思複翰飛,飲馬南海。自頃國家整修器械,興造舟楫,簡習水戰,樓船萬艘,千里相望,刳木已來,舟車之用未有如今之殷盛者也。驍勇百萬,畜力待時。役不再舉,今日之師也。然主相眷眷未便電發者,猶以為愛人治國,道家所尚,崇城遂卑,文王退舍,故先開大信,喻以存亡,殷勤之指,往使所究也。若能審勢安危,自求多福,蹶然改容,祗承往錫,追慕南越,嬰齊入侍,北面稱臣,伏聽告策,則世祚江表,永為魏籓,豐功顯報,隆於今日矣。若猶侮慢,未順王命,然後謀力雲合,指麾從風,雍、梁二州,順流而東,青、徐戰士,列江而西,荊、揚兗、豫,爭驅八沖,征東甲卒,武步秣陵,爾乃王輿整駕,六戎徐征,羽校燭日,旌旗星流,龍游曜路,歌吹盈耳,士卒奔邁,其會如林,煙塵俱起,震天駭地,渴賞之士,鋒鏑爭先,忽然一旦,身首橫分,宗祀淪覆,取戒萬世,引領南望,良助寒心!夫療膏肓之疾者,必進苦口之藥;決狐疑之慮者,亦告逆耳之言。如其猶豫,迷而不反,恐俞附見其已死,扁鵲知其無功矣。勉思良圖,惟所去就。
劭等至吳,不敢為通。
楚後遷佐著作郎,複參石苞驃騎軍事。楚既負其材氣,頗侮易於苞,初至,長揖曰:「天子命我參卿軍事。」因此而嫌隙遂構。苞奏楚與吳人孫世山共訕毀時政,楚亦抗表自理,紛紜經年,事未判,又與鄉人郭奕忿爭。武帝雖不顯明其罪,然以少賤受責,遂湮廢積年。初,參軍不敬府主,楚既輕苞,遂制施敬,自楚始也。
征西將軍,扶風王駿與楚舊好,起為參軍。轉梁令,遷衛將軍司馬,時龍見武庫井中,群臣將上賀,楚上言曰:「頃聞武庫井中有二龍,群臣或有謂之禎祥而稱賀者,或有謂之非祥無所賀者,可謂楚既失之,而齊亦未為得也。夫龍或俯鱗潛於重泉,或仰攀雲漢遊乎蒼昊,而今蟠于坎井,同於蛙蝦者,豈獨管庫之士或有隱伏,廝役之賢沒于行伍?故龍見光景,有所感悟。願陛下赦小過,舉賢才,垂夢于傅岩,望想於渭濱,修學官,起淹滯,申命公卿,舉獨行君子可惇風厲俗者,又舉亮拔秀異之才可以撥煩理難矯世抗言者,無系世族,必先逸賤。夫戰勝攻取之勢,並兼混一之威,五伯之事,韓、白之功耳;至於制禮作樂,闡揚道化,甫是士人出筋力之秋也。伏願陛下擇狂夫之言。」
惠帝初,為馮翊太守。元康三年卒。
初,楚與同郡王濟友善,濟為本州大中正,訪問銓邑人品狀,至楚,濟曰:「此人非卿所能目,吾自為之。」乃狀楚曰:「天才英博,亮拔不群。」楚少時欲隱居,謂濟曰:「當欲枕石漱流。」誤雲「漱石枕流」。濟曰:「流非可枕,石非可漱。」楚曰:「所以枕流,欲洗其耳;所以漱石,欲厲其齒。」楚少所推服,惟雅敬濟。初,楚除婦服,作詩以示濟,濟曰:「未知文生於情,情生於文,覽之淒然,增伉儷之重。」
三子:眾、洵、纂。眾及洵俱未仕而早終,惟纂子統、綽並知名。
孫盛は「起家佐著作郎」だったが、祖父の孫楚も「佐著作郎」になっている。
父は孫恂。孫の孫康は「蛍雪の功」「孫康映雪」の故事の人物。
ちなみに「蒙求」には、祖父の孫楚(「孫楚漱石」)、孫の孫康(「孫康映雪」)、さらに従兄弟の孫綽(「孫綽才冠」)のことが書かれていて、登場率が高い一族。
関連資料-孫盛に関する論文
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