全三国文、維基文庫で見つけたので斜め読みしてツイッターにメモしてたけど。
姜維さんのところで面白いの見つけたり。
全三国文。姜維。
http://t.co/JDr1y4wIIF
蒲元傳とか次に蒲元がいるけど、姜維が書いたの?
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 12月 6
一度間違えてツイート消したからこのツイート自体の時間は少しずれてるけど。
このツイートの続きにこのツイートとかが続いていたり。元々は。
ぐぐったらここ蒲元の所に姜維の作か要確認、とかあった。
http://t.co/VYfVmftca9
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 12月 6
全三国文の姜維が蒲元伝作者というの。とりあえずぐぐって百度でこんな回答があったけど。
http://t.co/KqrezNUTkS
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 12月 6
姜維が蒲元伝書いたなら、他にも書いたかもしれないということで楽しそう。
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 12月 6
全三国文の姜維のところ
ともかく引用してみるとこんな。
全三国文 姜維
姜維[编辑]
維字伯約,天水冀人。仕魏為郡從事中郎,參本郡軍事。見疑來降,丞相亮辟為倉曹掾,加奉義將軍,封當陽亭侯,遷中監軍征西將軍。亮卒,為右監軍輔漢將軍,進封平襄侯,遷鎮西大將軍,領涼州刺史,又遷衛將軍,錄尚書事,加督中外軍事,拜大將軍。以假谷之敗,貶為后將軍,行大將軍事。后復拜大將軍。以避黃皓住沓中,尋拒鍾會于劍閣。蜀亡,謀興復,為魏將士所殺。
表后主[编辑]
聞鍾會治兵關中,欲規進取,宜并遣張翼、廖化督諸軍分護陽安關口、陰平橋頭,以防未然。《蜀志·姜維傳》密書通后主[编辑]
愿陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。《華陽國志》七欲偽服事鍾會,因殺之以復蜀土。《蜀志·姜維傳》注引《晉陽秋》,密與劉禪表疏云云。
議謚趙云[编辑]
云昔從先帝,勞績既著,經營天下,遵奉法度,功效可書。當陽之役,義貫金石。忠以衛上,君念其賞;禮以厚下,臣忘其死。死者有知,足以不朽;生者感恩,足以殞身。謹案《謚法》:「柔賢慈惠曰順,執事有班曰平,克定禍亂曰平。」應謚云曰「順平」矣。《蜀志·趙云傳》注引《云別傳》建議殄敵[编辑]
錯守詣圍,雖合《周易》重門之義,然適可御敵,不獲大利,不若使聞敵至,諸圍皆斂兵聚谷,退就漢、樂二城,使敵不得入。平且重關鎮守以捍之,有事之日,令游軍并進,以伺其虛。敵攻關不克,野無散谷,千里縣糧,自然疲乏。引退之日,然后諸城并出,與游軍并力搏之,此殄敵之術也。《蜀志·姜維傳》報母書[编辑]
良田百頃,不計一畝。但見遠志,無有當歸。《晉書·五行志》中。又《御覽》三百十引孫盛《雜記》。又九百八十九引孫盛《異同評》蒲元傳[编辑]
君性多奇思,于斜谷為諸葛亮鑄刀三千口,刀成,自言漢水鈍弱,不任淬用,蜀江爽烈,是謂大金之元精,天分其野,乃命人于成都取江水。君以淬刀,言雜涪水,不可用。取水者捍言不雜。君以刀畫水,言雜八升。取水者叩頭云,于涪津覆水,遂以涪水八升益之。以竹筒內鐵珠滿中,舉刀斷之,應手虛落,因曰神刀。今屈耳環者,乃是其遺范。《藝文類聚》六十蒲元別傳[编辑]
君性多奇思,得之天然,鼻類之事出若神,不嘗見鍛功,忽于斜谷為諸葛亮鑄刀三千口。熔金造器,特異常法。刀成,白言漢水鈍弱,不任淬用,蜀江爽烈,是謂大金之元精,天分其野,乃命人于成都取之。有一人前至,君以淬刀,言雜涪水,不可用。取水者猶捍言不雜,君以刀畫水,云「雜八升,何故言不雜衤集?」取水者方叩首伏,云實于涪津渡負倒覆水,懼怖,遂以涪水八升益之。于是咸共驚服,稱為神妙。刀成,以竹筒密內鐵珠滿其中,舉刀斷之,應手靈落,若生芻,故稱絕當世,因曰神刀。今之屈耳環者,是其遺范也。《御覽》三百四十五
蒲元[编辑]
元為丞相亮西曹掾。與丞相諸葛亮牒[编辑]
元等輒率雅意,作一木牛,廉仰雙轅,人行六尺,牛行四步,人載一歲之糧也。《北堂書鈔》六十八《掾篇》引《蒲元別傳》元牒與亮。習隆向充[编辑]
隆為步兵校尉。充,朗兄子,歷中書侍朗、射聲校尉、尚書、梓潼太守。請于沔陽立諸葛亮廟表[编辑]
臣聞周人懷召伯之德,甘棠為之不伐;越王思范蠡之功,鑄金以存其像。自漢興以來,小善小德而圖形立廟者多矣。況亮德范遐邇,勛蓋季世,興王室之不壞,實斯人是賴。而蒸嘗止于私門,廟像闕而莫立,使百姓巷祭,戎夷野祀,非所以存德念功,述追在昔者也。今若盡順民心,則漬而無典;建之京師,又逼宗廟,此圣懷所以惟疑也。臣遇以為宜因近其墓,立之于沔陽,使所親屬以時賜祭,凡其臣故更欲奉祠者,皆限至廟,斷其私祀,以崇正禮。《蜀志·諸葛亮傳》注引《襄陽記》。又見《宋書·禮志四》、《水經注·沔水上》。案:此事在景耀六年。
姜維のところの上の方はともかく、下二つの「蒲元伝」「蒲元別伝」を姜維が書いたらしいとか。今のところ、全三国文によるとだけど。
次に蒲元本人が来るから混ざったのかなとも少しは思ったけど、全三国文は著者別だから蒲元さんが蒲元伝を自分で書いたということでもなければ蒲元の所に蒲元伝が来るわけはないので、それもなさそうだし。
一応これ、維基文庫だけじゃなくて本のも持ってるけど(簡体字だからあんま読みたくないので維基文庫できてて幸せ)、それも姜維のところに入ってたし、蒲元伝関連。
姜維が蒲元伝を書いたとしたら
てことで、全三国文仕様の解釈をとれば、姜維は蒲元伝を書いたことになるけど、個人的にはこういうの楽しそう。
でもそうするとこの蒲元伝はどういったものなのかとか。
単独でこれを書いたのかなあとか。
ケイ康伝はその兄が、管路別伝はその弟が書いていたりというのが印象強くて、なんとなくこういう伝記は一族の人が書くのかなという感じだったけど、王弼伝(何劭)とか顧譚伝(陸機)とかあるしそういうわけでもないっぽい。
てことは、こういった感じで姜維が蒲元伝を書いたと考えるのが一番妥当なんだろうけれど。
姜維が紀伝体の史書まるまる一冊書いたけど失われて蒲元伝の一部だけがかろうじて残った、とか考えてもそれはそれで楽しそう、とか思いついたり。
ほとんどifになるのかなあ。
あと姜維の、
報母書[编辑]
良田百頃,不計一畝。但見遠志,無有當歸。《晉書·五行志》中。又《御覽》三百十引孫盛《雜記》。又九百八十九引孫盛《異同評》
これがかなり好きだったり。
とりあえず終わり。
(旧ブログ2014.12.06記事移転)