朱績(施績)のこと、ずっと疑問だったり。
それでこの間、ツイートしたらリプで色々な解釈を指摘してもらったりしたので、忘れないようにメモしておこうかなとか。
▼そもそもの疑問
孫綝が政治を牛耳るようになると、重臣たちのうちに動揺がおこった。朱績は、呉の国は必ず混乱し、中原の勢力がその乱れに乗じるであろうと心配をし、ひそかに書簡を送って蜀と連絡を取り、呉が併呑されてしまわぬよう蜀が牽制をしてくれるように依頼した。▼朱績伝
— 陳寿 (@chinjuppoibot) 2014, 5月 24
のツイートの内容についてのこの疑問ツイートから。
これすごく気になる部分。この続きは「蜀は、右将軍の閻宇を遣り、兵士五千を指揮して白帝の守備を増強し、朱績からの指示を待たせた」なんだけど、どうしてこの依頼への答えが白帝守備増強なのっていう…。 https://t.co/uPVEza0ud2
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 10月 18
てことでこれがどう解釈しようかなというところ。
以前にもブログで書いたけれど、結局ぐだぐだになっただけっていう。
てことで以下、ツイートメモ。
▼Tweet
@medamayaki1 「績、恐吳必擾亂而中國乘釁、乃密書結蜀、使爲幷兼之慮。蜀、遣右將軍閻宇將兵五千、增白帝守、以須績之後命」をちくまはそう訳してますけど、施績の言い分は、「荊州を取って下さい」ってことじゃないですかね? 人の指摘を見て以来、ここはそうとしか読めなくて。
— 六合 (@Rieg__Goh) 2015, 10月 18
@Rieg__Goh @medamayaki1 「他に取られるくらいなら蜀に」というのはまあ張松法正たちと同じベクトル
— 名菓カラーひよこ (@Golden_hamster) 2015, 10月 18
@medamayaki1 という解釈ですね。それくらい孫綝が危険に見えたということかなと。蜀中央が姜維の北伐に乗り気でないのも呉に関心が集まっていたからとかそんな指摘だった記憶があります。うろ覚えですが。
— 六合 (@Rieg__Goh) 2015, 10月 18
@medamayaki1 @Golden_hamster http://t.co/9CiJdJE9sW http://t.co/KM4Ai8tm2b 自分が見たのはこれです。
— 六合 (@Rieg__Goh) 2015, 10月 18
@medamayaki1 @Golden_hamster @Rieg__Goh ただ、施績の真意自体は測りかねると思います。仮に魏が呉を攻めた際に蜀が隴右に出ても、追加的な増援を防ぐだけで、直接的な支援にはなりません。そのため、荊州を守るとしても蜀軍の荊州入りは必須です
— Jominian (@Jominian) 2015, 10月 18
@Jominian @Rieg__Goh @medamayaki1 もう呉はアカン・・・せや、隣に無血開城すればええねん、っていうやつやね。孫氏のことよりも呉の民のこと考える社稷の臣ならそれすら選択肢になる。
— 名菓カラーひよこ (@Golden_hamster) 2015, 10月 18
@Jominian @Golden_hamster @Rieg__Goh 蜀軍に荊州に入ることを依頼するなら、実質「荊州を取って下さい」になるということでしょうね。施績の真意がどうなのか個人的に気になっています。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 10月 18
@medamayaki1 @Golden_hamster @Rieg__Goh 独力で魏の第一次攻勢を支えきれず、蜀軍を荊州に招いて防御させたとなれば、全てではないにせよ荊州の割譲は必要になるでしょう。それを朝廷に断りなく進めた施績の真意は、それ以外の事跡から測るしかないですね
— Jominian (@Jominian) 2015, 10月 18
そういえば朱績伝の「ひそかに書簡を送って蜀と連絡を取り…(ちくま訳)」の部分、原文「密書結蜀、使為並兼之慮」よく分からないから目が滑ってた…。ちくま訳に解釈入りすぎってのもあるのかな。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 10月 18
あと、この地図いいな。
西陵督陸抗が白帝から関羽瀬まで、施績が西陵から巴丘まで、陸凱が武昌右部督、魯淑が武昌左部督とすると、おおよそこんな感じか。永安二年には陸胤は虎林に遷ってるっぽいな。施績と他の督との関係がよく分からん。孤立ってこともないとは思うが pic.twitter.com/34Q2geuHAm
— Jominian (@Jominian) 2014, 11月 15
古いツイートだと新しくお気に入りいれても、ツイート時期のところにあるから探しづらかった。
▼朱績から施績はいつ?
あと、朱績(施績)のややこしい姓変更関連も調べたのでついでに収録。
てか、朱績って姓改めてるけどいつだっけと思ったら、「績以五鳳中表還為施氏」てあるから五鳳は254-256だからその辺なのかな。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 10月 18
朱績伝の「孫綝が政治を牛耳るようになると」というのは256-258。てことでこの頃はもう施績に名前変わってたのかな。
— medamayaki (@medamayaki1) 2015, 10月 18
▼まとめ
てことで。
自分のツイートに「施績の真意がどうなのか個人的に気になっています」とあるけれど、気になっているのはこの部分ではあったり。
朱績は呉を見限って蜀に亡命する気だったのかなとか。
あと、ここで指摘してもらった解釈は、その前にぼんやり考えていたのとは違ったので、どうしようかなーという気分ではあったり。
別に不本意とかではなくて、私の場合実質創作用だから、予定変える? みたいな。
朱績(施績)は呉の人の中でも気になる人。
てか自分の場合、好き嫌いでいえば蜀好きで、好きな人物は鍾会とか魏系が多いんだけど、最近読んだり考えたりするのは呉が結構多いかもなあとか。
おわり。
(旧ブログより移転 2015.10.25)