荀彧。
漢の忠臣だった説とか、そうじゃない説とか色いろある気がするけれど。
とりあえず自分としての解釈をそれなりに固めていけたらいいなと考えている部分ではあったり。
個人的荀彧観、荀彧像の確立、みたいな?
確立といってもできる限り、くらいな感覚だけれど。
▼三国志の荀彧伝をみてみる
とりあえず三国志の荀彧伝はこんな感じ。
太祖將伐劉表,問彧策安出,彧曰:
「今華夏已平,南土知困矣。可顯出宛、葉而間行輕進,以掩其不意。」
太祖遂行。
會表病死(208),太祖直趨宛、葉如彧計,表子琮以州逆降。十七年(212),董昭等謂太祖宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勛,密以諮彧。
彧以為太祖本興義兵以匡朝寧國,秉忠貞之誠,守退讓之實;君子愛人以德,不宜如此。
太祖由是心不能平。會征孫權,表請彧勞軍於譙,因輒留彧,以侍中光祿大夫持節,參丞相軍事。
太祖軍至濡須,彧疾留壽春,以憂薨,時年五十。
諡曰敬侯。
明年,太祖遂為魏公矣。
後漢書にも荀彧伝あるけれど、とりあえずそれはおいといて。
袁紹の次は荊州(劉表)――というところまでは荀彧の考え通り。
郭嘉もそんな。
その後の董昭が曹操に魏公とか九錫とかを勧めたこと関連から、荀彧と曹操の関係が悪化した、という感じ。
この件について荀彧が反対したことが、荀彧漢の忠臣説の一番の理由なのかな。
で、荀彧漢の忠臣説を否定する場合は、別に荀彧がこれに反対したのは漢への忠誠心のためじゃなくて別の理由がある、みたいな?
▼漢か魏(曹操)か――なのか?
それにしても、漢の忠臣としての荀彧or魏(曹操)の忠臣としての荀彧――の二つの選択肢しかないわけでもないんじゃないかとも思えてきたり。
荀彧には荀彧的な価値観や目的、意図、計画があって、荀彧が最も忠実だったのはそれだったんじゃないかとか。
あと、許が曹操の本拠地になったのって、どういう経緯だったんだろうとか。
許があるのは頴川郡で荀彧(郭嘉や鍾繇とかも)の出身地。
そこに献帝を連れて来させて、許が都になった。
頴川中心主義みたいなのとかどうかなあとか?
▼頴川中心主義?
- 自分の出身地の頴川(許)が中国の都、中心地になることが理想
- 自分が推挙した人物で固めた王朝が理想
頴川中心主義荀彧という仮説。
途中までは、曹操はそれに当てはまっていたけれど「董昭等謂太祖宜進爵國公,九錫備物,以彰殊勛,密以諮彧」辺りからは外れていった。
あと、献帝を許にというのは董昭も言ってるけど、最初に発案したのが董昭とも限らないような?
武帝紀はこんな。
(武帝紀)
洛陽殘破、董昭等勧太祖都許。
「等」がついてるし。
▼張良より范増?
てことで個人的荀彧像をさらに考えてみる。
(荀彧伝)
初平二年、彧去紹従太祖。
太祖大悅曰、「吾之子房也。」
以為司馬、時年二十九。初平二年(191)、荀彧は袁紹のもとを去って、太祖に身を寄せた。
太祖は大喜びして、「わしの子房である」といい、彼を司馬に任命した。このとき、荀彧は二十九歳だった。
荀彧はこの曹操の発言から張良(張子房)に結びつくイメージにどうしてもなりがちだけど。
もし、最終的に荀彧が曹操を見込み違いだと考えていたり曹操に失望していたとすると、劉邦に仕えた張良より項羽に仕えて後に項羽に疑われて去っていった范増の方が、イメージとしては近いんじゃないかなとか。
范増の「豎子ともに謀るに足らず」って台詞(これは劉邦を暗殺しなかった時の項羽に対して)個人的にすごく好きだったり。
荀彧伝
太祖軍至濡須、彧疾留寿春、以憂薨、時年五十。
諡曰敬侯。
明年、太祖遂為魏公矣。太祖の軍が濡須に到着したとき、荀彧は病気になって寿春に残留し、憂悶のうちに逝去した。
時に五十歳であった。敬侯とおくりなされた。
翌年、太祖はけっきょく魏公となった。
空箱とかは注の方なのでとりあえず今はおいといて。
死ぬときの気分は「豎子ともに謀るに足らず」風な荀彧像――とかもいいかなとは思ったり。
范増が死ぬときの気分がそれかはわからないけど。
でも、自分の中での范増像は項羽に失望したり苛々してたというイメージ。
それにしても、荀彧は曹操に仕え続けていたあたり、自分から退いた范増、張良ともその点は違うことは確かだったり。
張良、范増、どっちも仕えた劉邦や項羽に殺されたわけではないし。
その点については、まだ完全に曹操を動かすことを諦めてなかった、という風に解釈すればいいかなあとか。
荀彧伝の荀彧の死の記述の後に「翌年、太祖はけっきょく魏公となった」と書いてあるのは、少なくともこれを書いた陳寿は、曹操が魏公になったタイミングはそれに反対していた荀彧の存在に左右されていると考えていたから、荀彧伝のここにこんなことを(荀彧に関係ないならここに書く必要ない)書いたんだろうし。
てことは、荀彧が死んだ時点で曹操は荀彧に気を使ってはいたんだろうし。
▼箱?
どのみち曹操が殺したわけではないのは確か。
箱で暗に死ねといわれたから自殺した――というのも、自殺するつもりがなければしなくていいんだし。
だから、自殺したとするなら、自殺したいから自殺したんだろうし。
で、なぜ自殺したのかというと、曹操から荀彧の計画どおりにするつもりはないということを知らされたから(箱語)、ゲームのおわりみたいな?
あと、自殺じゃなくて文字通り憂悶して病死というのも、仕事がうまくいかなくて鬱になって弱ったところで病死ということも、確率としてあると思うので(自殺と同じくらい)、それだって良さそうではあるけれど。
書いた陳寿がどう荀彧の死因を解釈していたかということと、実在の荀彧の死因は何かということと、それもまた別のことだし。
とりあえずそんなイメージでどうかなとか。
おわり。
(旧ブログより移転 2015.10.13)