2016.01.02
7188文字 / 読了時間:9分程度
三国志

鍾毓荊州都督関連メモは、この記事用メモなので参照のこと。

▼鍾会の乱を考える――まえおき

個人的に、鍾会の最大の見せ場、魅力は何かということについて、鍾会の乱あるいはそれにいたる鍾会の計画なのではないかと思っていたり。

あと、鍾会像をはっきりさせるためには、鍾会の乱をどう解釈するかが大前提だとも。

ということで、個人的に一番興味があってお気に入りの三国志の人物である鍾会を理解するために、これをどう解釈すればいいのかと、ここ数年ずっと考えていた感じだったり。

てことで、今回はとりあえず今年分というか2015年版(年内に変わったりは多分しないだろうってことで)の鍾会の乱考察、鍾会解釈をまとめてみようかなと思ったり、だったり。

▼(一)蜀征伐以前――兄の鍾毓荊州都督になる

●鍾毓荊州都督年表?

個人的に鍾毓が荊州都督になっていたのがいつからいつまでなのか、すごく気になるところだったり。

(鍾毓伝)

淮南既平、為青州刺史、加后将軍、遷都督徐州諸軍事、仮節、又転都督荊州

で、それについてはさっきの記事の内容で一応いいかなってことで。

つまりこんな理解とか解釈とか。

●鍾毓荊州都督年表

261年(景元2) 鍾毓、荊州都督(徐州都督から)
263年(景元4) 鍾毓、死去(荊州都督のまま)

てことで、鍾毓さんは261年から263年に死ぬまでは荊州都督って結論。

●鍾毓荊州都督就任人事と、その弟の鍾会?

この辺からが、この確認にこだわったことの根っこ的な部分。

要するに鍾会について把握しておきたかったってことだし。

鍾会伝のここ。

(鍾会伝)

遷司隸校尉。
雖在外司,時政損益,當世與奪,無不綜典。
嵇康等見誅,皆會謀也。

司隷校尉に昇進した。
中央官庁から離れはしても、当時の政治上の変更や賞罰については、すべてとりしきった。
嵆康らが処刑されたことも、すべて鍾会の計策によるものだった。

正確な時期はあいかわらずあいまいだけど、さっきの鍾毓伝と同様、諸葛誕の乱の後なので、同期間でのことなのは確か。

で、ともかく鍾会は「雖在外司,時政損益,當世與奪,無不綜典(当時の政治上の変更や賞罰については、すべてとりしきった)」とか。

ということは、兄鍾毓が徐州都督から荊州都督になった人事も鍾会の意向か少なくとも鍾会が認めなければ通らなかった、ということじゃないのかなとか。

つまり、鍾毓が荊州都督になったのは鍾会の考えによる――という感じ?

●荊州の鍾毓からみる魏の征蜀関連

鍾毓は蜀滅亡の頃に死んでるけど。
それについては今はいいとして。

また鍾会伝。

(鍾会伝)

文王以蜀大将姜維屢擾邊陲,料蜀国小民疲,資力單竭,欲大舉圖蜀。惟會亦以為蜀可取,豫共籌度地形,考論事勢。
景元三年(262)冬,以會為鎮西将軍、仮節都督關中諸軍事。
文王敕青、徐、兗、豫、荊、揚諸州,並使作船,又令唐咨作浮海大船,外為将伐呉者。

文王は、蜀の大将姜維がしきりに国境地帯を騒がしていることから、蜀の国土は小さく人民は疲弊し、財力も尽き果てたと計算し、大挙して蜀を片づけようと考えた。
鍾会のほうでも蜀を取れると判断していたので、前もって両者で〔蜀の〕地形を調査し、状況を検討していた。
景元三年(262)冬、鍾会を鎮西将軍・仮節都督関中諸軍事に任命した。
文王は青・徐・豫・荊・揚の諸州に命じて、ともに船を建造させ、同時に唐咨に海上用の大型船建造を命じ、表向きは呉討伐の準備と見せかけた。

このあたりは、鍾毓が荊州都督になった261年以降の出来事。
261年の翌262年、弟の鍾会が「景元三年(262)冬,以會為鎮西将軍、仮節都督關中諸軍事」といった感じで、荊州からは隣の関中都督に就任したり。

また、「文王(司馬昭)敕青、徐、兗、豫、荊、揚諸州,並使作船,又令唐咨作浮海大船,外為将伐呉者」てことで、荊州も含まれてるから、鍾毓も呉征伐名目の造船に関わってはいたんだろうなとか。

▼(二)鍾会の乱と鍾会の計画――およびその兄鍾毓の関係

てことで、鍾会関連でもっとも有名な鍾会の乱の分析(考えていること、真意系)。

この辺からが個人的にわりと本題とも。

●鍾会の計画、おさらい

(鍾会伝)

會所憚惟艾,艾既禽而會尋至,獨統大眾,威震西土。
自謂功名蓋世,不可復為人下,加猛将銳卒皆在己手,遂謀反。

鍾会が恐れていたのは鄧艾だけだったが、鄧艾が逮捕されたのち、鍾会はまもなく(成都に)到着し、大軍勢をひとりで統率して、西方の地に威勢をとどろかすこととなった。
世をおおう功業と名声をもっているからには、もう人の下につくことはない、その上猛将と精鋭の兵はすべて自分の手中にあると判断した結果、ついに反逆をたくらんだ。

鍾会は鄧艾のことは恐れていたらしい。
姜維が手を組んでいた姜維も手こずっていた相手だからということかな。

その続き。

これが鍾会伝の記述における鍾会の計画。

(鍾会伝)

欲使姜維等皆将蜀兵出斜谷,會自将大眾隨其後。
既至長安,令騎士從陸道,步兵從水道順流浮渭入河,以為五日可到孟津,與騎會洛陽,一旦天下可定也。

彼のもくろみは、姜維らに蜀兵を全部ひきつれて斜谷に出撃させ、鍾会自身は大軍をひきいてその後に続く、長安に達したあと、騎兵隊に命じて陸路を進ませ、歩兵隊には水路を通らせ、流れにしたがって渭水に船を浮かべ黄河に入れば、五日で孟津にたどりつける、騎兵と洛陽でおちあい、またたくまに天下を平定できる、というものだった。

魏の領土的に考えると、益州(蜀)に隣接しているのは長安、渭水、黄河、孟津、洛陽……とあるような関中から洛陽への地域だけでもない。

隴右(涼州とか)、そして荊州(北部)は、魏の領地だったり。

で。

●鍾会、隴右の鄧艾と諸葛緒を始末する

隴右は、鄧艾やら諸葛緒がそもそもその辺にいたので、鍾会はこの計画のまえにこの二人を失脚させているからこの二人は動けないし。

諸葛緒は剣閣あたりで既に、鍾会のためにこんな状態。

(鍾会伝)

會與緒軍向剣閣,會欲專軍勢,密白緒畏懦不進,檻車徵還。軍悉屬會,

鍾会は軍勢を独占したいと思い、諸葛緒がおじけづいてひるみ、前進しないと内密に告発したので、囚人護送車によって召還され、軍はすべて鍾会に帰属した。

鄧艾も、「會所憚惟艾」の直前の箇所で、こんな感じ。

(鍾会伝)

於是詔書檻車徵艾。司馬文王懼艾或不從命,敕會並進軍成都,監軍衛瓘在會前行,以文王手筆令宣喻艾軍,艾軍皆釋仗,遂收艾入檻車。

その結果、詔勅が下って囚人護送車によって鄧艾を召還した。
司馬文王(司馬昭)は鄧艾が命令に従わないかもしれぬと懸念し、鍾会に命じてともに成都まで軍を進めさせる一方、監軍の衛瓘を鍾会より先に行かせ、文王の手筆の命令文をもって鄧艾の軍を説諭させた。
鄧艾の軍兵がみな武器をすてたので、鄧艾を逮捕して護送車に収容した。

ちなみに、この鄧艾、諸葛緒の二人は、それぞれ征西将軍と雍州刺史で、姜維が北伐するときの相手はだいたい征西将軍や雍州刺史な感じ。

(陳留王紀)

夏五月,詔曰:
「蜀,蕞爾小國,土狹民寡,而姜維虐用其眾,曾無廢志;往歲破敗之後,猶復耕種沓中,刻剝眾羌,勞役無已,民不堪命。夫兼弱攻昧,武之善經,致人而不致於人,兵家之上略。蜀所恃賴,唯維而已,因其遠離巢窟,用力為易。
今使征西将軍鄧艾督帥諸軍,趣甘松、沓中以羅取維,雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都、高樓,首尾槅討。
若擒維,便當東西並進,掃滅巴蜀也。」又
鎮西将軍鍾會由駱谷伐蜀。

こんな感じでそもそも魏の蜀討伐を任されたのは、鄧艾、諸葛緒、鍾会の三人だったので、自分以外を無事失脚させた鍾会が「加猛将銳卒皆在己手(その上猛将と精鋭の兵はすべて自分の手中にあると判断した)」と考えるのも、理にかなったことではあったり。

とりあえず、相変わらず地図的には隴右は魏の領土であっても鄧艾や諸葛緒を始末した直後でそこの兵も鍾会の下にいるということであれば、姜維も味方にいることも更に考慮するなら、ほぼ隴右は鍾会やその盟友姜維(鍾会の計画の中では)にとっては脅威でも敵でもない――と考えていたんじゃないのかなとか。

●鍾会の計画ともう一つの益州のお隣、荊州?

てことで荊州。

荊州は南は呉。
ひとまず呉のことはおいといて、魏の荊州。

魏的には、荊州から益州へ行くとなると、漢水沿いのルート以外無理なのかなあ。

とりあえずメジャーなのはそれだと思うのでそれを考えると……。

(鍾会伝)

魏興太守劉欽趣子午谷,諸軍數道平行,至漢中。
蜀監軍王含守樂城,護軍蔣斌守漢城,兵各五千。會使護軍荀愷、前将軍李輔各統萬人,愷圍漢城,輔圍樂城。
會徑過,西出陽安口,遣人祭諸葛亮之墓。
使護軍胡烈等行前,攻破關城,得庫藏積穀。

魏興太守の劉欽は子午谷へと向い、諸軍は数本の街道を同時に進軍し、漢中へ到達した。

とりあえず魏興太守の劉欽は漢中へ到達していたらしい。
この時漢中に鍾会はいたから、劉欽はもしかするとそのまま一緒に蜀に来ていたのかなとか。

魏興はだいたい漢中の東、もっと東にいくと荊州北部。
ざっくばらんな地理関係でいうと。

で、その荊州に、鍾会の兄鍾毓はいることに。

ちょうどこの頃死んでるけど。
なんでこのタイミングでとか多少考えるけれどそれは今回はおいといて。

荊州には鍾毓だけでなく、陳騫もいたらしいけれど。

ここに収録したツイートによると。

鍾毓荊州都督関連メモ
http://histoire.atehs.net/histoire/archives/93

まあ、それは今回はまあいいやとして。

少なくとも鍾毓も荊州都督としていたことは事実みたいだし。

導き出したいこと。

鍾会は荊州に兄の鍾毓を置くことにより、荊州方面から自分の計画(最終的には洛陽を落とす予定だったと陳寿は鍾会伝に書いた「與騎會洛陽,一旦天下可定也」)に対する邪魔が入らないように取り計らった――ということではないか、ということとか。

●鍾毓は鍾会の計画を知っていたのか

少なくとも鍾毓は鍾会の計画のなかに組み込まれていた、と考えているわけだけど。

鍾毓の方はどうだったのか。

鍾毓が知っていたことは多分確か。

(鍾会伝)

會兄毓,以四年冬薨,會竟未知問。
會兄子邕,隨會與俱死,會所養兄子毅及峻、辿敕連反。等下獄,當伏誅。
司馬文王表天子下詔曰:
「峻等祖父繇,三祖之世,極位台司,佐命立勛,饗食廟庭。父毓,歴職内外,幹事有績。昔楚思子文之治,不滅斗氏之祀。晋錄成宣之忠,用存趙氏之後。
以會、邕之罪,而絕繇、毓之類,吾有愍然!
峻、辿兄弟特原,有官爵者如故。惟毅及邕息伏法。」
或曰,毓曾密啟司馬文王,言會挾術難保,不可專任,故宥峻等雲。

鍾会の兄の鍾毓は、〔景元〕四年(263)の冬に逝去したが、鍾会はけっきょくその訃報に接しないうちに死んだ。
……
司馬文王(司馬昭)が天子に上奏したため、詔勅が下った、
「……会と邕の罪によって繇・毓の一族を根絶することは悼ましい……」
別の説では、鍾毓が以前司馬文王に内密に具申して、鍾会は策謀にはしりすぎて一貫した態度をとれない男だから、任務を彼一人にまかせるのはよろしくない、と述べた。そのために峻らを許したとのことである。

鍾毓は内密に司馬昭に鍾会のことであまり信用しないほうがいいみたいなことを言ったという説もあるとか。
それがあるから、鍾峻らは許されたとか。

この「或曰,毓曾密啟司馬文王」について、こんな書き方を陳寿がしたということは(そのまま陳寿の説として書かないで)陳寿はこの説をあまり信用していなかったのかもしれないとも思うけど。

密告したにしろしなかったにしろ、鍾毓が知らない、少なくとも気づかないということはなかったんじゃないのかなとか。

鍾毓のこの「會兄毓,以四年(263)冬薨,會竟未知問」というタイミングの死も(蜀滅亡直後、鍾会の乱直前)、偶然というわけでもなかったんじゃないかなとも思っていたり。

巻き込まれたくなくて自殺したとか、あるいは鍾会をたすけさせないために暗殺とか。
あるいは単に心労(鍾会の計画が失敗すれば族滅の危機なわけだし)で病死ということも充分ありえるだろうし。

▼(三)補足――一応呉のほう

●蜀滅亡前後の呉のほう

呉については、陸抗のことはひとまずおいといて。
あんまり鍾会の乱自体には関係なさそうだし。

最近何度かブログで取り上げてる呉の朱績、あるいは施績(この当時は既に施績らしいので今後は施績)。

施績は年表的にざっとこんな感じ。

朱績伝

二年(253)春、恪向新城、要績並力、而留置半州、使融兼其任。
冬、恪、融被害、績復還楽郷、仮節。
太平二年(257)、拜驃騎将軍。
孫綝秉政(256-258)、大臣疑貳、績恐呉必擾乱、而中国乗釁、乃密書結蜀、使為並兼之慮。
蜀遣右将軍閻宇将兵五千、增白帝守、以須績之後命。

永安初(258-264)、遷上大将軍、都護督、自巴丘上迄西陵、
元興元年(264)、就拜左大司馬。
初、然為治行喪竟、乞復本姓、権不許、
績以五鳳中(254-256)表還為施氏、
建衡二年(270)卒。

密書のことは別記事で書いてるから今回は割愛。
とはいえ、蜀滅亡前に蜀に密書を送っている関係であることは重要?

てか「蜀遣右将軍閻宇将兵五千、增白帝守、以須績之後命」とあるけれど、この白帝の兵は、蜀滅亡後、陸抗が攻めて羅憲がふせいだ戦力になったりしてたとかあるのかなとも思うけどそれについては今はいいとして。

とりあえず孫休伝の。

(孫休伝)

(永安)六年(263)……
冬十月、蜀以魏見伐来告。……
甲申、使大将軍丁奉督諸軍向魏寿春、
将軍留平別詣施績南郡、議兵所向、
将軍丁封、孫異如沔中、皆救蜀。
蜀主劉禪降魏問至、然後罷。
呂興既殺孫諝、使使如魏、請太守及兵。……

(永安)七年(264)春正月、大赦。
二月、鎮軍陸抗、撫軍歩協、征西将軍留平、建平太守盛曼、率衆囲蜀巴東守将羅憲。
……
魏使将軍胡烈歩騎二万侵西陵、以救羅憲、陸抗等引軍退。
復分交州置広州。壬午、大赦。
癸未、休薨、時年三十、謚曰景皇帝。

地名の西陵、江陵、南郡って、ほぼ同一でいいのかな。
いいってことにしておく。

とりあえず施績がこのころいたのはここ。
荊州の南。

あと、永安の羅憲を攻めていたのは陸抗たちだけど、その後羅憲を救うために派遣された胡烈は西陵を攻めたらしいけど、それって施績のいるところか。

魏からすると、荊州は呉と接しているので、益州(蜀)に兵を出すような余裕はそもそもあんまりなさそうではあったり。

とはいえ、結局呉は蜀を救う姿勢は見せたことはわかるにしても、結果的に特に動いてはいない様子。
動いたのは蜀滅亡後だし。

この辺はどういう考えだったのかなとか。

呉にとって蜀が滅びれば、唇亡びて歯寒しな印象はあるんだけど。

蜀が滅びた後に長江上流の永安を取りに行くくらいなら、もっと先に動いててもよさそう(別に呉のせいで蜀が滅んだとかいうわけでは全然ないけど)なんだけど、その辺の利害について呉はどう考えていたのかなとか。

最善策をとれるような内部事情じゃなかったってことかなあという感じ?

●呉が鍾会の計画を知っていた可能性?

この辺までくると推測だらけになるけれど。

自分の場合は最終目的は創作系なので、その辺まで詰めたいし、むしろその推測が創作的に重要な気がするので、すすめる。

鍾会は諸葛誕の乱のときの全一族調略とかで、呉に関わってるし。

(鍾会伝)

初,呉大将全琮,孫権之婚親重臣也,琮子懌、孫靜、從子端、翩、緝等,皆将兵來救誕。懌兄子輝、儀留建業,與其家内爭訟,攜其母,将部曲數十家渡江,自歸文王。會建策,密為輝、儀作書,使輝、儀所親信齎入城告懌等,說呉中怒懌等不能拔壽春,欲盡誅諸将家,故逃來歸命。懌等恐懼,遂将所領開東城門出降,皆蒙封寵,城中由是乖離。

それがどうつながるかって話ではあるけど。

呉が鍾会の計画をしっていれば、少なくともそれが成功すれば魏の混乱と弱体化に繋がるだろうってことで、邪魔はしないんじゃないかなとか。

てことであんまり荊州でやる気なかった可能性?

結果的に、そううまくはいかなくて、あわてて永安を攻めることになったとか?

▼(四)鍾会の計画と鍾会の野心

鍾会の乱は、演義では姜維に唆されてという印象が強かったり。

とはいえ鍾会の野心は鍾会の友人傅嘏の指摘があったり(後付という可能性もあり得るけれど、とくに王元姫あたり)、傅嘏は255年没だからかなり鍾会の乱(264)より遡ることになるわけで、かなり昔から暖められていたもので、鍾会の計画自体もかなり長期的にねられたものなのではないのかなと考えてたり。

少なくとも鍾毓が荊州都督になった時点では確実に鍾会には頭のなかにこの計画がねられていたんじゃないかなとか。

▼おわりに――とりあえず今回の

てことで、鍾会の乱、および鍾会の計画考察は、今回はこんな感じかなあ。

もう少し書きたいことある気もするけれど、長くなったし今回はこれでいいかな。

一応まとめると。

鍾会の野心、鍾会の計画、鍾会の乱の下準備は、少なくとも鍾毓荊州都督就任以前から存在していた――というのが、現時点での自分の鍾会解釈ということ。
そうである以上、征蜀の時にすでに蜀の人間に取り入ろうとする行動(諸葛亮の墓、蔣斌、檄蜀文……)をとるのは当然ということ。
そして、そうであるからには、鍾会の乱は鍾会の個人的な意志から、積極的に行われたものであるだろうということ。
また、それは鍾会があらかじめ立てた計画(洛陽を落として天下平定まで)のうちのあくまで一つであるだろうということ。

てことで。

あくまで創作系解釈なので、どっちでもよさそうなときには好みな方の選択肢をとる、っていうのはあるけれど。
とはいえそれについては、私の三国志関連にはすべてにあてはまることだし。

とりあえず今回はここまで。

おわり。

(旧ブログより移転 2015.10.27)





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