2016.01.02
2624文字 / 読了時間:3.3分程度
三国志

▼劉玄徳が呉を討とうとしていたとき、関羽の死が報ぜられた?

今日はツイッターで神仙伝のことがTLで流れてきたので、神仙伝の訳(平凡社)を引っ張りだして眺めてみたり。

それで気になったのが、神仙伝の李意期の劉備が出てくる箇所だったり。

その訳では、

劉玄徳が呉を討とうとしていたとき、関羽の死が報ぜられた

ってあったんだけど。

三国志知識的にいうと、この辺はこんな感じだと理解しているけれど。

劉備、呉(孫権)と同盟して、定軍山の戦いで曹操に勝利、漢中王とか
  ↓
関羽が呉(背信した)によって殺され、劉備は関羽と荊州を失う
  ↓ 
劉備は報復のため呉を討つことにする
  ↓ 
張飛が殺されたり、夷陵の戦いへ続く

とか?

なのでこの訳の「劉玄徳が呉を討とうとしていたとき、関羽の死が報ぜられた」は、いろいろ斬新な解釈で斬新でいいなーとか思ったんだけど…。

この訳だと、劉備は関羽が死ぬ前から呉を攻めるつもりだったということになって、すごくアグレッシブになって、それはそれで楽しそうな劉備像、蜀像なんじゃないかなとか。

曹操と孫権の両方を敵に回す強気な行動となるし、あと諸葛亮の天下三分の計(孫権とは同盟して曹操にあたる)を全く無視するということにもなるし。

▼劉玄徳欲東伐呉,報関羽之怨

で、葛洪はこんな風に解釈してたとしたらおもしろいなーと思って、原文も見てみたんだけど…。

そうしたらこんなかんじだった。

神仙伝 李意期

http://ctext.org/shen-xian-zhuan/10/liyiqi/zh

李意期者,蜀郡人也,傳世識之。雲是漢文帝時人也,無妻息。人有欲遠行速至者,意期以符與之,並以丹書其人兩足,則千裏皆不盡日而還;人有說四方郡國宮觀市井者,座中或未見,重問說者,意期即為撮土作之,所作郡國形象皆是,但盈寸耳,須臾消滅。或遊行,不知所之,一年許復還於蜀中,乞食所得,以與貧乏者,於成都角中,作一土窟而居其中,冬夏單衣,發長剪去之,但使長五寸許,啜少酒脯及棗果,或食百日,不出窟則無所食也。

劉玄德欲東伐吳,報關羽之怨,使人迎意期,意期到,玄德敬禮之,問其伐吳,意期不答而求紙筆,玄德與之,意期畫作兵馬器仗十數紙,便一一以手裂壞之,曰:「咄咄!」又畫一大人,掘地埋之,乃徑還去,玄德不悅,而出軍,果大敗,十余萬眾,才數百人得還,器仗軍資,一時蕩盡,玄德忿恥,發病而卒於永安宮,乃追念其所作大人而埋之正是玄德之死象也。

意期少言語,人有所問,略不對答,蜀人有憂患,往問吉凶,自有常侯,但占意期顏色,若懽悅,則百事吉,慘戚,則百事惡。鄧艾未到蜀百余日,忽失意期所在。後入瑯琊山中,不復出也。

さっきの訳の部分は「劉玄德欲東伐吳,報關羽之怨」で、これを「劉玄徳が呉を討とうとしていたとき、関羽の死が報ぜられた」って訳すのは、単に誤訳系なんじゃないのかなとか。

劉備は呉を討って関羽の怨みに報復しようとした――みたいにとるのがいいじゃないのかなとか。
そのほうが、「三国志」とかの記述にあうわけだし。

三国志だと、先主伝はこんな。

三国志 先主伝

時關羽攻曹公將曹仁,禽于禁於樊。俄而孫權襲殺羽,取荊州。
……
……
初,先主忿孫權之襲關羽,將東征,秋七月,遂帥諸軍伐吳

この頃の先主伝は、漢中王になった直後に関羽が殺されて、その後曹丕が即位したり劉備も即位したりでばたばたしてるけれど。

▼劉備は荊州が必要?

それでも「劉玄徳が呉を討とうとしていたとき、関羽の死が報ぜられた」説には、魅力はあるような。

たとえば、夷陵の戦いで劉備は敗れて劉備の討呉計画は大失敗に終わったわけだけれど、結果論的に劉備の計画が無謀だったとか劉備は感情的になって判断を誤ったという風に解釈してすませていいのかなという疑問をつきつけてくれたりとか。

少なくとも劉備は呉に勝てると判断していたんだろうし。

そもそも漢中に曹操がきたから一時的に劉備は孫権ととりあえず和解しただけで、劉備と孫権は荊州の取り合いをしてる関係。

二十年(215),孫權以先主已得益州,使使報欲得荊州。
先主言:「須得涼州,當以荊州相與。」
權忿之,乃遣呂蒙襲奪長沙、零陵、桂陽三郡。
先主引兵五萬下公安,令關羽入益陽。

是歲,曹公定漢中,張魯遁走巴西。
先主聞之,與權連和,分荊州、江夏、長沙、桂陽東屬,南郡、零陵、武陵西屬,引軍還江州。

遣黃權將兵迎張魯,張魯已降曹公。
曹公使夏侯淵、張郃屯漢中,數數犯暴巴界。先主令張飛進兵宕渠,與郃等戰於瓦口,破郃等,收兵還南鄭。
先主亦還成都。

劉備は荊州を孫権に渡すつもりは最初からずっとなくて、関羽が死んで荊州を孫権に取られたから取り返しに行くのは劉備としては、荊州をめぐる孫権とのごたごたの続きのようなもので、自然な流れだという感覚だったのかもとか。

今このことを判断すると、その後直ぐ三国が鼎立することになって一番国力が低い蜀の劉備が魏と呉の両方を敵に回すのは暗愚なはず――っていう未来人的なものがどうしても入ってくるけれど。

劉備が見ていた風景とか思考はまた違うものだったんだろうし、それがどういうものなのかは考えてみたいなとか。

あとここ、演義だと趙雲が敵は曹操で孫権ではないといって諌めるシーンがあってあれ趙雲かっこいいから好きなんだけどそれはそれ。

演義的には、劉備はここで討呉に行かないほうがよかったと考えているからこういうシーンが用意されたんだろうなとも思うけど。

まあいいや。

諸葛亮の天下三分の計にも荊州はプランに入っているし。孫権と手を組む方はともかく。

てことで、劉備は荊州は絶対に必要だとずっと考えていたんだろうなとか。

そして優先度は、「荊州>>>孫呉との同盟関係」だったんだろうなとも。

▼劉備が討呉に成功したら?

てことで。

もし劉備が夷陵の戦いで負けたり、死んだりしなかった場合のifを考えてみる。

劉備的には、孫権を完全に滅ぼさなくてもいいんじゃないのかな。

蜀は結果的に益州1州に追い込まれることになったわけだけれど。

劉備がもし呉に勝っていたら、劉備としては孫権を滅ぼすところまでは考えていなくて、揚州の一部(孫策の版図くらい)に追い込むくらいで済ませて、ただ荊州は自分が手に入れる――これくらいが現実的な劉備の目標だったんじゃないかなとか。

それで、呉が最弱な三国鼎立を成立させて、劉備(蜀)は諸葛亮の天下三分の計通り、益州と荊州を支配する――というかんじ?

おわり。

(旧ブログより移転 2015.10.11)





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