前の記事で朱績(施績)の真意――とか考えていたので、今回は太史慈の真意を探りたいということで。
▼太史慈の最期の言葉?
太史慈の有名な死ぬ時の言葉のこれ。
(太史慈伝)
〈吳書曰:
慈臨亡,嘆息曰:
「丈夫生世,當帶七尺之劍,以升天子之階。今所志未從,奈何而死乎!」
權甚悼惜之。〉呉書にいう。
太史慈は、その臨終のとき、嘆息していった。
「大丈夫たるもの、世に生きては、七尺の剣を帯びて天子の階を升るべきものを、まだその志が実現できぬうちに、なんと死ぬことになるのか。」
孫権は、彼の死をひどく悼み惜しんだ。
で、ここの「當帶七尺之劍,以升天子之階(七尺の剣を帯びて天子の階を升る)」は臣下の特権の一つ「剣履上殿」のこと、と解釈していいのかな。
ここで、かなり太史慈という人は野心をもっていたのだなと思ったり。
▼太史慈伝の位置?
太史慈伝は、劉繇伝と士燮伝に挟まれた位置にあったり。
太史慈伝
→維基文庫
ちょっと不思議な気もしたり?
▼三国志演義の太史慈?
で、ちょっとずつ違和感を感じるわけだけど。
その理由としては、演義太史慈のイメージが強いからということかも。
演義太史慈は、大まかな流れは正史のまま(延命についてはまた別の理由があると思うのでここでは触れない)。
だからこそ混同しやすいのかも。
たとえば、正史のこの辺り。
(太史慈伝)
慈當與繇俱奔豫章,而遁於蕪湖,亡入山中,稱丹楊太守。
是時,策已平定宣城以東,惟涇以西六縣未服。慈因進住涇縣,立屯府,大為山越所附。策躬自攻討,遂見囚執。太史慈は〔孫策に敗れた〕劉繇とともに豫章へ逃亡しようとしたが、〔その途中〕蕪湖で姿をくらませ、逃げて山中に入ると、〔勝手に自分が〕丹陽太守だと称した。
この当時、孫策は宜城より東の平定をおわり、涇(けい)より西の六県だけがまだ彼に服していなかった。太史慈は、こうした情勢を見て、涇県まで出てそこに留まり、屯府(軍事的な行政機構)を立てたところ、三越たちが多数帰属してきた。
孫策は、みずから太史慈の討伐を行ない、結局、太史慈は捕虜となった。
太史慈は劉繇が敗れると、どさくさに紛れて太守を自称していたり。
あわよくば独立したい系の人なのかなあと思えるエピソード。
一方、演義だとこんな感じ。
孫策然之,當夜分軍五路,長驅大進。劉繇軍兵大敗,眾皆四紛五落。
太史慈獨力難當,引十數騎連夜投涇縣去了。
……卻說太史慈招得精壯二千餘人,并所部兵,正要來與劉繇報讎。
・太史慈の太守自称が省略されている
・太史慈が劉繇敗走後孫策と戦う理由が(単に太守自称して独立しようとしていた事から)「劉繇の仇を打とうとしていた(立間訳)」という理由に変更されている
この辺の演義太史慈像が脳内にあると、正史太史慈が削られたエピソードの太守自称をしたりすることや、演義では孫呉の有力な武将の一人(だからこそ演義では延命されて合肥で張遼と戦って死ぬことに変更されているってことかと)扱いなのに陳寿は劉繇伝士燮伝に挟んで太史慈伝を立ていたりすることに、なんとなく違和感を感じることに繋がるのかなとか。
太史慈伝って甘寧伝とかの辺になんとなくまざってそうなイメージがあったし。個人的に。
▼陳寿の太史慈観?
呉関連は陳寿描きおろしっていうわけでもないみたいなので、陳寿がどれくらい考えたかはいまいち掴みづらいけど。
評曰、劉繇藻厲名行、好尚臧否。至於擾攘之時、據万里之士、非其長也。
太史慈信義篤烈、有古人之分。
士燮作守南越、優遊終世、至子不慎、自貽兇咎。蓋庸才玩富貴而恃阻険、使之然也。評にいう。
劉繇は、立派な行ないをなすことに厲(つと)め、ものごとの善悪を正しく判断することに意を用いたのであるが、混乱の時代に、遠く万里の土地にあって自立するといったことは、その長ずるところではなかったのである。
太史慈は、信義を守ることに一身をかけ、古の人々にかわらぬ操行を持した。
士燮は、南越の地の太守となり、心のままにその生涯を過ごしたが、その息子の時代になって行ないを慎まず、自分から禍いをまねくこととなった。思うに凡庸な才能しかなかったのに、富貴を玩び険阻な地勢をたのみにしたことが、そうした結果をもたらしたのである。
劉繇評の「混乱の時代に、遠く万里の土地にあって自立するといったこと」――これが、この三人の伝を一つにまとめた理由なのかなとか。
とすると、陳寿の太史慈観は、「慈當與繇俱奔豫章,而遁於蕪湖,亡入山中,稱丹楊太守」の「称丹楊太守」の要素をかなり重視しているということなのかなとか。
▼正史太史慈から演義太史慈へ
正史から演義への変化については、まあそれを今は突き詰めたいわけでもないけど一応。
演義太史慈の方向性について。
群雄の一人として太史慈を扱うと、「称丹楊太守」程度ですぐに孫策に捕らえられた実績では、一時はそれなりの勢力を築いた劉繇よりさらにしょぼくなって厳白虎レベル(以下?)になりそうだから、敵から頼もしい味方へ、という受け入れられやすい人物像に当てはめた、ということなのかも。
孫策との一騎打ちみたいなエピソードを正史段階で持っている素材はおいしいわけだし。
群雄枠は人材豊富だし。
とりあえず敵から味方へという枠組に当てはめることによって、太史慈の野心的なものはスポイルされて、代わりに忠義的な要素を与えられたのかなとか。
陳寿は太史慈の人格は褒めている(太史慈信義篤烈、有古人之分)けれども「忠」とは言っていない。
とはいえ「信義篤烈」という文字列を見れば忠義であってもおかしくなくてた、だの表記ゆれとか文飾的な問題な雰囲気もしなくはなかったり。
▼正史太史慈像?
演義好きだけど、作りたいのは歴史っぽい創作なので、演義みたいなことを自分でもしたいということだから、演義準拠にするとまたずれたものになる。
演義二次創作というのはそれはそれで魅力あると思うけど、それなら演義らしさとかの研究も必要なわけだし。
で個人的に、正史太史慈像を考えてみたいと思ったり。
その場合はまずは演義イメージの分離からはじめるのがいいんだろうなとか。演義好きだから演義が混ざりやすい自分の場合。
if――って、思考実験みたいなものだし、検証にいいイメージ。
ifの丹陽太守続けた太史慈――とか考えてみたいなとは思ったり。
▼太史慈のいう天子?
あとまた、この最期の言葉だけど。
〈吳書曰:
慈臨亡,嘆息曰:
「丈夫生世,當帶七尺之劍,以升天子之階。今所志未從,奈何而死乎!」
權甚悼惜之。〉
これは、「權甚悼惜之」が直後に続いていて、なんとなくこの言葉を聞いて孫権が惜しんだみたいにとれるけれど。
ただ、太史慈が死んだのは206年で孫権が皇帝になる15年くらい前のことだったり。
となると、太史慈の「丈夫生世,當帶七尺之劍,以升天子之階」の「天子」は後漢の天子のことだろうし。
▼正史太史慈の「忠」?――ついでに、ウィキペディア記述についても
ウィキペディアは好き。
とはいえ、ウィキペディアは間違いも偏向も多いのは事実。
三国志系は結構いろいろある。
ウィキペディアは便利な分影響力も大きいから一応、太史慈の項目を見てみたり。
今のバージョンではこうある。
……
孫家の武将として
……曹操が太史慈の噂を聞いて、是非家臣に迎えたいと考え、「当帰」という薬草を贈り好条件で誘った(「当帰」は「故郷(青州)に帰るべし」という意味を含んでおり、当時曹操が既に青州も勢力下においていたので、つまり「私の元に来い」という暗示だった)が、太史慈は孫権への忠義を選んで拒絶したという。
……
このエピソード自体はあるけれど。
(太史慈伝)
曹公聞其名,遺慈書,以篋封之,發省無所道,而但貯當歸。
その直後はこう。
孫權統事,以慈能制磐,遂委南方之事。
年四十一,建安十一年卒。
なので、曹操の誘いには結果としてのらなかったし、孫権の下で働いていたのは事実だけど。
ウィキペディアにある「孫権への忠義を選んで」というのは正史に書いてない誰かの個人的な解釈だと思ったり。
正史準拠に書くんだったら拒絶もいらないと思うし。
とはいえ、そういう解釈が一般的に親しまれているのかなという印象ではあったり。
▼正史太史慈の真意?
てことで、自分なりの正史太史慈像を考えてみると。
群雄になりたかったんだろうなとか。
曹操の誘いも拒絶したわけじゃなくて(まして孫権への忠義を選んだとかではなくて)、保留していただけかもしれないとか、機会があれば独立したかったとか。
後漢な時代で「當帶七尺之劍,以升天子之階」な志って、曹操がやったことみたいなことをしたいという志なんじゃないかなとか。
とはいえこの人、一族とか友人、仲間とか、独立するならある程度必要だと思うけど、いたのかなとか。
まあ呂布とかもいるから、なくても群雄には才覚次第でなれるかもしれないけど。
孫策とばったり会った時、一緒にいた数からして、太史慈、能力あるけど人望ないのかっていう疑惑もわかなくもなかったり。
(太史慈伝)
時獨與一騎卒遇策。
策從騎十三,皆韓當、宋謙、黃蓋輩也。
劉繇に信用されなかったのも、劉繇は孫策とくらべて小物で見る目がないって扱いにされたりしてるけれど、実際信用したくならないような人物だったりという可能性もなくはないのかもとは思ったり。
孫策のこの太史慈評。
太史慈は帰ってこないだろうといわれたその返事だけど。
策曰:
「子義捨我,當復與誰?」「子義(太史慈)どのは、私を棄てて、ほかに誰と力をあわせられるというのか」
孫策の器が大きくて太史慈は信義を重んじることを理解しているということじゃなくて単に、太史慈は他に行く所なんかないだろ、って見透かしている(ついでに見下している)だけという可能性もなくもないかなとも思ったり。
とりあえずおわり。
(旧ブログより移転 2015.10.25)