諸葛玄は諸葛瑾、諸葛亮の叔父。
つまり諸葛瑾、諸葛亮兄弟(以下、個人的趣味からまとめるときには諸葛亮兄弟とかにする)の父、諸葛珪の弟。
諸葛亮の幼少時代の経歴を自分なりに設定したいので、この辺もぼちぼち更に考えていきたいところ。
前回の記事「諸葛亮理解のため諸葛玄の経歴を考える」の続き。
諸葛亮と諸葛瑾の分離の謎
諸葛瑾と諸葛亮の兄弟は、呉と蜀でそれぞれ成功したので、この兄弟が別々の国に生きるようになったことは有名だけど。
まずは現時点で謎な部分。
諸葛瑾系(継母含む)が揚州(江東)へ避難、諸葛玄系(諸葛亮、諸葛均、多分その姉二人)が荊州へ避難――という避難にあたって別行動をとったことについて。
未来視点で考えるとリスク分散と考えやすいかもしれないけれど、一家全員が避難せざるを得ない状況にあったとして、リソース不足にもなるような別行動をとるかなあという疑問。
あと、そこまでマクロな視点でこういうときに判断するかなあという疑問。
実は不仲だったとかは、それほどなさそうとか特に面白みを個人的に感じないのでとりあえず却下。
諸葛瑾系と諸葛玄系で別行動になったのは、仲がいいとかそういう問題ではなくて、そもそも避難あるいは移動をする時点で別の場所にいたと考えるのが一番しっくりくるかも。
諸葛瑾の移動
まず諸葛瑾は、徐州の曹操の虐殺の時に徐州にいたんじゃないかな。
諸葛瑾伝の関係ありそうな部分を引用してみる。
(諸葛瑾伝)
諸葛瑾字子瑜,琅邪陽都人也。
呉書曰:其先葛氏,本琅邪諸縣人,後徙陽都。陽都先有姓葛者,時人謂之諸葛,因以為氏。
瑾少游京師,治毛詩、尚書、左氏春秋。遭母憂,居喪至孝,事繼母恭謹,甚得人子之道。……
漢末避乱江東。
值孫策卒,孫権姊婿曲阿弘咨見而異之,薦之於権,與魯肅等並見賓待。後為権長史,轉中司馬。建安二十年,権遣瑾使蜀通好劉備,與其弟亮俱公会相見,退無私面。諸葛瑾は字を子瑜といい、琅邪郡陽都の人である。
漢の末年に、戦乱を避けて江東に移住した。
それはちょうど孫策が死去し〔孫権が立ったばかりのころのことで〕、孫権の姉の婿にあたる曲阿の弘咨が彼に会ってその非凡さを高く評価し、孫権に推挙した。
魯粛たちと並んで賓客として遇され、のちに孫権の長史となり、中司馬に転じた。
建安二十年(215)、孫権は諸葛瑾を使者として蜀におくり、劉備と好を通じさせた。
弟の諸葛亮と公の席で顔を合わすことはあったが、公の場を退いたあと、私的に面会することはなかった。(注)
『呉書』にいう。その先祖の葛氏は、もともとは琅琊の諸県の人であったが、のちに陽郡に家を移した。陽郡には以前から葛という姓の者が住んでいたので、人々は諸葛と呼んで、それをそのまま氏とした。
諸葛瑾は若い時代に京師に出て、『毛詩』『尚書』『左氏春秋』などの学問を修めた。母親が死去すると、心を尽くして喪に服し、継母にも慎み深く仕えて、人の子たる者の道をよく尽くした。……
瑾與殷模等遭本州傾覆,生類殄盡。棄墳墓,攜老弱,披草萊,歸聖化,在流隸之中,蒙生成之福,不能躬相督厲。陳答萬一,至令模孤負恩惠,自陷罪戾。臣謝過不暇,誠不敢有言。
(諸葛瑾の言葉)
「私めは、殷模らともども、郷里が潰滅し、生き物が根絶やしになるという事態に遭遇して、墳墓の地を棄て、老弱を引きつれ、荒野を分けて、ご教化を慕ってやってまいりました。流浪の身の上にありましたものを、ご恩愛によってちゃんとした生活ができるようにしていただいたのでございます。……」
そして、徐州からの避難先は揚州が主流だったような記述が張昭伝にあったり。
(張昭伝)
漢末大乱、徐方士民多避難揚土、昭皆南渡江。漢王朝の末年に天下が大いに乱れると、徐の地方の人士や民衆たちには、難を避けて揚州の地に移住する者が多く、張昭もまた江南へ渡った。
なので、諸葛瑾が避難するときには徐州から避難したこと、そしてその避難先は、徐州からの避難先としてはメジャーな揚州方面だったということは言えるんじゃないかな。
つまり、諸葛瑾の「漢末避乱江東」は、張昭等とそう変わらない標準的な行動だったんじゃないかなとか。
諸葛瑾は若い頃洛陽に遊学もしていたけれど、その後徐州に戻っていた。
戻った理由は、父諸葛珪が死んだからかもしれない。嫡男(名前が出ている兄弟的にはそのはず?)だしってことで?
それで、父の後妻である継母に尽くしたとかで評判がたったということかも。
諸葛瑾が孫権に語った「郷里が潰滅し、生き物が根絶やしになるという事態に遭遇して(本州傾覆,生類殄盡)」がいつのころかははっきりしないけれど。
孫権に言った言葉ということで多少誇張はあるかもしれない。
ただ、逆に実際に語った言葉なら、叙述トリックみたいなことはあんまりないんじゃないかなとも。
(陶謙伝)
初平四年(193)、太祖征謙、攻拔十余城、至彭城大戦。
謙兵敗走、死者万数、泗水為之不流。
謙退守郯。太祖以糧少引軍還。
興平元年(194)、復東征、略定琅邪、東海諸県。
謙恐、欲走帰丹楊。会張邈叛迎呂布、太祖還撃布。是歳、謙病死。
徐州で一番有名な災難はこれだと思うし。
最大ということは確率も最大のはずってことで、まあ素直に194年には琅邪まで曹操が来ているし、その辺なのかなあとか。
諸葛玄と諸葛亮たちの移動――荊州?
諸葛瑾の行動が標準的だったと考えれば、諸葛玄の行動は特徴的かもしれないとは思ったり。
徐州から荊州への避難というのは、あまりない移動ルートな印象。
そして、避難する場合、基本的には最適に思われているルートをとるんじゃないかな。切羽詰まっているからこそ避難するんだろうし。
徐州から曹操を避けたいと思って避難するとしたら、曹操の本拠地を基本的に横切るような移動経路って、心理的にあまりとりたくないんじゃないかなとか。
荊州は人気の避難先の一つではあるけれど。
ただそれでも徐州から避難してくるのも違和感がないというのはまた別かもしれないと思ったり。
荊州に避難してきている系で有名なのは、諸葛亮の友達の徐庶、石韜(豫州の潁川)、孟建(汝南)、後は司馬氏の司馬芝や、王粲とかが思い浮かぶ感じ。
(諸葛亮伝注)
魏略曰:亮在荊州,以建安初與潁川石廣元、徐元直、汝南孟公威等俱游學,三人務於精熟,而亮獨觀其大略。
(司馬芝伝)
司馬芝字子華、河内温人也。少為書生、避乱荊州、
(王粲伝)
王粲字仲宣、山陽高平人也。……乃之荊州依劉表
王粲は兗州、司馬芝は司隷。
てことで。
諸葛亮の荊州への移動については、諸葛亮伝冒頭にこう書いてある。
(諸葛亮伝)
諸葛亮字孔明,琅邪陽都人也。漢司隸校尉諸葛豐後也。父圭,字君貢,漢末為太山郡丞。
亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄将亮及亮弟均之官。會漢朝更選朱皓代玄。玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。
つまり、陳寿は諸葛亮伝の後半では諸葛亮が荊州に避難したように(これ自体はよくある事例でもある)書いてあるけれど。
(諸葛亮伝)
臣壽等言:臣前在著作郎,侍中領中書監濟北侯臣荀勖、中書令關内侯臣和嶠奏:使臣定故蜀丞相諸葛亮故事。亮毗佐危国,負阻不賓,然猶存録其言,恥善有遺,誠是大晉光明至德,澤被無疆,自古以來,未有之倫也。輒刪除複重,隨類相從,凡為二十四篇。篇名如右。
亮少有逸衆之才,英霸之器,身長八尺,容貌甚偉,時人異焉。造漢末乱,隨叔父玄避難荊州,躬耕於野,不求聞達。時左将軍劉備以亮有殊量,乃三顧亮於草廬之中﹔
ここは諸葛亮の経歴をそのまま述べているというよりは諸葛亮を称える文脈で語っているので、こっちの方が歪曲とはいわないまでもより美化されているということは少なくとも確かだろうと思う。逆だったら意味不明って意味で確か。
だからなんとなく今までぼんやりと、諸葛亮は戦乱を避けて荊州に避難して来たんだなあと思っていたけれど、その状態でよく諸葛亮伝を頭から読むとなんか違和感。
というかこの辺の先入観は、演義とかの影響があるのかも。
で、今回色々考えていて思ったこと。
諸葛亮は、というかこの辺の時期の保護者である諸葛玄は、実際はそもそも荊州に避難(避難荊州)はしていないのでは……ということだったり。
そして、避難ではないかもしれない理由で諸葛玄は諸葛亮、諸葛均、そしてその姉二人を連れて徐州を離れたんじゃないかなとか。
目安として193年(曹操の徐州虐殺1回目)に諸葛亮は13歳。
徐州に長兄の諸葛瑾がいるのに(諸葛珪の後妻も)諸葛玄が若い姪や幼い諸葛亮たちを自分の移動に連れて行ったのは、それだけ自分は余力があると考えていたからではないかなあとか。
前の記事「諸葛亮理解のため諸葛玄の経歴を考える」でも書いたように、袁術が任命する太守はそれなりに袁術によって厳選されている様子。
諸葛玄が袁術によって豫章太守に選ばれたのは相当袁術に信頼されていたんじゃないかなとは思うし、ということは結構前から袁術に身を寄せていたのかもしれないとも思ったり。
諸葛玄は、荊州に(豫章太守として失敗する前に)来ていたかもしれない。
それは、袁術かあるいは劉表に招かれたのかもしれない。
どっちも荊州にいた時期に。
そうなると、190年から193年あたりになるはず。
逆にどっちも荊州にいないそれ以前に荊州に来ていたとなると、自由度高すぎる想定になるのでとりあえずそれは考えなくていいかなとか。
この辺で役に立ちそうだと考えているのが、諸葛亮の姉二人だったり。
「諸葛亮と姉二人、諸葛玄、荊州関連メモ」で書いたけど、諸葛亮の姉二人は荊州の有力者と結婚しているし、姉妹でなく姉なので諸葛亮より年上なのは確かというのもわかりやすかったり。
で、諸葛亮の姉二人が諸葛玄に従って荊州に来てそこで結婚した、と考えるのが、なぜ彼女たちが荊州にいるのかの理由としてはわかりやすいような。
諸葛亮の姉二人の経歴を、諸葛玄、諸葛亮の経歴考察におりこむと、多分徐州から一度諸葛玄は荊州に移住はしたんじゃないかなとは思ったり。
諸葛玄と諸葛亮たちの移動――揚州?
で、諸葛玄は袁術が寿春に移動するはめになると(それはまあおそらく想定外だったと思えるけれど)、荊州に姪二人は残して(多分もう嫁いでいたとか)諸葛亮と諸葛均を連れて袁術に従ったんじゃないかなとか。
「從父玄為袁術所署豫章太守,玄将亮及亮弟均之官。」とある通りといった感じで。
袁術が揚州に移動したのは193年のはず。
諸葛亮15歳。
袁術の書き方の悪さからすると、陳寿が諸葛亮伝でこの辺をわざわざ書かなくてもいいと判断するとかはあるかもしれないし。
ただこの時期、諸葛亮が袁術の勢力にいたと考えると、創作的に孫策とか陸遜とかとも(陸遜は183年生まれだから193年なら11歳だけど)接点考えられそうだし、そう考えるとなぜ陸遜と諸葛亮は手紙のやりとりしていたのかということの解釈の可能性も広がるんじゃないかとは思ったり。
まあ幼少時代は創作は自由度高いから解釈的には難しいけど。
で、諸葛玄は袁術配下として豫章太守になってその後、結局は失敗して殺されるか荊州に逃げ込んだあと死ぬという末路をたどるという感じかな。
諸葛亮は経歴的には、諸葛玄が死ぬまでは諸葛玄についていっているだけで。
諸葛亮が荊州に落ち着くに至るまでの経緯と経歴?
てことで、それまで頼っていた叔父諸葛玄が献帝春秋の記述どおり西城で殺されたとしたら、諸葛亮と諸葛均は自分たちで荊州まで移動していることになるかな。
195年に諸葛亮15歳。無理ってほどでもない年齢かな。
豫章から荊州(姉とかのいそうな襄陽周辺)は結構遠いし、とりあえず長江渡る必要あるし。
そうしたらすごく苦労してそうだし、諸葛玄が生きていて一緒に移動したとしてもそれはそれで苦労はしているような。
劉備に仕える前の諸葛亮のやる気のなさそうな態度は、とりあえず諸葛玄関連のことが原因のひとつにはなっているのかも。
あと諸葛亮はだいたいいつごろから荊州に住んでいたかの時期設定についても。
一度、袁術が南陽にいた時期に荊州に来ている設定。
その上で一度豫章まで移動した後、だいたいいつくらいに荊州に戻ってきている(逃げ込んでいる)のかなあとか。
献帝春秋にある諸葛玄が殺された年を採用するなら、197年に諸葛玄は死んでいる。
早くて195年、少なくとも197年には諸葛亮は荊州に来ているんじゃないかな。
遅くても197年に荊州に来ていると考えると、諸葛亮はこれから208年まで荊州在住なので結構長く、11年いることに。
その前の滞在も加えると、さらに増える。
徐州時代の諸葛亮?
多分、幼少の頃は徐州にいたんじゃないかなとは思うけれど。
早めにみつもって諸葛玄が徐州を去るのが190年くらいだとすると、諸葛亮はこの時10歳。
それ以前に父諸葛珪は死んでいないと諸葛玄についていく理由はなくなるから、10歳前には父親をなくしているし、また父親の後妻がいること、後妻は諸葛亮たちと別行動ってことでおそらく生母ではないんじゃないかなってことから、諸葛亮の生母は父諸葛珪が死ぬ以前に亡くなっているんじゃないかなーとか。
4歳のときに黄巾の乱(184)。三国志の時代の幕開けくらいから幼少時代を過ごしている感じなのかなっていう。
演義の東南の風の解釈
あとついでに演義系の話。
東南の風を吹かせたり、予知したりする諸葛亮。
豫章から荊州に戻るまで、長く見積もれば数年はある。
このあいだ長江のあたりでうろうろしていたおかげで長江の気候に詳しくなったという風に考えれば、何か使えるかもとは思ったり。
ていうか隆中にずっとすんでいたとするなら、いくら時々帰ってこないくらい遠出をしているという設定にしても赤壁付近の気象に詳しくなるのは結構無理あるような気もするし。
創作ならこの時期、長江周辺(あと荊南)をうろうろしててもよさそうだし。
桃源郷とかもいいかもとか。
武陵の桃源郷は諸葛亮が作った、みたいな。
まとめ
だいぶ、なんとなく流れはできてきたかなーとか。
とりあえずおわり。