幼少の諸葛亮について考えたいってことで諸葛玄についてまた色々考えたり調べたりしているけれど。
ややこしい。
諸葛玄については「諸葛亮と姉二人、諸葛玄、荊州関連メモ」でそれなりに書いたので、その続き的な感じ。
てことで、諸葛玄が太守になったころの豫章がどういう感じだったのか考えてみることに。
諸葛玄?
前記事にいちいち戻るのめんどくさいので、諸葛玄についてもう一度確認。
諸葛玄は三国志にこれだけしか出ていないのである意味コンパクト。
おかげでややこしいんだけど。
⑤102(諸葛亮伝)
⑤103(諸葛亮伝注、献帝春秋)
⑤145(諸葛亮伝、陳寿)
⑥261(劉ヨウ伝注、献帝春秋)⑤102(諸葛亮伝)
亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官。
會漢朝更選朱皓代玄。
玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。
玄卒,亮躬畊隴畝,好為《梁父吟》従父の諸葛玄は袁術の任命によって豫章太守となり、諸葛亮と弟の諸葛均をつれて赴任した。ちょうどそのとき漢朝では改めて朱皓を選出し諸葛玄と代わらせた。諸葛玄はかねてから荊州の劉表と旧知の間柄であったので、彼のもとに身を寄せた。
諸葛玄がなくなると、諸葛亮はみずから農耕にたずさわり、好んで『梁父吟』を歌ってくらした。⑤103(諸葛亮伝注、献帝春秋)
獻帝春秋曰:
初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌。
漢朝聞周術死,遣朱皓代玄。
皓從揚州刺史劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。
建安二(197)年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。
此書所云,與本傳不同。『献帝春秋』にいう。はじめ、豫章太守の周術が病没したので、劉表は諸葛玄を昇進させて豫章太守とし、南昌におらせた。漢朝では周術が死亡したことを聞くと、朱皓を派遣して諸葛玄と代わらせた。
朱皓は揚州太守の劉繇から軍勢を借りて諸葛玄を攻撃したので、諸葛玄は撤退して西城に駐屯し、朱皓は南昌に入った。
建安二年(197)正月、西城の民衆が反乱して、諸葛玄を殺し、その首を劉繇に送り届けた。
この書(『献帝春秋』)の述べている事柄は、本伝とくいちがっている。⑤145(諸葛亮伝、陳寿)
亮少有逸眾之才,英霸之器,身長八尺,容貌甚偉,時人異焉。
造漢末亂,隨叔父玄避難荊州,躬耕於野,不求聞達。⑥261(劉繇伝注、献帝春秋)
獻帝春秋曰:
是歲,繇屯彭澤,又使融助皓討劉表所用太守諸葛玄。
許子將謂繇曰:「笮融出軍,不顧(命)名義者也。硃文明善推誠以信人,宜使密防之。」
融到,果詐殺皓,代領郡事。
こんな感じ。
袁術に派遣されたのか劉表に派遣されたのか判断にまようし、豫章で殺されたのか荊州に戻ったのかも混乱する感じ。
諸葛玄の経歴は、解釈こみでないと作れないのが面倒ではあったり。
袁術と諸葛玄?
諸葛玄が袁術が派遣した太守とする場合(陳寿が書いているとおり)。
袁術が任じる太守の雰囲気が掴めそうなのが、孫策伝のこの辺とか?
(孫策伝)
術初許策為九江太守,已而更用丹楊陳紀。
後術欲攻徐州,從廬江太守陸康求米三萬斛。
康不與,術大怒。策昔曾詣康,康不見,使主簿接之。策常銜恨。
術遣策攻康,謂曰:「前錯用陳紀,每恨本意不遂。今若得康,廬江真卿有也。」策攻康,拔之。
術復用其故吏劉勳為太守,策益失望。先是,劉繇為揚州刺史,州舊治壽春。
てことで、なんとなく「從父玄為袁術所署豫章太守」ってことはないんじゃないかなとか。
陸康没年は195年くらいだった気がする。
諸葛玄が豫章太守になった年、あと死んだ年もわりとわかりづらい。
孫策が2度も太守の約束を袁術に反故にされて失望していた時期以降という雰囲気だったんじゃないかなあ。
てことで、諸葛玄はそれなりに袁術に信頼されていたんじゃないかなということに。
袁術が皇帝になったのは197年。
資治通鑑と諸葛玄
この時期はいろいろややこしいので、混乱したら資治通鑑……。
この辺のことは195年に書いてある。
(195年)
……
初,丹陽朱治嘗為孫堅校尉,見袁術政德不立,勸孫策歸取江東。時吳景攻樊能、張英等,歲餘不克,策說術曰:「家有舊恩在東,願助舅討橫江。橫江拔,因投本土召募,可得三萬兵,以佐明使君定天下。」術知其恨,而以劉繇據曲阿,王朗在會稽,謂策未必能定,乃許之。表策為折衝校尉,將兵千餘人、騎數十匹。行收兵,比至歷陽,眾五六千。時周瑜從父尚為丹陽守,瑜將兵迎之,仍助以資糧。策大喜,曰:「吾得卿,諧也!」進攻橫江、當利,皆拔之,樊能、張英敗走。策渡江轉鬥,所向皆破,莫敢當其鋒者。百姓聞孫郎至,皆失魂魄。長吏委城郭,竄伏山草。及策至,軍士奉令,不敢虜略,雞犬菜茹,一無所犯,民乃大悅,競以牛酒勞軍。策為人,美姿顏,能笑語,〔性〕闊達聽受[19],善於用人,是以士民見者莫不盡心,樂為致死。
策攻劉繇牛渚營,盡得邸閣糧穀、戰具。時彭城相薛禮、下邳相丹陽笮融依繇為盟主,禮據秣陵城,融屯縣南,策皆擊破之。又破繇別將於梅陵,攻湖孰、江乘,皆下之,進擊繇於曲阿。繇同郡太史慈時自東萊來省繇,會策至,或勸繇可以慈為大將。繇曰:「我若用子義,許子將不當笑我邪!」但使慈偵視輕重。時獨與一騎卒遇策於神亭,策從騎十三,皆堅舊將遼西韓當、零陵黃蓋輩也。慈便前鬥,正與策對,策刺慈馬,而攬得慈項上手戟,慈亦得策兜鍪。會兩家兵騎並各來赴,於是解散。繇與策戰,兵敗,走丹徒。策入曲阿,勞賜將士,發恩布令,告諭諸縣:「其劉繇、笮融等故鄉部曲來降首者,一無所問;樂從軍者,一身行,復除門戶;不樂者不強。」旬日之間,四面雲集,得見兵二萬餘人,馬千餘匹,威震江東。
丙辰,袁術表策行殄寇將軍。策將呂範言於策曰:「今將軍事業日大,士眾日盛,而綱紀猶有不整者,範願暫領都督,佐將軍部分之。」策曰:「子衡既士大夫,加手下已有大眾,立功於外,豈宜復屈小職,知軍中細事乎!」範曰:「不然。今捨本土而託將軍者,非為妻子也,欲濟世務也。譬猶同舟涉海,一事不牢,即俱受其敗。此亦範計,非但將軍也。」策笑,無以答。範出,便釋傕,著褲褶,執鞭詣閣下啟事,自稱領都督,策乃授傳,委以眾事。由是軍中肅睦,威禁大行。
策以張紘為正議校尉,彭城張昭為長史,常令一人居守,一人從征討,及廣陵秦松、陳端等亦參與謀謨。策待昭以師友之禮,文武之事,一以委昭。昭每得北方士大夫書疏,專歸美於昭,策聞之,歡笑曰:「昔管子相齊,一則仲父,二則仲父,而桓公為霸者宗。今子布賢,我能用之,其功名獨不在我乎!」
袁術以從弟胤為丹陽太守。周尚、周瑜皆還壽春。
劉繇自丹徒將奔會稽,許劭曰:「會稽富實,策之所貪,且窮在海隅,不可往也。不如豫章,北達豫壤,西接荊州;若收合吏民,遣使貢獻,與曹兗州相聞,雖有袁公路隔在其間,其人豺狼,不能久也。足下受王命,孟德、景升必相救濟。」繇從之。
13 初,陶謙以笮融為下邳相,使督廣陵、下邳、彭城糧運。融遂斷三郡委輸以自入,大起浮屠祠,課人讀佛經,招致旁郡好佛者至五千餘戶。每浴佛,輒多設飲食,布席於路,經數十里,費以巨億計。及曹操擊破陶謙,徐土不安,融乃將男女萬口走廣陵,廣陵太守趙昱待以賓禮。先是彭城相薛禮為陶謙所逼,屯秣陵,融利廣陵資貨,遂乘酒酣殺昱,放兵大掠,因過江依禮,既而復殺之。劉繇使豫章太守朱皓攻袁術所用太守諸葛玄,玄退保西城。及繇溯江西上,駐於彭澤,使融助皓攻玄。許劭謂繇曰:「笮融出軍,不顧名義者也。朱文明喜推誠以信人,〔宜〕(更)使密防之[20]。」融到,果詐殺皓,代領郡事。繇進討融,融敗走,入山,為民所殺。詔以前太傅掾華歆為豫章太守。
丹陽都尉朱治逐吳郡太守許貢而據其郡,貢南依山賊嚴白虎。
資治通鑑には諸葛玄がどうなったかは書かれていないけれど。
ただ、劉繇が朱皓を助けるために笮融に諸葛玄を討たせようとした(結果笮融は裏切って朱皓を殺した)のは195年なんじゃないかなとか。
周瑜と諸葛玄?
笮融は周瑜伝にも出てくる。
(周瑜伝)
瑜従父尚為丹楊太守、瑜往省之。会策将東渡、到歴陽、馳書報瑜、瑜将兵迎策。策大喜曰、”吾得卿。諧也。”遂従攻横江、当利、皆拔之。
乃渡江撃秣陵、破笮融、薛礼。転下湖孰、江乗、進入曲阿。
劉繇奔走、而策之衆已数万矣。周瑜の叔父の周尚が丹陽太守に任ぜられると、周瑜は、そのもとにご機嫌うかがいに出かけた。
ちょうどそのころ、孫策は、長江を東に渡ろうとして、歴陽まで軍を進めて来ており、いそぎ使者に手紙をもたせてそのことを周瑜に知らせた。
周瑜は兵をひきつれて孫策を出迎えた。
孫策は大いに喜んでいった、「あなたを見つけることができて、思いがかなった。」
周瑜は、そのまま孫策の配下に入って横江と当利とを攻撃し双方ともその城を陥落させた。
この両城が陥ちると、さらに軍を進め長江を渡って秣陵を攻撃し、笮融と薛礼との勢力を打ち破った。
方向を転じて湖孰や江乗まで下り、さらに曲阿まで侵入すると、劉繇は逃亡し、一方、孫策の配下はこのときすでに数万にもなっていた。
あと、ここもまた袁術と袁術の任命する太守のサンプルになりそうではあったり。
孫策が江東に入ったのは、195年な気がするけれど、武帝紀にこうあるのが謎。
(初平)四年(193)春、軍鄄城。荊州牧劉表断術糧道、術引軍入陳留、屯封丘、黒山余賊及於夫羅等佐之。術使将劉詳屯匡亭。太祖撃詳、術救之、与戦、大破之。術退保封丘、遂囲之、未合、術走襄邑、追到太寿、決渠水灌城。走寧陵、又追之、走九江。
……
是歳、孫策受袁術使渡江、数年間遂有江東。
ただこれだと袁術が南陽から揚州に来てすぐ孫策が江東に行っていることになるから、ここがおかしいでいいのかな。
今、集解調べる気力ないけど……。
というわけで、直接周瑜と諸葛玄が関係あるわけではないけれど。
ただ、周瑜の叔父周尚が袁術によって(多分?)太守に任命されたのが195年だとして、ほぼおなじ頃に諸葛亮の叔父の諸葛玄も袁術によって太守に任命されていた――と考えると、周瑜と諸葛亮の共通要素みたいなものを見つけ出すことができるかもしれないとか。
諸葛亮創作のためにも何か使えるかもしれないし。
195年は、諸葛亮は15歳。
あと孫策、周瑜は21歳。
で。
この一連の出来事。
195年から196年の出来事のはず?
孫策伝がこんななので。
(孫策伝)
繇遣樊能、於麋東屯橫江津,張英屯當利口,以距術。術自用故吏琅邪惠衢為揚州刺史,更以景為督軍中郎将,與賁共将兵擊英等,連年不克。策乃說術,乞助景等平定江東。
術表策為折沖校尉,行殄寇将軍,兵財千餘,騎數十匹,賓客願從者數百人。比至歷陽,眾五六千。策母先自曲阿徙於歷陽,策又徙母阜陵,渡江轉鬥,所向皆破。莫敢當其鋒,而軍令整肅,百姓懷之。
……
盡更置長吏,策自領會稽太守,復以呉景為丹楊太守,以孫賁為豫章太守,分豫章為廬陵郡,以賁弟輔為廬陵太守,丹揚朱治為呉郡太守。
彭城張昭、廣陵張紘、秦松、陳端等,為謀主。時袁術僭號(197),策以書責而絕之。
袁術が皇帝を自称したのは197年の1月か2月。
この辺はもう資治通鑑史観で大体はいいや……。
袁術稱帝於壽春,自稱仲家,以九江太守為淮南尹,置公卿百官,郊祀天地。沛相陳珪,球弟子也,少與術游。術以書召珪,又劫質其子,期必致珪。珪答書曰:「曹將軍興復典刑,將撥平凶慝,以為足下當戮力同心。匡翼漢室。而陰謀不軌,以身試禍,欲吾營私阿附,有死不能也。」術欲以故兗州刺史金尚為太尉,尚不許而逃去,術殺之。
だから、豫章諸葛玄関連のごたごたは、197年は無理。
笮融と劉繇の死はこんな。
(劉繇伝)
繇進討融,為融所破,更復招合屬縣,攻破融,融敗走人山。為民所殺。
笮融が劉繇の先がけとなって豫章郡に入ると、太守の朱皓を殺して、郡の役所を占拠し〔自立の勢いを示した〕。劉繇は、軍を進めて笮融を討とうとしたが、逆に笮融に打ち破られ、もう一度、配下の県から兵士を集めて、笮融を打ち破った。笮融は敗れて山中に逃げこんだが、付近の住民のために殺された。……
繇尋病卒,時年四十二。
笮融の最後がいまいち不明。
劉繇に破れたり、周瑜にも破れたり、色々最後は大変だったのかな。
で最終的に一般人に殺されたとか。
この辺の一般人、笮融殺したり、諸葛玄殺したり(献帝春秋)よく殺すなあというかんじ。
孫策暗殺は一般人とは違うと思うけれど(食客だし)。
笮融、劉繇の没年はWikipediaが197年ってなっている。
理由はよくわからないからとりあえず資治通鑑説採用ってことで(説なのかはともかく。まとめて195にいれてあるだけかもしれないけどまあいい)。
笮融(ちくま索引)
②85(陶謙伝)
⑥
37,38,41,(孫策伝)
260-262,(劉繇伝)
288,292
⑦12,50,173
周術と周瑜が関係ない根拠はあるのか
ついでに。
獻帝春秋曰:
初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌。
漢朝聞周術死,遣朱皓代玄。
皓從揚州刺史劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。
建安二(197)年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。
此書所云,與本傳不同。
このいろいろややこしい献帝春秋の内容。
前の豫章太守は、周術という名前らしい。
この人が周瑜の同族以外だという根拠が特になければ、周瑜の同族として考えてみてもいいんじゃないかなとか思ったり。
周術
⑤102,103(諸葛亮伝)
三国志の記述は諸葛亮伝だけなので探すならそれ以外。
あと、周瑜伝の周瑜の叔父はこんな。
周尚
⑦48,50(周瑜伝)
こっちもここだけ。
創作的に使えるかもしれないってことでメモ。
諸葛玄の経歴?
袁術が任命した諸葛玄の方を今回は考えてみた。
孫策は197年の皇帝自称で袁術を見限った感じになっているし。
混乱の元な気もする献帝春秋のこれ。
建安二(197)年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。
劉繇が197年まで健在という記述だけれど……。
この頃、つまり袁術皇帝自称の頃、劉繇は孫策に敗れているはず。
諸葛玄が殺されたとなっているのは献帝春秋だから(陳寿はそんなことは書いてない)、諸葛玄に殺されてほしい場合献帝春秋のこの辺全部疑うわけにもいかないし……。
皓從揚州刺史劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。
建安二(197)年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。
献帝春秋は、諸葛玄は劉表が任命した豫章太守としている。
いろいろ全部生かす解釈の可能性を探りたいんだけれど、とりあえずこんな感じ?
195年-196年。
袁術が諸葛玄を豫章太守に(諸葛亮、諸葛均も一緒)。
朝廷は別に朱皓を豫章太守に。
劉繇の援助を受けた朱皓が諸葛玄を攻撃。
朱皓、劉繇の部下の笮融に殺さて豫章で自立の勢い。
笮融、劉繇や周瑜に敗れて、その後殺される。
孫策、江東ほぼ平定(豫章も支配下)。
197年。
袁術、皇帝自称。
てことで、この基本からどう自分なりに展開していくかなとか。
諸葛玄は劉表系か袁術系か?
諸葛玄の豫章太守が劉表勢力なのか袁術勢力か2通りある問題について。
これは、はじめ袁術任命→朱皓が来たあと袁術は特に助けているようでもないので旧知の劉表を頼った、でいいかも。
ただ袁術が豫章を放置するのも考えにくいので、そこは孫策がやってくれると思って結果的に放置になってたのかなとか。
この辺、袁術配下の孫策が袁術のために働いているわけでもなかったり、笮融もあんな感じなので、誰の配下とかはそれほど動機とか目的として考慮しないほうがよさそう。
諸葛玄は殺されたのか
諸葛玄が殺されたのかどうかは微妙。
ただ、陳寿が特に触れないという可能性はありそう。
陳寿の諸葛亮への思い入れ的に。
じゃあ殺されたのが、献帝春秋どおり197年で劉繇に首が献上されたのもいいかとなると、それはそれでこの時点で首献上先が劉繇はありえるのかなあというところはあったり。
てことで。
195年(か196年まで)に、諸葛玄は殺されているというのがいいんじゃないかな。
劉表を頼ったという陳寿の本伝の雰囲気も生かすとこんな感じ?
「玄素與荊州牧劉表有舊,往依之」を、劉表を頼って身を寄せよう(寝返ろう)とした(けどその途中で殺された)、とかならそれほど破綻はしないかも。
諸葛玄だけれど、朱皓が来て袁術が頼りにならなかったら旧知の間柄という関係があるなら(なくても)劉表を頼ってもおかしくはないし、劉表としても豫章を手に入れる可能性があるなら協力しようとするだろうし。
じゃあ諸葛玄を殺した主犯は誰なのかっていう。
×朱皓……先に殺されている。
△笮融……豫章太守になるには諸葛玄は邪魔。ただし劉繇や周瑜に破れているので諸葛玄を殺す猶予があったかが微妙。
△劉繇……首の届け先。ただし結果的にはなんのメリットも受けていないはず。
周瑜……笮融は破ったけど、それだけしかないし。
△孫策……江東平定後、袁術皇帝自称前に、豫章太守をおいている「策自領會稽太守,復以呉景為丹楊太守,以孫賁為豫章太守」。諸葛玄が劉表に寝返ったなら孫堅の因縁的に動機としてありえる。
△袁術……諸葛玄が劉表に寝返ったならありえる。
×一般人……よっぽど恨まれていたとしても、別に敗残状態でもない西城に拠点移動しただけの諸葛玄を殺すの大変なのでは?
×劉表……ほぼ意味不明。
張羨とか……豫章の位置的に、劉表の敵対勢力としてとりあえず邪魔したとか? よくわからないから今回保留。
いまのところこんな感じかなあ。
ただ、特にどれという根拠もなさそうな分(そもそも諸葛玄が殺されたこと自体)、どの可能性も色々広がりそう。
ただ豫章は、孫策が向かった会稽とはわりと離れているような。
てことで結果的に、朱皓、笮融、諸葛玄といなくなって空白気味になった豫章を孫策は勢いで手に入れただけということもあり得るかも。
それを考えると、素直に劉繇かなあとも。
メリットを受けていないというのは結果論だし。
諸葛玄と劉表
あと諸葛玄と劉表の関係も。
これは、旧知の間柄という諸葛亮伝の記述はそのまま採用してもいいんじゃないかな。
諸葛亮伝の「造漢末亂,隨叔父玄避難荊州」も生かす解釈するとこんな感じ?
荊州の南陽にはまだ袁術がいたので、襄陽の劉表を頼ろうと思っていたかもしれないけれど色々あって袁術に身を寄せることに。
193年、袁術が曹操に敗れたために諸葛玄も荊州を離れて寿春へ移動。
195年。
袁術によって諸葛玄豫章太守。諸葛亮、諸葛均と一緒に豫章。
別の豫章太守朱皓登場。朱皓笮融に殺される。笮融豫章で自立を試みる。
この辺で諸葛玄は袁術を見限って劉表を頼ろうとする。
笮融、殺される。
劉表に寝返る場合、豫章を投げ捨ててというのはあんまりなさそう。
なので、殺されるかどうかはともかく、諸葛玄はそれなりに豫章でがんばるべきなのでは。
てことで。
諸葛玄が豫章で殺し合うのが一番あっているのは笮融なんじゃないかなとか(趣味度外視すれば劉繇かも)。
諸葛玄が生きて荊州に戻るルートだとしたら、笮融は死んだけれど孫策は無理ー、ってことで逃げこんだとか。
諸葛亮たちと豫章
諸葛亮と諸葛均が豫章にいたのは、「從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官」てことで諸葛亮伝を疑わないかぎり確か。
だから、諸葛玄について色々悩んでいるけれど、最終的にはこの時期の諸葛亮を考えたいということではあったり。
195年の諸葛亮は15歳。
そして、諸葛亮の姉二人は、この時点で結婚して荊州にいるはず。年齢的に。
だから豫章には来ていないはず。
で、これは諸葛玄と劉表あるいは荊州の関係を考える上でも重要だと思ったり。
諸葛玄あるいは諸葛玄たちが戦乱を避けて荊州に避難した時期は、劉表と旧知ってことなら190年以降。
袁術のことを考えると、191-192年くらいが色々よさそう。
黄巾の乱が184年だし、徐州で戦乱というとどうしても曹操の虐殺を思い浮かべるけれど、別にそれ以前も十分避難する気になるような状態だったと思うし。
191年に荊州に来た場合。
諸葛亮は11歳。
姉が二人いたとしてそれほど年が離れていないなら、このころ一緒に避難してきていて南陽に滞在中、荊州の有力者の一族と結婚した、ということも有り得そう。
なので、この後諸葛玄についていったのは諸葛亮と諸葛均だけってことで。
あるいはもともと荊州に繋がりがあったという可能性もあり得ると思うけれど、それは自由度高すぎるからできる限り後回しにしたいかも。
諸葛亮の劉表評価
諸葛亮は荊州に暮らしていたけれど、劉表の評価は低い。
諸葛亮の舅、黄承彦の妻が蔡瑁の姉妹で、劉表の妻蔡氏も姉妹という繋がりもあるにもかかわらず。
それは純粋に劉表の才能の評価をしただけかもしれないけれど。
叔父、諸葛玄が殺された説を採用してさらに劉表を頼ったけれど結局殺されたという設定にするなら、その辺のことで劉表はあてにできないと思っていた……というのもそれはそれでできるかも。
おわりに
今日小説書きたいとか思って下調べのはずがなんか時間かかりすぎた……。
創作的には、諸葛玄(軍師諸葛亮つき)vs笮融(仏教つき)の設定いいなあ(戦いを書くかは別)と前から考えているから、とりあえず今回の整理で一応なんとかなるかなあ。
ともかく疲れたので今回はおわり。