諸葛亮と荊州の繋がりは、結構よくわからないところも多かったり。
最近、諸葛玄に引き取られていた時期から荊州で暮らしていた時期の諸葛亮に興味があったり。
三国志13の在野時代諸葛亮グラ、結構気に入ってるし。
諸葛亮の姉二人?
諸葛亮の姉は、とりあえず二人は確認できた。
一人目は「三国志」にものっている(注の方)ので探しやすい下の姉。
(龐統伝注)
襄陽記曰、
諸葛孔明為臥龍、龐士元為鳳雛、司馬徳操為水鏡、皆龐徳公語也。
徳公、襄陽人。
孔明毎至其家、独拜床下、徳公初不令止。徳操嘗造徳公、值其渡沔、上祀先人墓、徳操徑入其室、呼徳公妻子、使速作黍、「徐元直向雲有客当来就我与龐公譚。」其妻子皆羅列拜於堂下、奔走供設。須臾、徳公還、直入相就、不知何者是客也。
徳操年小徳公十歳、兄事之、呼作龐公、故世人遂謂龐公是徳公名、非也。
徳公子山民、亦有令名、娶諸葛孔明小姊、為魏黄門吏部郎、早卒。
子渙、字世文、晋太康中為牂牁太守。
統、徳公従子也、少未有識者、惟徳公重之、年十八、使往見徳操。
徳操与語、既而嘆曰、「徳公誠知人、此実盛徳也。」
諸葛亮の下の姉は、龐徳公の子の龐山民の子に嫁いでいたり。
もう一人は上の姉。
こっちは三国志に引用されていないから探しづらい。
蒯欽。
初,惠帝卽位,兒童謠曰:“兩火沒地,哀哉秋蘭,歸(刑)[形]街郵,終為人嘆。”又河內溫縣有人如狂,造書曰:“光光文長,以戟為墻,毒藥卽行,(刀)[刃]還自傷。”楊濟問欽,欽垂泣曰:“皇太后(諱)[字]‘季蘭’;‘兩火’,武皇帝諱‘炎’字也。”此言武皇崩而太后失尊,罹大禍辱,終始不以道,不得附山陵,乃歸於非所也。及楊太后之見滅,葬於街郵亭,皆如其言。
欽從祖祺婦,卽諸葛孔明之大姊也。
蒯欽の大叔父蒯祺の妻は、諸葛孔明(諸葛亮)の上の姉である。
この蒯祺という人は三国志にひっそり登場していて、劉封伝でこんなだった。
(劉封伝)
建安二十四年、命達従秭帰北攻房陵、房陵太守蒯祺為達兵所害。
達将進攻上庸、先主陰恐達難独任、乃遣封自漢中乗沔水下統達軍、与達会上庸。
で、「蒯」という姓で思い出すのは、荊州の劉表に仕えて後に曹操に仕えた蒯越(蒯異度)とか。
(劉表伝)
荊州平、太祖与荀彧書曰、「不喜得荊州、喜得蒯異度耳。」
諸葛亮の上の姉が嫁いだ蒯祺は、「襄陽記」にのっているということは多分襄陽の人なんじゃないかという気はするし。
カイ越とかとの関係はともかく、カイ越と蒯良が同族なくらいには、同じ一族なんじゃないかなとか。
諸葛亮と荊州の人
そうなると諸葛亮と親戚関係の荊州の人はこんな感じ?
- 自分の妻の父黄承彦(の妻は蔡氏で、蔡瑁の姉。別の蔡瑁の姉の蔡氏は劉表の妻)繋がりで蔡瑁、劉表と親戚
- 下の姉繋がりで龐徳公(下の姉の夫はその子)、龐統と親戚
- 上の姉繋がりで蒯越、蒯良(上の姉夫蒯祺の多分同族)とも多分親戚?
もともと荊州とは関係ない一族のはずだけど、随分荊州の有力者との繋がりは深い印象。
なぜこんなことになったのかの理由は結構気になったり。
諸葛玄と荊州?
諸葛玄は、かなり矛盾する2系統の説があって、その辺判断保留のまま。
ただ諸葛亮伝にはこう書かれている。
(諸葛亮伝)
諸葛亮字孔明、琅邪陽都人也。漢司隸校尉諸葛豐後也。
父圭、字君貢、漢末為太山郡丞。
亮早孤、従父玄為袁術所署豫章太守、玄将亮及亮弟均之官。会漢朝更選朱皓代玄。
玄素与荊州牧劉表有舊、往依之。玄卒、亮躬畊隴畝、好為『梁父吟』。
身長八尺、毎自比於管仲、楽毅、時人莫之許也。
惟博陵崔州平、潁川徐庶元直与亮友善、謂為信然。諸葛亮は字を孔明といい、瑯邪郡陽都県の人である。漢の司隷校尉諸葛豊の子孫である。父の諸葛珪は字を君貢といって、後漢末に太山郡の丞であった。諸葛亮は幼いとき父をなくした。従父の諸葛玄は袁術の任命によって豫章太守となり、諸葛亮と弟の諸葛均をつれて赴任した。
ちょうどそのとき漢朝では改めて朱皓を選出し諸葛玄と代わらせた。
諸葛玄はかねてから荊州の劉表と旧知の間柄であったので、彼のもとに身を寄せた。
諸葛玄がなくなると、諸葛亮はみずから農耕にたずさわり、好んで『梁父吟』を歌ってくらした。
諸葛玄について、三国志にあるのはこの4箇所だけ。
⑤102(諸葛亮伝)
⑤103(諸葛亮伝注、献帝春秋)
⑤145(諸葛亮伝、陳寿)
⑥261(劉ヨウ伝注、献帝春秋)⑤102(諸葛亮伝)
亮早孤,從父玄為袁術所署豫章太守,玄將亮及亮弟均之官。
會漢朝更選朱皓代玄。
玄素與荊州牧劉表有舊,往依之。
玄卒,亮躬畊隴畝,好為《梁父吟》⑤103(諸葛亮伝注、献帝春秋)
獻帝春秋曰:
初,豫章太守周術病卒,劉表上諸葛玄為豫章太守,治南昌。
漢朝聞周術死,遣朱皓代玄。
皓從揚州刺史劉繇求兵擊玄,玄退屯西城,皓入南昌。
建安二年正月,西城民反,殺玄,送首詣繇。
此書所云,與本傳不同。⑤145(諸葛亮伝、陳寿)
亮少有逸眾之才,英霸之器,身長八尺,容貌甚偉,時人異焉。
造漢末亂,隨叔父玄避難荊州,躬耕於野,不求聞達。⑥261(劉ヨウ伝注、献帝春秋)
獻帝春秋曰:
是歲,繇屯彭澤,又使融助皓討劉表所用太守諸葛玄。
許子將謂繇曰:「笮融出軍,不顧(命)名義者也。硃文明善推誠以信人,宜使密防之。」
融到,果詐殺皓,代領郡事。
で、二つの説を整理するとこんな。
袁術によって豫章太守
朝廷から朱皓が豫章太守に任命されて諸葛玄は荊州に行く
(献帝春秋による諸葛玄)
劉表によって豫章太守
揚州刺史劉繇と新太守朱皓に攻撃されて、住民に殺される
この辺のことは結構、三国志だけじゃわからなかったりするから調べにくいのが困る。
とりあえず、諸葛玄が殺されるか荊州に逃げこむかをした時期は、197年くらいだとは思う(その他の事情から)。
諸葛亮伝に書いてあることは正しいいうことで、「玄素与荊州牧劉表有舊、往依之(諸葛玄はかねてから荊州の劉表と旧知の間柄であったので、彼のもとに身を寄せた)」を正しいと考えれば、諸葛亮の姉二人は、諸葛玄の影響で荊州の名士に嫁いだといえるのかな。
そうなると、諸葛亮の姉二人は、諸葛亮と同じように諸葛玄がひきとってたのかなあ。
諸葛亮の姉二人が荊州に嫁いでいることは、色々何かの鍵になりそうな。
あるいはなるといいなとか……。
ただ、諸葛亮の姉二人も諸葛玄にひきとられていたと考えるなら、諸葛玄は諸葛亮伝にあるとおり劉表を頼って荊州に来てから死んだと考える方が自然になる。
つまり、献帝春秋のように任地で諸葛玄が殺されていたとしたら、諸葛亮や姉たちが荊州に逃げ延びた(?)としても、その後で襄陽記にあるような結婚はできなかったんじゃないかなとか。諸葛亮とその姉妹はこの状況だとひどく落ちぶれていると考えていいだろうし。
諸葛亮の姉二人はもとから荊州にいた可能性?
ただそれとは別に、やっぱり諸葛玄は豫章で殺されていて(この解釈が個人的に創作的に楽しそうだから捨てがたいという事情もある)、諸葛亮の姉二人が荊州の有力な一族と結婚しているのは諸葛玄とは特に関係ないという可能性も否定はできないような?
曹操が徐州で虐殺をしたのは193-194年。
諸葛亮の姉たちも、この辺の戦乱をさけてどこかに避難してもおかしくはない。
この時期、荊州とか揚州その他に避乱する人はたくさんいたみたいだし(てか諸葛瑾はそうだし)。
(諸葛瑾伝)
漢末避亂江東。
それで諸葛玄、諸葛瑾とは別行動で荊州に避難していたということもあり得るかも。
その場合は、もともと諸葛一族は、ある程度荊州の人と交際があったのかなあとか(記録に残るかどうかは結構運だと思うし)。
おわりに
とりあえず資料とか。
諸葛玄の解釈は、幼少(というか十代)の諸葛亮解釈につながるので個人的に重要。
笮融も好きなので、創作的につなげたいというのもあって色々考えてるけど。
それと平話孔明さんつなげたいという感じ。
仏教VS17歳諸葛孔明(197年時)とか、自分の趣味的には楽しそう。
まあ自分で書いたらどうなるかはともかく……。
とりあえずせめて1ヶ月に1記事くらいは、三国志ブログ記事も書きたいとは思ったり。
小説も1月1個以上ペースで。
おわり。