2016.09.04
3237文字 / 読了時間:4分程度
三国志

施績の謎

施績(朱績)については、前からこの辺がひっかかって気になってるけれど。

(朱績伝)

孫綝秉政(256-258)、大臣疑貳、績恐呉必擾乱、而中国乗釁、乃密書結蜀、使為並兼之慮。蜀遣右将軍閻宇将兵五千、增白帝守、以須績之後命。

孫綝が政治を牛耳るようになると、重臣たちのうちに動揺がおこった。朱績は、呉の国は必ず混乱し、中原の勢力がその乱れに乗じるであろうと心配をし、ひそかに書簡を送って蜀と連絡を取り、呉が併呑されてしまわぬよう蜀が牽制をしてくれるように依頼した。蜀は、右将軍の閻宇を遣り、兵士五千を指揮して白帝の守備を増強し、朱績からの指示を待たせた。
……

あと、この時点ではすでに施績に改名済みらしい(「績以五鳳中(254-256)表還為施氏」)し、魏では施績になってるしなので基本施績で。

あと、朱績伝(施績伝)全部。

(朱績伝)

績字公緒、以父任為郎、後拜建忠都尉。叔父才卒、績領其兵、隨太常潘浚討五溪、以膽力称。遷偏将軍営下督、領盜賊事、持法不傾。魯王覇注意交績、嘗至其廨、就之坐、欲与結好、績下地住立、辞而不当。然卒。績襲業、拜平魏将軍、楽郷督。
  明年、魏徵南将軍王昶率衆攻江陵城、不克而退。績与奮威将軍諸葛融書曰、”昶遠来疲睏、馬無所食、力屈而走、此天助也。今追之力少、可引兵相繼、吾欲破之於前、足下乗之於後、豈一人之功哉、宜同断金之義。”融答許績。績便引兵及昶於紀南、紀南去城三十里、績先戦勝而融不進、績後失利。権深嘉績、盛責怒融、融兄大将軍恪貴重、故融得不廃。初績与恪、融不平、及此事變、為隙益甚。建興元年、遷鎮東将軍。
 二年(253)春、恪向新城、要績並力、而留置半州、使融兼其任。冬、恪、融被害、績復還楽郷、仮節。
太平二年(257)、拜驃騎将軍。
孫綝秉政(256-258)、大臣疑貳、績恐呉必擾乱、而中国乗釁、乃密書結蜀、使為並兼之慮。蜀遣右将軍閻宇将兵五千、增白帝守、以須績之後命。
永安初(258-264)、遷上大将軍、都護督、自巴丘上迄西陵、元興元年(264)、就拜左大司馬。
初、然為治行喪竟、乞復本姓、権不許、績以五鳳中(254-256)表還為施氏、建衡二年(270)卒。

諸葛誕の乱と施績

で、この施績の「乃密書結蜀」は、諸葛誕の乱(257-258)の時期かな。

この辺の施績の行動については、本人の伝の方になくて、王昶伝の方にあるとかいう迷惑な書き方。

(王昶伝)

諸葛誕反(257)、昶據夾石以逼江陵、持施績、全熙使不得東。

(施績伝)

太平二年(257)、拜驃騎将軍。
孫綝秉政(256-258)、大臣疑貳、績恐呉必擾乱、而中国乗釁、乃密書結蜀、使為並兼之慮。蜀遣右将軍閻宇将兵五千、增白帝守、以須績之後命。

わかりづらいけれど、「孫綝秉政、大臣疑貳、績恐呉必擾乱」は、「太平二年(257)」の次にあるから、流れ的にその年以降のことなのかも。

てことで、この二つが、諸葛誕の乱の時期の(前年程度ではないという意味で)施績についての記述なのかな。

王昶は新野にいたんだっけ。

(王昶伝)

正始中、転在徐州、封武観亭侯、遷征南将軍、仮節都督荊、豫諸軍事
昶以為国有常衆、戦無常勝;地有常険、守無常勢。
今屯宛、去襄陽三百余里、諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴、乃表徙治新野、習水軍於二州、広農墾殖、倉谷盈積。

王昶伝は、王昶の文章の部分が多くて、その他の情報が埋没しがち。

で、諸葛誕の乱の時の施績の行動をまとめると。

  • 東(寿春のあるほう)に行こうとして夾石で王昶に遮られた
  • 蜀に密書を送り、蜀はそれをうけて白帝に5000の兵を出して、施績の指示を待たせた

てことで。

施績は、諸葛誕の乱の時蜀と協力して魏と戦う――ということをやっていたのかな。

とりあえず施績の「乃密書結蜀」はすごく気になるのでいろいろ可能性を考えてみることに。

施績の諸葛誕の乱の時の行動と諸葛亮の天下三分の計と繋がりの可能性?

王昶伝によると「諸葛誕反(257)、昶據夾石以逼江陵、持施績、全熙使不得東。」てことで、施績はこの時、荊州を北上しようとしていたような。

夾石は江陵の北で、当陽とか麦城の近所らしい(襄陽の南)。

で、このベクトルや地名は、蜀を思い出させるものかも。

関羽の北上とか、あるいは諸葛亮の隆中対とか。
荊州を北に攻め上がる感じ。

一方、この時の蜀の方の事情。

姜維は諸葛誕の乱に呼応して、珍しく関中方面(秦川)に北伐していたり。

(姜維伝)

二十年(257),魏徵東大将軍諸葛誕反於淮南,分關中兵東下。
維欲乘虛向秦川,復率數萬人出駱谷,逕至沈嶺。
時長城積穀甚多而守兵乃少,聞維方到衆皆惶懼。魏大将軍司馬望拒之,鄧艾亦自隴右,皆軍於長城。
維前住芒水,皆倚山為營。
望、艾傍渭堅圍,維數下挑戦,望、艾不應。
景耀元年(258),維聞誕破敗,乃還成都。復拜大将軍。

ていうか、姜維の北伐で関中方面ってこれ1回(それ以外は涼州方面)だから、結構目立つし。

なぜこの時だけ関中だったんだろうという不思議さはあるけれど。

で。

何かと死後も影響力は大きかったと思われる諸葛亮の、計画(天下三分の計、隆中対)はこんなだったり。

(諸葛亮伝)

若跨有荊、益,保其巖阻,西和諸戎,南撫夷越,外結好孫権,内修政理﹔
天下有變,則命一上将将荊州之軍以向宛、洛,将軍身率益州之衆出於秦川,
百姓孰敢不簞食壺漿以迎将軍者乎?誠如是,則霸業可成,漢室可興矣。」

もしも荊州と益州にまたがって支配され、その要害を保ち、西方の諸蛮族をなつけ、南方の異民族を慰撫なさって、外では孫権とよしみを結び、内では政治を修められ、天下にいったん変事があれば、一人の上将に命じて荊州の軍を宛・洛に向わせ、将軍ご自身は益州の軍勢を率いて秦川に出撃するようになさったならば、民衆はすべて弁当と水筒をたずさえて将軍を歓迎するでありましょう。まことにこのようになれば、覇業は成就し、漢王朝は復興するでしょう。

諸葛誕の乱の時には、呉から魏へ孫壱が亡命していたり。

だから、施績は蜀に協力を求めたのではなくて、蜀の北伐(天下三分の計仕様)の荊州での役割を担っていて、蜀のために働いていたというのはどうかなあ。

勿論、孫壱みたいにはっきり亡命するのではなくて、二股みたいな感じで(一応、こそこそと)。

そうしたら、孫綝死後も施績は呉内部で嫌われていたらしいし、それについても辻褄はあうかも。

(陳留王紀)

(264年冬詔勅)

偽将施績,賊之名臣,懷疑自猜,深見忌惡

257年の姜維の北伐と施績の北上は、天下三分の計を実行に移した解釈?

諸葛亮の天下三分の計の内容(天下有變,則命一上将将荊州之軍以向宛、洛,将軍身率益州之衆出於秦川)と、施績、姜維に関する記述とを付きあわせてみる。

  • 「天下有變」→「呉必擾乱、而中国乗釁(朱績伝)」「(諸葛誕の乱)維欲乘虚(姜維伝)」
  • 「則命一上将将荊州之軍以向宛、洛」→(施績)「諸葛誕反、昶據夾石以逼江陵、持施績、全熙使不得東(王昶伝)」
  • 「将軍身率益州之衆出於秦川」→(姜維)「維欲乘虛向秦川,復率數萬人出駱谷,逕至沈嶺。(姜維伝)」

とりあえず、わりときれいに対応してるんじゃないかなあ。

いくつかの疑問点(姜維、施績)もこれなら辻褄あうし。

あと、個人的ロマンもある気がするし。

まとめ

あとは、これが成立しないような何かを探す作業が必要だけど(わりとよくある)。

とりあえず今回はブログ書き終わるまで気がついてないから(最近2記事くらい途中でミスに気づいて没にするはめになった)記事は公開できるかな。

とりあえずおわり。

(参考)





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