とりあえず、前半の続き。
「カーテン 7部構成の小説論」読書メモ
「第三部 事物の魂に向かうこと」の途中から。
『特性のない男』はこれが扱う一世紀全体の比類のない実存的百科事典である。この本を再読したくなるとき、私は前後のことなど気にせずに、でたらめにどんな頁でも開いてみることにしている。たとえそこに「ストーリー」があるにはあっても、このストーリーはゆっくりと控えめに進み、全注意をそこに引き寄せようとはしていない。各章がそれ自体一つの驚き、一つの発見なのである。
ストーリーの圧政、という言い方もあったけれど、こういうの好き。
思考する小説、について。
思考の偏在は小説から何ら小説の性格を奪いはせず、その形式を豊かにし、ただ小説だけが発見でき、言いうることの領域をかぎりなく広げるのだ。
私家版小説史。
これについてゴンブローヴィチは、自分は「できるかぎり、そしてできるだけ長く」自分の考えを説明するだろう、なぜならみずからの本について語りえない作家は「完全な作家」ではないからだと答えている。
……いわば彼の「私家版小説史」である。
99ページはガルシア=マルケスについて。
エルネスト・サバト。
……彼はまさしくこう言っている。哲学に見捨てられ、何百もの科学的な専門化によって細分化された現代世界にあって、小説は人間の生を一つの全体として見渡すことができる最後の観測所として私たちに残されているのだと。
次は第四部。
世界は、最初の逢い引きに急いで出かけるまえに化粧をする女性のように、私たちの誕生のさいに私たちのほうに駆けつけるときには、もうすでに化粧がなされ、仮面をつけ、予備解釈されている。だから、ただ順応主義者たちだけが世界に騙されるのではない。
しかし、このような紋切り型のポーズ、こんな使い古されたシンボルを賛美する小説は、小説の歴史からは排除される。というのも、予備解釈というカーテンを引き裂くことによってこそ、セルバンテスはこの新しい芸術を軌道に乗せたのだから。彼の破壊行為はその名に値するどんな小説のなかにも反映し、存続している。それは小説芸術のアイデンティティの徴しなのだ。
予備解釈というカーテン。
タイトルのカーテンがこのカーテン。
114ページは、アルベルティーヌのモデルが男性だったことを知った後の心境の変化。
115はプルーストについて。
なぜなら、作品とは手紙、手帖、日記、論説など、ひとりの小説家が書いたすべてものではないからだ。作品とは、ある美的な計画に基づく長い仕事の成果なのだ。
小説家が書く小説以外の評価について、参考になる。
第7部。
というのも、太古の昔から存在している説話行為が小説となったのは、作者がもはやたんなる「ストーリー」だけでは満足せず、まわりに広がっている世界に大きく窓を開けはなったときだったからである。その結果、一つの「ストーリー」に他のいくつもの「ストーリー」、逸話、描写、観察、考察などが追加され、作者はきわめて複雑で、きわめて異質な材料のまえに立たされることになった。
これもストーリーと小説について。
次は小説は世界の理解のために必要だということ。
たぶん、一編の小説、偉大な小説なら、当時のチェコ人が彼らの決意をどのように経験したのか、私に理解させてくれたかもしれない。ところが、そのような小説は書かれなかった。偉大な小説の不在が取り返しのつかないものになる場合もあるのだ。
この発想はいいなと思ったもの。
記憶の劇場。
……フエンテスは『テラ・ノストラ』のなかで、スペインの歴史的な人物たち、王様や王妃たちを舞台に登場させるのだが、これらの人物たちの冒険はじっさいに起こったこととは似ていない。フエンテスが彼自身の「記憶の劇場」のスクリーンに映すのはスペイン史ではない。それはスペイン史の主題による幻想的な変奏なのだ。
この諸力はしばしば、偶然によって現実化したものよりも〈歴史〉の別の変奏のなかにこそ、はるかに啓示的なかたちで顕れるのである。
まとめ
メモとるのも結構疲れるので今回はここまで。
後で読みなおすのに使えるから、できるかぎりメモはとっておきたいところ。
後で考えない読書とか、かなり意味が無い気はしたり。
なので、後のための準備も重要。
とりあえずメモおわり。