三国志のことを考えたいけれど何も思いつかない……というときには、何はともあれ三国志を読むのが一番だとは思ったり。
てことで、最近は蜀が恋しい時期だったりするので(周期的に変動する)、蜀のちくま5巻を手にとってみたり。
蜀のいいところ……1冊で全部読めること?
楊儀の狷介な経歴?
魏延と不仲で有名な、そして微妙に楊戯と紛らわしい楊儀。
とりあえず劉備は、楊儀をかなり高く評価していたっぽいけれど。
(楊儀伝)
楊儀字威公、襄陽人也。
建安中、為荊州刺史傅群主簿、背群而詣襄陽太守関羽。羽命為功曹、遣奉使西詣先主。
先主与語論軍国計策、政治得失、大悅之、因闢為左将軍兵曹掾。楊儀は字を威公といい、襄陽の人である。建安年間、荊州刺史傅羣の主簿となったが、傅羣に背いて襄陽太守の関羽のもとへ赴いた。
関羽は功曹に任じ、西方の先主のもとへ使者として派遣した。
先主は彼と軍事や国政についての方針、政治の得失を語りあい、たいへん彼が気に入ったので、そのまま招請して左将軍兵曹掾に任じた。
……
それにしても、さらっと書かれているけれど、諸葛亮というか劉備が死ぬ以前でもすでに相当狷介そうなのは伺える経歴ではあったり。
- 建安中、為荊州刺史傅群主簿、背群而詣襄陽太守関羽
- 儀与尚書令劉巴不睦、左遷遙署弘農太守。
楊儀が楊戯とまぎらわしいのは、楊戯のほうも性格ひねくれてそうなところは(姜維好き視点だからか)あるので、時代は多少ずれてるけれど、やっぱ名前が紛らわしいだけじゃなくて似ていることは似ているんじゃないかと思ったり。
魏の楊儀?
ifこじつけ好き。
なので、楊儀のこの言葉は魅力あったり。
(楊儀伝)
儀對禕恨望、前後云云、又語禕曰、
「往者丞相亡沒之際、吾若挙軍以就魏氏、處世寧当落度如此邪!令人追悔不可複及。」
禕密表其言。「さきごろ丞相がおなくなりになった際に、わしがもしも軍をあげて魏氏についていたならば、世にあってここまで落ち目になったはずがあろうか。後の後悔先に立たずとなったわい」
楊儀が魏に亡命してたらどうなったかなあとか。
一応、それなりに形式的には重用されると思うけれど。
魏は曹叡の時代。
能力高めだけれど狷介な楊儀は、魏でどうなったかなあとか。
あんまりおもしろそうな展開は思い浮かばない。
楊儀の優秀な兄?
楊儀は性格がかなりあれだったこと自体は事実っぽいけれど。
楊儀兄は、注だけど、正反対だったらしい?
(楊儀伝注)
楚国先賢伝云、儀兄慮、字威方。少有徳行、為江南冠冕。州郡礼召、諸公闢請、皆不能屈。
年十七、夭、郷人号曰徳行楊君。『楚国先賢伝』にいう。
楊儀の兄楊慮は、字を威方といい、若くして徳行があり、江南の第一人者とされた。
州や郡から礼をもって召され、諸公も招聘したが、いずれも承知させることができなかった。十七歳で夭折した。
郷里の人々は、「徳行楊君」とよんだ。
とりあえず、楊儀の兄は、17歳で夭折したけれど、その時点ですでに徳行で名声があったとか。
この解釈をどうするか。
徳があるという評判自体は、徳がなくても作ることはできると思うので、楊儀兄が実際に楊儀と正反対の人徳の持ち主だったとは、これだけでは断定しづらいのは確か。
ただし、こう書いてあるからという根拠で、楊儀兄は楊儀と正反対の人格者だった、と考えること自体は可能かなとか。
性格が正反対の兄弟とか、特に創作的には定番だけどロマン。
カイン・コンプレックスとかもあるし(カインは弟の方が優れているけれど)。
北斗の拳のジャギ的な楊儀(兄がトキ)解釈も、まあ楽しいかも。
「俺の名を言ってみろ」とかいう台詞、楊儀にもなんとなくあってそう。
魏延と喧嘩して泣かされてるけど……。
まあいいや。
この解釈だと、楊儀兄の評価自体はものすごく上がる感じ。
楊儀兄死んだの17歳はいいとして何年だろう……。
楊儀のこりない暴言?
流されたあとも懲りずに暴言をはいていたという楊儀。
(楊儀伝)
十三年、廃儀為民、徙漢嘉郡。
儀至徙所、復上書誹謗、辞指激切、遂下郡収儀。儀自殺、其妻子還蜀。十三年(235)、楊儀を解任して庶民におとし、漢嘉郡に流した。
楊儀は配所に到着すると、またも上書して誹謗の言を吐いたが、その内容が激烈であったため、ついに郡に命を下して彼を逮捕させた。楊儀は自殺し、その妻子は蜀に帰還した。
ただ、楊儀がこの状況になった時点(庶民になって力を失った)だと、楊儀の誹謗上書は、楊儀が実際に書かなくてもなんか適当に捏造はできそう。
生かしておいても邪魔っぽいし。
まあ、個人的にはどっちでもいいけれど。
ただ「儀至徙所、復上書誹謗、辞指激切」って、死ぬ気でなければ、いくらなんでも頭悪すぎるような?
まとめ
とりあえず楊儀、めんどくさい性格なのは確かっぽいし、興味深いとは思うけれど、なんとなくメインで考えることがない人物ではあったり。
感想おわり。