自分にとっての地雷?
無双司馬昭でいろいろ司馬昭アレルギー気味になってたけれど、最近ようやくなおってきたかも。
無双司馬昭がアレルギー気味なのは、いろいろ考えたけど、要するに無双司馬昭の司馬昭解釈(晋解釈)が苦手、あるいは自分に地雷ってことで、そんな感じで処理しておけばいいんじゃないかなってことで。
地雷なのは無双司馬昭解釈であって、司馬昭自体ではないということ……。
地雷って言い方、まあ便利だよねとは思ったり。
歴史として考えるときに地雷という言い方は微妙な気はするけれど、無双司馬昭についてはゲームなんだし、これであってるんじゃないかと思ったり。
司馬昭が地雷だと現実的にいろいろ困る
当たり前だけど、魏末期が好きであるなら、司馬昭が地雷だといろいろ支障が出すぎる。
なので、治したいなーと思ってたけど、最近は司馬昭bot(無双系じゃない)フォローして眺めるくらいには完治しているというか全然問題なくなったし個人的になにより。
司馬昭の個人的好き嫌い
あくまで好き嫌いの話。あるいは勝ち組、負け組という枠組みでの話。
魏末期限定で考えると司馬昭は勝ち組に属すると思う。
個人的には、負け組好きなので(これが判官贔屓かは謎。滅びるから好きになるのであって滅びないなら好きにならないから応援したいわけでもない)、勝ち組と考える限りは少なくとも好きになる要素ないんだけれど。
司馬昭は、殺されたわけでもないし(殺されたとか、自殺とか、憤死とか経歴にあると、歴史上の人物の場合好きになる確率upという趣味)。
ただ、もう少し長いスパンで考えると(ことわざとか)、司馬昭はある意味負け組的な要素はあるかもしれない。
現在では、司馬昭のことは曹髦の言葉が中国ではことわざになっているみたいだし。
吉川さんのこの司馬昭解釈は、現代(あるいは後世)の標準的な解釈なんじゃないかと思ったり。
……司馬昭が、人を使嗾して、もう一人の天子を殺させ、しかも罪を下手人になすりつけて、涼しい顔をした時は、五十一歳であった。
(阮籍の「詠懐詩」について)
まとめ
とりあえずもう少し自分の中で考えていきたいところ。
おわり。