2016.06.23
3557文字 / 読了時間:4.4分程度
三国志

阮籍像を探る――のために、阮籍と司馬昭、阮籍と嵆康を考えていて思ったことメモ。

司馬氏と反司馬氏的に扱われる側の奇妙(?)な関係?

阮籍は司馬昭と親しい、あるいは司馬昭からかなり親しく扱われていたのは確かなんじゃないかなと思う。
いろいろそれを証左しそうな逸話は複数あるし。

たとえば司馬炎のこととか、あるいは孫登に会いにいったのも司馬昭に派遣されたものだったり(多分)とか……。

てことで、反司馬氏あるいは反司馬氏となって殺された人々は、もともと司馬氏と距離があった側あるいは司馬氏と敵対していた側ではないケースの方が多かったんじゃないかなとか。

最初はそれなりに司馬氏側あるいは司馬氏寄りだと当人も自覚していたのが、当人にとってはいつのまにか司馬氏側から除外されていた……みたいな。

その特徴的なケースは、何晏(最初は自分だけ助けてもらえるだろうとおもっていた)、夏侯玄(もとは妹が司馬師の妻)、諸葛誕(娘が司馬氏に嫁いでいて、毌丘倹の乱には鎮圧側で参加した)、あたりじゃないかなとか。

毌丘倹と文欽もまた、司馬師は弾劾したけれど、司馬師にかえて司馬昭に変えるべき、といっていたわけで。

(毌丘倹伝注)

カン丘倹・文欽らの上奏にいう、……

……司馬師の罪を考えますと、大罪を加えて、邪悪を明白に示すのが当然と存じます。『春秋』のたてまえでは、一代において善をお粉負えば、十代にわたって罪をゆるされます。
司馬懿には大功があり、海内の書に記されております。古典の判断に依拠し、司馬師をやめさせて、列侯として邸に帰しますように。
弟の司馬昭は、誠実でつつしみ深く、寛大で明るく、善を楽しみ士人を愛し、世俗を超越した君子の風格があり、国家のために忠誠を捧げておりまして、司馬師とは異なります。
臣どもは打ち首を覚悟に保証いたします。司馬師の代りとして玉体を輔導いたさせますように。

按師之罪、宜加大辟、以彰奸慝。
春秋之義、一世為善、一世宥之。懿有大功、海内所書、依古典議、廃師以侯就弟。
弟昭、忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度、忠誠為国、不与師同。
臣等碎首所保、可以代師輔導聖躬。

後世からみると毌丘倹たちの中途半端さは馬鹿げて見えるけれど、ただこのことは毌丘倹たちにはどう世界が見えていたかを示すものではありそうではあったり。

後世反司馬氏とされる人々は、少なくとも死の寸前あるいは処刑寸前くらいまでは、自分は反司馬氏だ――とはまったく考えていなかったのではないか、という可能性。

司馬氏による反司馬氏粛清の特徴?

「世説新語」(南朝宋)だけれど。
これは東晋までの人々の逸話を集めた体裁のもの。

だから、世説新語の時代に広まっていた人物像や評価は少なくとも反映されている確率は高そうではあったり。

また吉川幸次郎氏は、晋の成り立ちについて(魏もだけど)「欺瞞」「偽善」「詐術」「不潔」と評していたり。

なぜ阮籍は、そうした生活態度を取ったか。それは彼の生きていた時代が、偽善と詐術にみちた不潔な時代であったからであり、彼の生活はそれに対する抗議であったということが、普通にいわれている。それはまた事実でもある。
……

彼(阮籍)の行為は、こうした不潔な世の中に対する、潔癖な精神の、反撥であり、反抗であったと、いわれる。

(阮籍の「詠懐詩」について)

で、世説新語のこの司馬昭、陳騫、陳泰と鍾会のエピソードは、世説新語の時代における晋の成り立ちの認識に繋がるものなんじゃないか、と思いついたり。

(世説新語 排調)

晉文帝與二陳共車,過喚鍾會同載,即駛車委去。比出,已遠。既至,因嘲之曰:「與人期行,何以遲遲?望卿遙遙不至。」會答曰:「矯然懿實,何必同羣?」帝復問會:「臯繇何如人?」答曰:「上不及堯、舜,下不逮周、孔,亦一時之懿士。」
晋文帝與二陳共車、過喚鍾會同載、即駛車委去。
比出、已遠。
既至、因嘲之曰、
與人期行、何以遲遲。
望卿遙遙不至。
會答曰、
矯然懿實、何必同羣。
帝復問會、
臯繇何如人。
答曰、
上不及堯、舜、下不逮周、孔、亦一時之懿士。

晋の文帝(司馬昭)は、陳騫、陳泰と車に同乗し、途中、鍾会のところを通り過ぎ、一緒に乗るように声をかけておいて、そのまま車を走らせて置き去りにした。鍾会が表に出たときには、すでにはるか彼方であった。やっとのことで追いつくと、文帝は嘲っていった。「人と同行の約束をしておきながら、どうしてぐずぐずしていたのか。君を待ち望んでいても遙遙としてなかなか来なかったではないか。」会は答えていった。「矯(たか)くすぐれて懿(うるは)しく実(まこと)ある者は、どうして群(むれ)をなして行く必要がありましょう。」文帝はまた会にたずねた。「臯繇はどのような人物であったか。」答えていった。「上は堯、舜に及ばず、下は周公、孔子に及びませんが、また一代の懿(よ)き人物です。

この逸話は「排調」(排調──相手をやりこめてからかうこと)に含まれているので、鍾会と司馬昭たちとのやり取りがメインになっているけれど。

このエピソードの中心を、言葉のやりとりではなく司馬昭(+陳騫、陳泰)と鍾会(のちの反司馬氏)の人間関係に移して読みなおしてみるとどんな感じになるのか。

の文帝(司馬昭)は、陳騫、陳泰と車に同乗し、途中、鍾会のところを通り過ぎ、一緒に乗るように声をかけておいて、そのまま車を走らせて置き去りにした。鍾会が表に出たときには、すでにはるか彼方であった。やっとのことで追いつくと、文帝は嘲っていった。

司馬氏と反司馬氏との関係は、対立というよりは、司馬氏が少しずつそれまで仲間だと当人は思っていた人々を疎外していくことによって反司馬氏が誕生する――こんな感じ?

そして、なんとなくイメージとしては、学校とかのいじめっぽい。

このあいだまで同じグループにいて一緒に悪口をいったりいじめたりして仲が良かったはずなのに、気がついたら自分が今度はターゲットになっていた、みたいな。

比喩的な解釈は危ないといえば危ないけれど。

ただ、後世(東晋、南朝宋)の時代には、司馬氏のやり方は、このエピソードにあるような関係としてとらえられていたのではないかなとか。

司馬氏による反司馬氏粛清の評価?

結局のところ、司馬氏のやり方、あるいは彼らが参考にした曹魏のやり方は、後世では、少なくともすばらしいとか最善だったとは評価されていなかった様子。

とりあえず東晋の皇帝司馬紹は、曹髦と司馬昭のことについてこんなやりとりがあったと世説新語にあったり。

(世説新語)

王導、溫嶠俱見明帝,帝問溫前世所以得天下之由。溫未答頃,王曰:「溫嶠年少未諳,臣為陛下陳之。」王乃具敍宣王創業之始,誅夷名族,寵樹同己,及文王之末高貴鄉公事。明帝聞之,覆面著床曰:「若如公言,祚安得長!」

王(王導)はそこで宣王(司馬懿)が創業の初め、名族を誅滅し、おのれに賛同する者を引きたてたこと、さらに、文王(司馬紹)の末には、魏の高貴郷公(曹髦)を殺害した事を詳しく述べたてた。明帝(司馬紹)はこれを聞くと、顔をおおい、牀に見を伏せて言った。「もし君の言葉の通りであるならば、この王統はどうして長く続くことができよう。」

石勒の有名な魏晋評も。

晋書、石勒載記

勒笑曰:「人豈不自知,卿言亦乙太過。朕若逢高皇,當北面而事之,與韓彭競鞭而爭先耳。脫遇光武,當並驅于中原,未知鹿死誰手。大丈夫行事當礌礌落落,如日月皎然,終不能如曹孟德、司馬仲達父子,欺他孤兒寡婦,狐媚以取天下也。朕當在二劉之間耳,軒轅豈所擬乎!」其群臣皆頓首稱萬歲。

でもって、上で引用した吉川さんのこんな司馬昭評価とか。

……司馬昭が、人を使嗾して、もう一人の天子を殺させ、しかも罪を下手人になすりつけて、涼しい顔をした時は、五十一歳であった。

とりあえず、陰険とかせこいとか、後世にそんな印象を残すようなやり方だったのは確かだったんじゃないかなとか。

司馬昭の判断

成済のせいにする――という方法は、当時あるいは当面は有効だったかもしれない。というか有効だったんだと思う(だからこそ西晋は期待をもって建てられたんじゃないかとか)。

ただし、その有効性はそれほど長く保つ種類のものではなかった、ということではないか。

で、司馬昭が陳泰の進言を無視して賈充を処分(賈充のせいにすれば、成済のせいにするよりは、後世には上手く責任転嫁することができたはず、というのが陳泰の判断だったんだと思う)したのは、それがわかっていなかったからとは限らなくて、ただ司馬昭がいろいろ考えた結果、後世のことよりも当座のことを優先したんじゃないかな……と最近思いついていたり。

まとめ

てか、また今回のテーマとずれてる気がするので、この辺についてはそのうち改めて書きたいってことでとりあえずおわり。









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