2016.06.21
1859文字 / 読了時間:2.3分程度
三国志

阮籍と孫登と司馬昭?

ツイッター眺めてて、阮籍のことで知らなかったのでメモ……。

阮籍の派遣元?

てことで、孫登(呉の皇太子じゃないほう)に阮籍が会いに行くというのは、阮籍のイメージ的に自発的に行っても(嵆康もあってるし)違和感ないから、なんとなくそんな風に思ってたけれど。

少なくとも孫登伝(晋書)には、そうではないように書いてあったり。

晋書、隠逸伝、孫登伝

孫登,字公和,汲郡共人也。無家屬,于郡北山為土窟居之,夏則編草為裳,冬則被發自覆。好讀《易》,撫一弦琴,見者皆親樂之。性無恚怒,人或投諸水中,欲觀其怒,登既出,便大笑。時時遊人間,所經家或設衣食者,一無所辭,去皆捨棄。嘗住宜陽山,有作炭人見之,知非常人,與語,登亦不應。文帝聞之,使阮籍往觀,既見,與語,亦不應。嵇康又從之遊三年,問其所圖,終不答,康每歎息。將別,謂曰:「先生竟無言乎?」登乃曰:「子識火乎?火生而有光,而不用其光,果在於用光。人生而有才,而不用其才,而果在於用才。故用光在乎得薪,所以保其耀;用才在乎識真,所以全其年。今子才多識寡,難乎免於今之世矣!子無求乎?」康不能用,果遭非命,乃作《幽憤詩》曰:「昔慚柳下,今愧孫登。」或謂登以魏晉去就,易生嫌疑,故或嘿者也。竟不知所終。

でもって、隠逸伝の孫登伝に「文帝(司馬昭)聞之,使阮籍往觀,既見,與語,亦不應」と司馬昭のことが書かれているのは、孫登伝の流れ的にはどうでもいいことな気がするので、事実だったか事実だと思われていたからなんとなくこの記述が入った、ってことなんじゃないかなとは思ったり。

なので、この司馬昭が阮籍を孫登のところに派遣した――ということは、わりと事実な可能性は高いと考えていいんじゃないかなとか。

阮籍像の再考?

竹林の七賢の、今あるようなイメージが作られたのは東晋のころ。
つまり東晋の人間の理想像が先に漠然とあって、それによって彼らの手で当てはめられたのがこの史実の七人――と考えてもよさそうという印象。

というわけで、ある意味、竹林の七賢は歴史創作的なものだったのかもとは思ったり。

まあ、歴史というのは、狭義の歴史学はあくまで「歴史」の一部だと考えているので、歴史創作的なものは、歴史的に「歴史」の常に主要な要素だったんじゃないかなとか。

史実的な阮籍像を探求する上では、竹林の七賢像は一端保留したほうがいいかも。

そして、わりとその鍵になりそうなのは、

  • 嵆康と阮籍はあくまで別人であるということ(同じようなものだという先入見の排除。当たり前といえば当たり前だけど)
  • 阮籍と司馬昭の関係の再考

あたりで、この辺から手を付けていくのがいいんじゃないかなと思ったり。

阮籍と孫登について

世説新語では、阮籍は仙人(真人)に会っているけれど(棲逸)、世説新語の本文自体では孫登だとは書かれていなかったり。

世説新語(棲逸)

阮步兵嘯,聞數百步。蘇門山中,忽有真人,樵伐者咸共傳說。阮籍往觀,見其人擁厀巖側。籍登嶺就之,箕踞相對。籍商略終古,上陳黃、農玄寂之道,下考三代盛德之美,以問之,仡然不應。復敘有為之教,棲神導氣之術以觀之,彼猶如前,凝矚不轉。籍因對之長嘯。良久,乃笑曰:「可更作。」籍復嘯。意盡,退,還半嶺許,聞上【口酋】然有聲,如數部鼓吹,林谷傳響。顧看,迺向人嘯也。

嵇康遊於汲郡山中,遇道士孫登,遂與之遊。康臨去,登曰:「君才則高矣,保身之道不足。」

ただし次に嵆康が孫登に会っているので、流れ的に孫登っぽくはなっているけれど。

阮籍と孫登が会ったこと(この逸話の真人が孫登らしいこと)は、先に引用した孫登伝以外にも、阮籍伝にもあったり。

晋書、阮籍伝

籍嘗于蘇門山遇孫登,與商略終古及棲神導氣之術,登皆不應,籍因長嘯而退。至半嶺,聞有聲若鸞鳳之音,響乎岩谷,乃登之嘯也。

ただしこっちには、司馬昭のことは書かれていないけれど。

司馬昭が派遣元というのは、孫登伝だけなのかな。

まあ、孫登伝を疑う理由はあんまりないとは個人的に思っているけれど。

まとめ

とりあえず情報整理。

おわり。









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