2016.03.27
6453文字 / 読了時間:8.1分程度
三国志

北伐関連年表(実質姜維)とりあえず234-262年まで作った。

それで、姜維伝眺めてたら気になった箇所があったり。

姜維伝「維率衆出漢」の「出漢」?

ツイート引用だけじゃなんなのでもう一度引用してみる。

(姜維伝)

五年,維率衆出漢
侯和為鄧艾所破,還住沓中。
維本羈旅托國,累年攻戦,功績不立。而宦官黄皓等弄権於內,右大将軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇。維亦疑之,故自危懼,不復還成都。

五年(262)、姜維は軍勢を率いて侯和に出、鄧艾に撃破され、引き返して沓中に駐屯した。
姜維はもともと故郷を離れて蜀に身を寄せた人物であり、連年戦いに明け暮れながら、功績を立てることができずにいるうち、宦官の黄皓らが宮中にいて権力をわがものとし、右大将軍の閻宇が黄皓と結託した。
しかも黄皓はひそかに姜維を廃して閻宇を立てんと願った。姜維もそれを疑っていたので、危惧の念を抱き、二度と成都に帰還しなかったのである。

つまり、姜維伝には262年のこととして「維率衆出漢」と書いてあったり。
で、この「出漢」の意味がなんとなく気になったんだけれど、ちくま訳ではここは飛ばしているし(「五年(262)、姜維は軍勢を率いて侯和に出、鄧艾に撃破され」)、三国志集解も地名のこと(侯和の方)のことくらいしか触れていなかったり。

なのでこの「出漢」は「漢を出た」と読むんだろうけど、この「漢」が蜀漢のことなのか、脱字があって(漢中とか漢寿とかがまず思い浮かぶ)「漢」になっているだけなのか、それとも「漢」という地名があるのか、それがどうなのかなあとか。

「出漢」が姜維が蜀漢を離れるIF?

263年に魏が攻めてきた時に姜維は戻ってきて剣閣で魏を防いでいるわけだから、姜維が蜀を見限るという意味で「出漢」をとるのは最終的にはあんまりなさそうではあるけれど。

とはいえ、IFとして考えてみるのも何か役に立つかもしれないし。

姜維国(仮)?

宋建も枹罕で「河首平漢王」を自称していたわけだし。
枹罕といえば、姜維がよく北伐していた地域な印象。

なので、宋建の国は姜維国の先例になるかもしれないかも。

とりあえず姜維が成都に戻らずとどまったのは沓中(「還住沓中」還住沓中)。

そして、いろいろ事情等が書かれているけれどそれを省略すると次は「不復還成都」。

つまり、姜維は262年に蜀から独立して姜維国(仮)を作るつもりだったかもしれない説はどう組み立てられるかというと。

とりあえず沓中の位置(中国歴史地図集によると)――臨洮のほぼ真南、武都の下弁のほぼ真西(下弁からの方が遠い)。益州の北西かなりぎりぎり。白水(川)の北。

(姜維伝)

五年,維率衆出漢。侯和為鄧艾所破,還住沓中
維本羈旅托國,累年攻戰,功績不立。而宦官黄皓等弄権於内,右大将軍閻宇與皓協比,而皓陰欲廢維樹宇。
維亦疑之,故自危懼,不復還成都

この「維率衆出漢」「還住沓中」「不復還成都」以外は、姜維自身の直接の行動ではなく、また姜維自身の意志によるものでもない(鄧艾に負けたかったわけでもないだろうってことで)。なので、陳寿の意図や解釈でしかない、とみなすこともできる。

陳寿の意図や解釈を廃した後の姜維の意図を読み取る

陳寿の意図や解釈を廃した後の姜維の意図を読み取る――という名目で、さらに追求すれば、ここは「維率衆出漢」「還住沓中」「不復還成都」だけでいいということに。

つまりこの時の姜維がとった行動は、「維率衆出漢、還住沓中、不復還成都」(姜維は軍勢を率いて漢を出て、かえって沓中に駐屯して、二度と成都に帰ろうとしなかった)となる。

「不復還成都」ってあるけれど、姜維は蜀滅亡後成都で死んでいるから、実際には成都に戻らなかったわけでもないし。

姜維は沓中で独立しようとしていた?

てことで、一応姜維は沓中で独立しようとしていたと考えることもできなくはないかもしれない。

そして、これは先入観としてはありえなさそうとは思えるけれど、ただ258年以降の蜀の内部事情を考えると、たまたま魏が攻めてきたから有耶無耶になっただけで、この後、魏が攻めてこなかったら姜維はどうするつもりだったのか、というそもそもの疑問は残っていたり。

258年以降の姜維の意図?

258年以降、姜維は262年の北伐に出るまで、成都にとどまっている。
258年は黄皓の専政が始まった年でもある。

この期間の蜀の事情はどのようなものだったのか。

という疑問は、もう少し考えてみたいテーマ。

蜀の大将軍と魏の大将軍

あんまり関係ないかもしれないけれど年表並べててふと思ったこと。

この当時の蜀の大将軍は姜維(258年に復帰)で、魏の大将軍は司馬昭。

姜維は、段谷の戦いの敗北の責任をとって大将軍から降格してから2年後、ようやく大将軍に復帰。ただし、政敵黄皓が台頭したところ。

(後主伝)

景耀元年(258)、姜維還成都。
史官言景星見、於是大赦、改年。
宦人黄皓始專政。

一方で、司馬昭はというとこんな感じ。

(高貴郷公紀)

三年春二月,大将軍司馬文王陷壽春城,斬諸葛誕。……夏五月,命大将軍司馬文王為相國,封晋公,食邑八郡,加之九錫,文王前後九讓乃止

司馬昭の順風満帆ぶり(すぎるともいえるかもしれないにしろ)と比較すると、姜維は随分逆風が吹いている印象。

で、その境遇の違いはともかくとしてここで気になるのは、国は違うから一概に言えないにしろ姜維も同じ大将軍の地位にはいつづけているわけではあったり。

隣の大将軍が簒奪の階段登っている途中だと考えるなら、姜維が実際にどう考えたかはともかく、姜維にその可能性がないと断定することはできないのではないか。

簒奪はともかく、反乱(あるいは君側の奸を除くという名目での挙兵)を考えた可能性もなくはなかったんじゃないかなとか。

姜維は沓中に駐屯して成都に帰らないつもりで、何をするつもりだったのか

もしかしたら姜維伝の「出漢」には結構意味があったんじゃないかなあという疑問。

「不復還成都」はちくま訳では「二度と成都に帰還しなかったのである」ってあるけれど、姜維は成都で死んだと後に書いてある以上、日本語的にはあまりよくない。

姜維の最後の成都行きは鍾会の計画に従っていたからだから、自発的には二度と成都に戻ろうとはしなかった、とはいえるんだろうけど。

姜維と漢

一応諸葛亮が姜維について「姜伯約甚敏於軍事,既有膽義,深解兵意。此人心存漢室而才兼於人」と評しているし。

個人的に孔明は人を見る目がある説をとっている(とりたいとも、とるつもりとも、どのみちそのうちもう少し考える)ので、「此人心存漢室」を諸葛亮の人を見る目がなかったから説で片付けるのは気分的に嫌(諸葛亮dis嫌いだし、数年前流行っててうんざりした。今も流行ってるかはしらない)だし、孔明さんの言うとおり姜維は漢室に心を寄せているとできるかぎり解釈するつもりだけれど。

で、漢には忠臣であっても劉禅に忠臣でなくてもいいと考えることもできるわけで。

黄皓の権力の源は、結局は劉禅の寵愛。
ていうことは、黄皓の背後には劉禅がいると考えられるわけで、つまり黄皓が姜維を排除しようとしたとするならば、それは劉禅の意向でもあるんじゃないかなとか。

劉禅と姜維

劉禅について。

諸葛亮の時代に諸葛亮に劉禅が丸投げするのは当人としても納得のことだったと思える。本人も若かったし、諸葛亮は先帝以来の功臣だったし。

ただ、諸葛亮死後も、蒋琬、費禕と、諸葛亮とかなり近いくらいに「自琬及禕,雖自身在外,慶賞刑威,皆遙先咨斷然,後乃行。其推任如此。」と、蜀の実権を握っていた。

姜維は、費禕死後(253)すぐには大将軍にならなかったけれども(この空きについても気になるけど)、256年に大将軍になって(その年に段谷の戦いで当人が大敗したから降格、258に復帰)て、結局最後まで大将軍でいつづけた。姜維は蒋琬、費禕と同程度には蜀の実権を握るつもりではなかったのか。
そのために、258年以後(262年まで)姜維は成都にいつづけたのではないのか。

で、その諸葛亮、蒋琬、費禕と続く権力の構造は、姜維にとってはそれは自分にも引き継がれるべき権利のようなものにみえていたかもしれないにしても、それは劉禅からみれば劉禅を蔑ろにしつづける系譜のようなものであって、それに対して徐々に不満は高まっていたのではないか。

その不満を代弁する存在が黄皓だったんじゃないかとか。

姜維の野望(仮)

てことで。
262年の姜維が何を考えていたか。

姜維が沓中に駐屯するまで

とりあえず黄皓の手の届かない沓中に逃げて引きこもってなんとなく自然に事態が好転するのを待つ――というようなビジョンのない発想で姜維は動くのかという疑問。

沓中に拠点を置いて黄皓(つまるところ劉禅)の意志に関係なく北伐するつもりなら、それは劉禅に背いているも同然になるのではないか。

姜維にとって、成都に戻らない決意をさせるほど黄皓(劉禅)との対立が悪化しているなら、この後劉禅と共存していく道はあったのか。

劉禅の寵がなくなった黄皓なら共存くらいいくらでもできるので、ここは劉禅の話。

姜維も258年から262年までのあいだは成都にとどまっていたわけだし、この間に事態を解決する策を探ってはいたんだと思う。

姜維にとって解決とは、正統な手段であるいは平和裏に黄皓を排除(あるいは暗愚寄りの劉禅を董允時代のようにおさえつけること)ということだったのではないか。
そして、262年の時点でそれは不可能だということが姜維にとって決定的になった。

華陽国志になるけれど、とりあえずこんなことが書いてあったり。

(姜維伝注)

〈華陽國志曰;維惡黄皓恣擅,啟後主欲殺之。後主曰:「皓趨走小臣耳,往董允切齒,吾常恨之,君何足介意!」維見皓枝附葉連,懼於失言,遜辭而出。後主敕皓詣維陳謝。維說皓求沓中種麥,以避內逼耳。〉

『華陽国志』にいう。
姜維は黄皓の専横を憎み、後主に上言して彼を殺害せんとした。後主は、「黄皓は走り使いの召使にすぎない。先には董允が彼に対して歯ぎしりしておったが、わしはいつもそれを残念に思っていたのだ。君が気にかけるほどの男ではない」といった。姜維は黄皓が枝や葉が木の幹にすがりついているように皇帝にとりいっているのを見て、失言するのを恐れ、言葉を出すのをひかえて退出した。後主は黄皓に勅命して姜維のもとへあやまりに行かせた。姜維は黄皓に沓中で麦を植え〔屯田し〕たいと申し出、〔外へ出ることによって〕宮中から加えられる危険を避けた。

沓中に駐屯することは「以避內逼耳」になるのは確か。
ただ、だからといってそれが「以避內逼耳」だけが目的だったということを意味するわけではない。

姜維がこの状況を打破するためにできること

姜維が、単に黄皓を恐れて避難するだけでなく、この時点でも積極的に手を打つとしたら何ができるか。

とりあえずまず思いつくのは、姜維なら実力(軍事力)で黄皓にしろ劉禅にしろ廃することができるだろう、ということではあったり。

諸葛瞻(黄皓より)の子諸葛尚ですら死ぬ時にはやっぱり黄皓を斬っておくべきだったといっていた様子。

(諸葛瞻伝)

華陽国志曰、尚嘆曰、「父子荷国重恩、不早斬黄皓、以致傾敗、用生何為!」乃馳赴魏軍而死。

なので、反黄皓であれば同調する人物も潜在的にも結構いたのではないか。

つまり、姜維はたまには北伐じゃなくて南征して成都を攻めたとしても勝算はあるんじゃないかなとか。

で、別に漢を滅ぼすわけではなくて、劉禅を廃した後、適当な皇族を立てればいいわけだし、それなら反感もそれほどないんじゃないかなとか。

姜維国ならともかく……。

鍾会の計画と姜維の計画

ここまで考えてきて、思い浮かぶのは、鍾会の乱の鍾会と姜維の計画のことだったり。

個人的に、鍾会はかなり最初から目の上のたんこぶの司馬氏を排除する予定(野心)を持っていた説をとっていて、演義その他のように、姜維に唆されてはじめて蜀で反乱を起こす気になったとは考えていないけれど。

とはいえ、全部が鍾会の計画ではなく、姜維の策もかなり鍾会は適宜取り入れたのかもしれないとは思ったり。

姜維の計画と鍾会の計画との親和性

たまたまかもしれないけれど。
姜維の計画(劉禅排除クーデター)と鍾会の計画(姜維を利用して司馬昭討伐)は、親和性が高いものだったかもしれない。

この二者の計画をあわせれば、さらに姜維と鍾会にとっては洗練された計画になり得る。

鍾会にとっては姜維が動かせる蜀の人物や兵力が少なければ期待はずれで困るだろうし、姜維からしてみれば劉禅を自分の手ではなく鍾会の手を借りて綺麗に排除できるという点だけでも魅力のような。

だから、姜維伝にあるこの密書の部分。

華陽國志曰:維教會誅北來諸將,既死,徐欲殺會,盡坑魏兵,還復蜀祚,密書與後主曰:「原陛下忍數日之辱,臣欲使社稷危而復安,日月幽而復明。」

社稷はともかく、劉禅本人を復帰させるつもりが姜維にあったかはかなり疑問(黄皓の後ろ盾が劉禅なんだし)。
なので、これは言ったとしても部分的には本心じゃないという解釈をしておくことに。

張翼が死ぬまで姜維に従っていた理由

張翼は、姜維に批判的であったわりには、死ぬ時まで一緒にいたり。

(張翼伝)

維至狄道,大破魏雍州刺史王經,經眾死於洮水者以萬計。
翼曰:「可止矣,不宜復進,進或毀此大功。」
維大怒。曰:「為蛇畫足。」
維竟圍經於狄道,城不能克。
自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往。
景耀二年,遷左車騎将軍,領冀州刺史。六年,與維咸在劍閣,共詣降鍾会於涪。
明年正月,隨会至成都,為亂兵所殺。

十八年(255)、衛将軍の姜維とともに成都に帰還した。姜維が再度の出兵を提議したとき、ただ張翼だけが朝議の席で反対論を述べ、国家の弱小と民衆の労苦を根拠に、みだりに武力を行使してはならないと主張した。
姜維は聞き入れず、張翼らを率いて出発し、張翼の位を進めて鎮南大将軍とした。
姜維は狄道に到着すると、魏の雍州刺史王経をさんざんにうち破った。洮水(とうすい)で死んだ王経の軍兵の数は五けたにのぼった。
張翼が、「とどまるべきです。これ以上進攻してはなりません。進攻すれば、あるいはこの大殊勲に傷をつけることになるかもしれません」というと、姜維は大いに腹を立てた。
〔張翼は〕「蛇の絵をかいて足を書き加えるようなものですぞ」といった。
姜維はけっきょく狄道城にいる王経を包囲したが、陥すことができなかった。
張翼が異論をとなえて以来、姜維は内心張翼が気に入らなくなっていたが、それでもいつも引き連れて同行し、張翼もまた仕方なく遠征に加わった。
景耀二年(259)、左車騎将軍に昇進し、冀州刺史を兼任した。
六年(263)、姜維とともに剣閣に駐屯し、連れだって涪にいた鍾会のもとへおもむき降伏した。翌年正月、鍾会に随行して成都に行き、混乱した兵士のために殺害された。

たまたまこの時も姜維と一緒にいたからというのが一番確率高いけれど。

ただ、張翼が姜維に反対したのは255年。
その後については、陳寿の解釈にすぎないともいえる(自翼建異論,維心與翼不善,然常牽率同行,翼亦不得已而往)。

張翼が姜維と同行していたのは嫌々かはともかく好き好んでではないだろうけれども、張翼が姜維と不仲だとしてもだからといって黄皓側というわけでもなかったとすれば、反黄皓としてはとりあえず姜維に協調するということもなくはないんじゃないかなとか。

まとめ

とりあえず今回はここまで。

この記事の続きっぽいけれど、なんか長くなった……。

おわり。





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