宋建、一応資料整理だけしてみたり。→宋建(事典)。
別に資料整理がメインな事典だから、最低限は整ったともいえるし。
巴蜀と宋建の関係?
で、ウィキペディアの記述で疑問に思った所も確認できた。
(ウィキペディア)
建安21年(216年)、献帝は曹操を魏王に封じた。その詔勅によると、宋建は韓遂と共に益州の劉備と通じていたとある。
これ、宋建は214年に殺されていて劉備は214年に益州に入ったばかりだしっていう疑問。
とりあえずこの部分の原文はこれ。
(武帝紀注、献帝伝)
韓遂、宋建、南結巴、蜀、群逆合従、図危社稷、
益州の劉備とは書いていない。
で、それはいいとしても、じゃあ韓遂、宋建が結託していた巴蜀はどの勢力にあたるのかという疑問は残る。
それでこれ。
(周羣伝注、続漢書)
是時,劉璋據益州,張魯據漢中,韓遂據涼州,宋建據枹罕
宋建、韓遂に並んで、益州(蜀)の劉璋、漢中(巴)の張魯の名前があげられている。
ここで「劉璋據益州,張魯據漢中,韓遂據涼州,宋建據枹罕」と並べられているのは、単に西の方の群雄の名前を列挙しているというのではなく、内実はともかく(張魯と劉璋とか。それでも元は協力していたわけで)、この四者(劉璋、張魯、韓遂、宋建)は協力関係にあったという事実があってまたそういうふうにも認識されていた――ととるのがいいのかも。
まとめ
ウィキペディアはざっと調べるのにはいいけれど、さらっと創作(とか捏造とか思いこみとか間違いとか)が混ざっていたりするから、おもしろそうなところはまず疑った方がいいという感じ。
おもしろさがない部分に関しては、間違い以外の可能性は低いと思うから、間違っている確率はおもしろい部分よりは低いかも。
とはいえ、このウィキペディアの案は結構魅力ではあったり。
劉備出てくるし。
まあ、これをふまえた上で劉備と宋建、韓遂を絡ませる方法が思いついたらいい気もするけれど。
おわり。