鍾ヨウとか蔡文姫とか。
この人たちは書家としても有名なので(鍾会も一応名前はぼちぼち出たりするけど)、そっち系にも色々書かれてたり。
てことでそのメモ、ツイッターに書いたので収録。
法書要録(張彦遠)の鍾ヨウ、蔡文姫
法書要録(張彦遠)
http://t.co/7ATu1LjjOr
《傳授筆法人名》
蔡邕受於神人,而傳之崔瑗及女文姬。文姬傳之鍾繇。鍾繇傳之衛夫人。衛夫人傳之王羲之。王羲之傳之王獻之。
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 8月 31
張彦遠って、ウィキペディアみると「中国最古の絵画史とされる『歴代名画記』を著し画史の祖と称された。また書論として著名な『法書要録』を編纂した。」で『歴代名画記』の人でもあった。
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 8月 31
ウィキペディアには張華の子孫ってあったり。どこに書いてあるんだろうこれ。
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 8月 31
でさっきの「而傳之崔瑗及女文姬。文姬傳之鍾繇」のこと。蔡文姫って鍾ヨウより年上だっけ下だっけって、ウィキペディアだと鍾ヨウ151、蔡文姫177生だから、蔡文姫の方が若いー。
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 8月 31
@medamayaki1 ってことがあったとするといつぐらいだろう。帰ってきた後? 匈奴にさらわれる前は鍾ヨウどこいたっけ。
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 8月 31
@medamayaki1 鍾ヨウ、「辟三府,為廷尉正、黃門侍郎。是時,漢帝在西京,李傕、郭汜等亂長安中,與關東斷絕。太祖領兗州牧,始遣使上書…」
192年に董卓(あと蔡邕)殺されて、蔡文姫実家に戻ったのいつとは思うけど、父親生きてた頃な感じかなあ。
— medamayaki (@medamayaki1) 2014, 8月 31
こんな感じ。
てことで、匈奴のところから帰ってきた後の方が確率は高そうな気はするけれど、お話的には匈奴に蔡文姫がさらわれる前の時の方がおもしろいかなあとか。
蔡文姫177年生まれで蔡邕と董卓が死んだのが192年なのでこの時数えで16歳。鍾ヨウは42歳。
法書要録では鍾ヨウは教えてもらったらしいけど、蔡文姫が蔡邕に教えてもらった筆法だから蔡邕が死んだ192年時点で蔡文姫はそれを会得してるはずなので、蔡文姫の若さは関係なさそうではあるけれど。
とりあえずメモおわり。
(旧ブログ2014.8.31記事移転)