てことで、──「呉書・朱異伝」を読みますか?──と出たので朱異伝を読んでみることに。
朱異は朱桓の子。
朱異は陳寿の評どおりに父親のような欠点はなかったのか
まずは陳寿の評から。
陳寿の評
評曰、朱治、呂范以舊臣任用、朱然、朱桓以勇烈著聞、呂據、朱異、施績鹹有将領之才、克紹堂構。
若范、桓之越隘、得以吉終、至於據、異無此之尤而反罹殃者、所遇之時殊也。評にいう。朱治と呂範とは旧くからの臣下として信任を受け、朱然と朱桓とは勇敢に武勲を立てたことえその名がよく知られ、呂拠と朱異と施績(朱績)とはそれぞれに軍の指揮者として有能な才を備え、よく父祖以来の業を受けついだ。
呂範と朱桓とが思い上がって偏狭なところがありながらもその終りを完うできたのに対し、呂拠と朱異とは、そうした欠点もなかったのに禍いを被って〔命を落とすことになったのは〕、彼らが生きた時代の間に変化があったからなのだ。
とあるので、ここからみると、父親の朱桓はわりと性格がおかしかったけれど子供の朱異はそうでもなかったのかという風に見えるけれど。
注にあるこの辺の呉書の記述みるとどうなのかなという感じも。
朱異伝注
呉書曰:
異又隨諸葛恪圍新城,城既不拔,異等皆言宜速還豫章,襲石頭城,不過數日可拔。
恪以書曉異,異投書於地曰:「不用我計,而用傒子言!」
恪大怒,立奪其兵,遂廢還建業。『呉書』にいう。
朱異はさらに諸葛恪のもとで合肥新城の包囲に参加した。城を落とす見こみがなくなると、朱異らはそろって、急いで豫章に軍を還して石頭城を襲えば、数日ならずして城を落とすことができると建策した。
諸葛恪は手紙を送ってその作戦が不可である理由を説明したが、朱異はその手紙を床にたたきつけていった、「おれの献策を用いず、前科者の意見などを聴きやがって」
諸葛恪は大いに腹を立て、即座に朱異の配下の兵を取りあげ、そのまま職務をといて建業にかえらせた。
この諸葛恪さんに対する反応からすると、父親の朱桓の面影が感じられていいなあみたいな。
朱桓のエキセントリックなところの一例
朱桓はこんな感じ。
朱桓伝
桓素氣高,恥見部伍,乃往見琮,問行意,感激發怒,與琮校計。
琮欲自解,因曰:”上自令胡綜為督,綜意以為宜爾。”桓愈恚恨,還乃使人呼綜。
綜至軍門,桓出迎之,顧謂左右曰:”我縱手,汝等各自去。”有一人旁出,語綜使還。
桓出,不見綜,知左右所為,因斫殺之。
桓佐軍進諫,刺殺佐軍,遂托狂發,詣建業治病。
……
朱桓の佐軍(副官)が進み出て諫めると、その佐軍をも刺殺し、そのまま気が狂ったということを理由に、建業におもむいて治療にあたった。
自分の思いどおりにならないからといってなんか殺しまくってたり。
石頭城を襲おうとする朱異?
朱異に戻る。
さっき引用した部分は割りとよくわからないところがいっぱい。
まずこの「異又隨諸葛恪圍新城,城既不拔,異等皆言宜速還豫章,襲石頭城,不過數日可拔」とか。
石頭城というと建業じゃないっけ──とまず不思議な感じがしたり。
それでこれは──朱異は諸葛恪に向かって豫章に戻ってから建業の石頭城を襲えば数日もしないで落とせると謀反を誘ったので、忠臣な諸葛恪はそれは駄目だと返事をしたけれど、それに対して朱異は手紙を床にたたきつけて暴言はいて癇癪をおこしたので、諸葛恪はしかたないから兵をとりあげて建業に戻した──という風に強引に解釈してもいいかなあとか、思いついたり。
合肥新城攻略に失敗して責任を問われるのを避けるために、という理由なら意表をついて君主を倒せばいいと考えるのもわりと妥当かもしれないし。
で、とりあえず三国志集解をみてみる。結構長くついてるけれど、最後の部分だけ。
三国志集解
……秣陵之石頭城同名異地
この石頭城は豫章にある石頭城で、建業(秣陵)のとは名前が同じだけ、ということらしい。
てことで、朱異は謀反を起こすつもりはなかったんだろう、みたいな。
自分は呉国忠臣だと自分でも殺される時に言ってたみたいだし。
朱異伝注
呉書曰:
綝要異相見,將往,恐陸抗止之,異曰:「子通,家人耳,當何所疑乎!」遂往。
綝使力人於坐上取之。異曰:「我呉國忠臣,有何罪乎?」乃拉殺之。
ここよくわからない
「而用傒子言」これ前科者って訳だけど集解みてもいまいちわかりづらいので保留ー。
なんで豫章を攻撃?
「異又隨諸葛恪圍新城,城既不拔,異等皆言宜速還豫章,襲石頭城,不過數日可拔。」の続き。
豫章って呉だったと思うけど、これについてはゲーム的に領土を塗りつぶせるなら呉でもその内側でごたごたがいっぱいあったのが呉だったという気がするので、そういうことなのかな。これもこれ以上調べる気力がないのでまあいいや。
(旧ブログ2014.05.04記事移転)