鍾会は死後、瘟神(疫病神)として捜神記から現代まで現役ともいえるけど。
生まれる前(鍾会は225年生まれ)の時代にも存在しているらしい部分もあったり。
殷の時代から現代まで生き続けている鍾会さんというイメージ-武王伐紂平話メモ
http://3594.atehs.net/archives/899
ここで書いたけれど、新ブログでも改めて確認しておきたかったり。
前回の記事からの続き。
▼死後の鍾会(鍾士季)?
まずは五瘟神の名前を確認。
五瘟神(女青鬼律)
東方――劉元達
南方――張元伯
西方――趙公明
北方――鍾士季
中央――史文業・五瘟使者(三教源流捜神大全)
春瘟――張元伯
夏瘟――劉元達
秋瘟――趙公明
冬瘟――鍾仕貴
総管中瘟――史文業・五福大帝(ウィキペディア……)
顯靈公――張元伯
應靈公――鍾士秀(一作鍾士季)
宣靈公――劉元達
揚靈公――史文業
振靈公――趙公明(一作趙光明)
最後の出典がウィキペディア(中文)なのはあれだけどこれしかみつからなかったんだししかたないってことで。
五福大帝の応霊公とかは三教源流捜神大全にも応霊の部分があったので、その頃からあった様子。
▼「全相武王伐紂平話」(元)の鍾士季、ないしは殷の鍾士季(鍾士才)?
以上はリアル鍾会(三国志の登場人物としての)死後のことだけれど。
鍾会には、鍾会誕生(225年)以前にも存在しているという設定があったり。
で、五瘟神(名前は微妙に違うけれど)の名前が登場するのが、「封神演義」の元ネタの一つ「武王伐紂平話」だったり。
封神演義には趙公明は登場していてかなり目立つ人物になっているけれど、他の4人は割愛されたっぽいのが個人的にすごく残念だけどとりあえず「武王伐紂平話」。
全相平話二種画像・テキストデータ
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/pinghua.html全相武王伐紂平話 巻中
http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/fazhou002.html飛虎便起三萬雄兵、直知朝歌至近下寨。時有人奏與紂王、紂王大怒、令宣五將去捉飛虎。
五將者、是史元格、趙公明、姚文亮、鍾士才、劉公遠。五將領兵。三萬來趕飛虎、迎著飛虎、次戰二日、敗了五將、令一小校將回文奏帝。
紂王聞奏大怒、又宜左將鰕吼、右將佶留留領兵三干、五將同征飛虎。兩陣決戰、不到數合、被飛虎殺退紂兵。
紂將令一小校將回文采奏、詣於殿下、山呼萬歲、「臣啟陛下、如今五將并左右將殺不及飛虎、被飛虎當陣上剮了使命。」
五瘟神はここでは「五将」となっていたり。
「五将」それぞれの名前は、「五將者、是史元格、趙公明、姚文亮、鍾士才、劉公遠」とある。
五瘟神に比べると、名前の違いは多めではあったり。
比較するとこう。
●五瘟神(五将)の名前比較
女青鬼律 三教源流 五福大帝 武王伐紂(五将)
劉元達 劉元達 劉元達 劉公遠
張元伯 張元伯 張元伯 史元格
趙公明 趙公明 趙公明 趙公明
鍾士季 鍾仕貴 鍾士秀 鍾士才
史文業 史文業 史文業 姚文亮
「武王伐紂平話」では、封神演義にも登場する趙公明(趙公明は五瘟神以外にも道教神として重要)以外は、全員名前が微妙に変わっていたり。
特に史元格と姚文亮は、張元伯と史文業のどっちのバリエーションなのか微妙だけど、混ざってるのかなとも思えたり。
とはいえ劉元達と劉公遠あたりは、文字の見た目は似てるし、基本的にはそういう変化なのかも。
で、「武王伐紂平話」の内容は殷というか殷周革命の時代だけど、「武王伐紂平話」自体は元の時代くらい。
なので、「武王伐紂平話」の五将は、五瘟神の名前をうろ覚えとかあやふやとか、あるいは呼びやすいとか何らかの理由から微妙にアレンジされた名前になって登場することになったんだろうなあとか。
▼やたら変化しやすい鍾士季の名前?
それにしても鍾会は「鍾士季 鍾仕貴 鍾士秀 鍾士才」って感じで、全部名前変わってたり。
「鍾」じゃなくて「鐘」になってるのは、この際誤差として除外しても(これ以外でもしょっちゅう鐘になってる)。
これについては、「季」は悪い意味じゃないにしても良い意味でもないし、他の4人と比べると文字面的に有り難みが薄いから、有り難みのある文字に変えようというニーズがあったのかなあとか。
「季」は季節とか末っ子とか。
で、「貴」「秀」「才」どれも「季」より良い意味だし。
▼趙公明について
この5人の中で、一番名前が変わらず、封神演義には一人だけ登場している趙公明。
五瘟神の中で、「捜神記」には趙公明と鍾士季だけ登場していることから、たぶん古いメンバーの一人なんだとは思うけれど。
「三教源流捜神大全」には、五瘟神(五蘊使者)の項目とは別に、「趙元帥」として単独で登場してたり。
てことで、封神演義に登場する趙公明は、五瘟神の代表としてというよりは、「趙元帥」のほうの趙公明として登場したんじゃないかなとか。
つまり、趙公明が五瘟神の中で特別というわけでもなさそうとか。
五瘟神の名前のなかでどれも特別さは感じさせる部分はない。
五行の西にあたって中央でもないし、最初に書かれるわけでもない(五行の春から書くという理由にしても)。
▼五瘟神と五将の性格?
五瘟神は疫病神。
元来疫病神系が恐れられて丁重に扱われた結果地位が神格が上がる、ということは、元が似たような性格だったはずの西王母や、日本でもメジャーな神となった菅原道真とかを考えるとよくあることな印象。
だから、元疫病神だった五瘟神が現在も五福大帝として祀られているというのは、それほど不思議でもなかったり。
長崎にも一時は唐寺に五瘟神系の神が祀られていたらしいという話は、個人的にロマン。
CiNii 論文 – 長崎唐寺の媽祖堂と祭神について : 沿海「周縁」地域における信仰の伝播 https://t.co/aJM5qoTbEq #CiNii
https://t.co/7VKfhVK63o
五瘟神のこととかも。
— medamayaki (@medamayaki1) 2016, 1月 2
一方で、「武王伐紂平話」。
殷周革命の話。
「封神演義」の趙公明も殷側(主人公は周側なので敵側)で登場するけれど。
「武王伐紂平話」の五将も殷の将軍として登場していたり。
てことでこの五瘟神たちは主人公側で登場する神ではない――という性質の神ではあったのだろうという印象。
▼鍾士季は何年生きたのか
てことで。
鍾会(鍾士季)は、殷周革命の時には殷側の将軍として生きていた設定があるということに。
なので、牧野の戦い(殷周革命の戦い)がウィキペディアによると「紀元前1027年又は紀元前1046年」ってことらしいので、古めのほうをとると「紀元前1046年」ということに。
なので、現代まで神としては生き続けていると考えると、鍾会は3000年以上は存在し続けているということに。
仙人だと3000歳とかよくある記述な気もするけれど。
実際に殷のころから今まで生きるとしたらどんな感覚なのかなということは個人的に気になることではあったり。
とりあえず今回の記事はこの辺まで。
おわり。
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