これを読んでて考えたこととか。
(東洋文庫リポジトリ)
江南知識人にとっての宋元交替:徽州における地域の保全と社会秩序の構築
http://www.i-repository.net/il/meta_pub/G0000171kenkyu_2476
このPDFの14ページ目に、朱子の「〈徽州婺源縣學三先生祠記」関連についてあったり。
これは徽州の知識人が建てる三先生祠(周、二程)の撰写を断りたいという内容だけれど、その理由がこんなふうに述べられていたり。
私(朱熹)は三先生の道が高くて立派であると思うが、この婺源は、彼らの故郷ではなく、居住地でもなく、官僚となって赴任した地でもない。……
とか。
で、三国志関連で気になったこと。
徐庶の死後、その碑が彭城に建てられた「庶後数年病卒、有碑在彭城、今猶存焉」とある部分。
諸葛亮伝注
魏略曰、
庶先名福、本単家子、
少好任俠撃剣。中平末、嘗為人報讎、白堊突面、被発而走、為吏所得、問其姓字、閉口不言。吏乃於車上立柱維磔之、撃鼓以令於市鄽、莫敢識者、而其党伍共篡解之、得脫。於是感激、棄其刀戟、更疏巾単衣、折節学問。始詣精舍、諸生聞其前作賊、不肯与共止。福乃卑躬早起、常独掃除、動静先意、聴習経業、義理精熟。遂与同郡石韜相親愛。初平中、中州兵起、乃与韜南客荊州、到、又与諸葛亮特相善。及荊州内附、孔明与劉備相隨去、福与韜倶来北。
至黄初中、韜仕歴郡守、典農校尉、福至右中郎将、御史中丞。
逮大和中、諸葛亮出隴右、聞元直、広元仕財如此、嘆曰、「魏殊多士邪!何彼二人不見用乎?」
庶後数年病卒、有碑在彭城、今猶存焉。
『魏略』にいう。
徐庶は初めの名を徐福といい、もともと名家の出ではなかったが、
……
黄初年間に至って、石韜は仕官して郡守、典農校尉を歴任し、徐福は右中郎将、御史中丞にまで昇った。
太和年間に及び、諸葛亮は隴右に出兵した際、元直と広元がそんな官にしかついていないと聞くや、慨嘆していった、「魏はとりわけ人物が多いのだろうか。どうしてあの二人は用いられないのだろうか」
徐庶は、その後数年して病気でなくなった。その墓碑は彭城にあり、なお現存している。
徐庶は潁川の生まれでその後荊州にいって、その後曹操に従って魏に仕官したけれどそれは「福至右中郎将、御史中丞」。
ちなみに徐庶が頴川の人なのはこの辺。
諸葛亮伝
身長八尺、毎自比於管仲、楽毅、時人莫之許也。
惟博陵崔州平、潁川徐庶元直与亮友善、謂為信然
で、ともかくこの魏略に記されている生前の徐庶関連の土地は、
頴川→荊州→(福与韜倶来北)→右中郎将(中央)→御史中丞(中央)
ってことなので、彭城(徐州)は関係なかったり。
で、さっきの朱熹のになるけれど。
「彼らの故郷ではなく、居住地でもなく、官僚となって赴任した地でもない」土地には祠を作るのはおかしいと言っていたり。
祠と徐庶の「碑」が同じかはともかく似たようなものだとは思うし。
それに、徐庶の位置付けが三先生より高いわけはない以上、三先生ですらだめならまして徐庶が縁もゆかりもない土地に碑とか建てられるのも変だろうし。
てことで、「福至右中郎将、御史中丞」とあってさらに「庶後数年病卒」とあるから、御史中丞の後外に出されて彭城の方に赴任したならたぶんそう書くんじゃないかなあという気はするし、彭城に徐庶がいたことがあるとしたら、「至黄初中、韜仕歴郡守、典農校尉、福至右中郎将、御史中丞」てことで黄初年間(曹丕の時代)になる前、曹操の時代かあるいは黄初年間の最初のころに徐庶は彭城にいたことがあったんじゃないかなあとか思ったり。
で、その後「右中郎将、御史中丞」と順調に出世してるから、その辺での評判が相当良かったんじゃないかなとも。じゃないと「庶後数年病卒、有碑在彭城、今猶存焉」の不思議さが残ったまま。
まあ、故郷、居住地、赴任地のどれかならおかしくないということなら故郷は潁川だから不可能として、居住地ということもあり得なくはないにしても、赴任先でもなく故郷でもなく彭城に住むというのもなんでだろうって気もするし。
てことでたぶん徐庶は彭城で善政をしいて慕われてた、と考えることにするー。
あと魏略の名前は最後以外「福」なので、名前変えたの死ぬ寸前くらいなのかなあとも。
あと徐福っていうとあの始皇帝騙して日本に来たという徐福がいるから、紛らわしいなあとも。
彭城だとそれなりに東だから日本にも近いかな。
ついでに徐庶関連のまとめたのはここ。
http://hane.ciao.jp/medamayaki1/san/jin_josyo
そのうちこれもこっちにひっこそうかなあ。
おわり。
(旧ブログ2015.2.15記事移転)