徐質(じょしつ)は魏の将軍。字、生年、出身地等詳細は不明。徐質伝はなし。
同姓同名の徐質(魏の利成太守)がいるが、たぶん別人(姜維の北伐前に殺されているため)。
「三国志」内に徐質が登場する箇所は3箇所(利成太守を除く)にすぎない。
ただし、討死したりさせたりしているため、姜維の北伐、また郭淮、陳泰関連人物としてそれなりに存在感がある。
254年の姜維の北伐のとき、魏の討蜀護軍として雍州刺史陳泰のもと従軍、襄武において蜀の張嶷と戦い張嶷を戦死させ、その後姜維と戦って斬られた。
それ以外の事績は不明。
参考資料――索引(ちくま)
徐質(魏の利成太守)
①203徐質(魏の将軍)
③479(陳泰伝)
⑤405、424(張嶷伝)(姜維伝)
徐質とは何者か――魏の討蜀護軍
陳泰伝には、徐質について「討蜀護軍徐質」との記述がある。
ちなみに当時陳泰は、雍州刺史。
郭淮の後任として雍州刺史になり、後に郭淮が死ぬとまたその後任として征西将軍となった。
(陳泰伝)
蜀大将軍姜維率衆依麹山築二城、使牙門将句安、李歆等守之、聚羌胡質任等寇偪諸郡。征西将軍郭淮与泰謀所以御之、泰曰、
「麹城雖固、去蜀険遠、当須運糧。羌夷患維労役、必未肯附。今囲而取之、可不血刃而拔其城;雖其有救、山道阻険、非行兵之地也。」
淮従泰計、使泰率討蜀護軍徐質、南安太守鄧艾等進兵囲之、断其運道及城外流水。安等挑戦、不許、将士困窘、分糧聚雪以稽日月。維果来救、出自牛頭山、与泰相對。泰曰、
「兵法貴在不戦而屈人。今絶牛頭、維無反道、則我之禽也。」
敕諸軍各堅壘勿与戦、遣使白淮、欲自南渡白水、循水而東、使淮趣牛頭、截其還路、可並取維、不惟安等而已。淮善其策、進率諸軍軍洮水。維懼、遁走、安等孤県、遂皆降。(254)
蜀の大将軍姜維は軍勢をひきつれ麹山を利用して二つの城を築き、牙門将句安(こうあん)・李歆(りきん)らにそれを守備させ、羌族の人質などを集めて諸郡に侵入した。征西将軍の郭淮は陳泰にそれを防御する手段について相談した。陳泰はいった、
「麹城は堅固ではありますが、蜀からけわしい道をへだてて遠く離れており、当然兵糧の運送を期待しなければなりません。羌族は姜維の労役を厄介がっており、積極的に味方をしないにちがいありません。今、包囲してそれを奪えば、刃を血にぬらさずにその城を陥落できましょう。彼らに救援があったとしても、山道は険阻で、兵を動かせる土地ではございません。」
郭淮は陳泰の計略に従い、陳泰に討蜀護軍の徐質、南安太守の鄧艾らを統率させ、軍をすすめて彼らを攻撃させ、その運送路と城外の流水を断ち切らせた。句安らが戦いをいどんでも応戦を許さなかったので、〔蜀の〕将兵は困窮し、食糧を配分し〔水の代わりに〕雪を集めて月日を引き伸ばした。
姜維は予想通り救援に来、牛頭山から出て陳泰と対峙した。
陳泰は、「兵法では戦わずに敵を屈服させることを高く評価する。(『孫子』謀攻)今、牛頭の道を断ち切り、姜維の帰路がなくなれば、われわれのとりことなる」
といい、諸軍に各自とりでを固めて戦いを交えてはならぬと命令した。使者をやって郭淮に進言し、自分は南方に進んで白水を渡り、水路にそって東に向うつもりだから、郭淮は牛頭に向い、その帰路をさえぎってほしい、ただ句安らだけでなく姜維もあわせてとらえるべきだと述べた。郭淮はその策に賛成し、諸軍をひきいて進み、洮水に軍を置いた。姜維は恐れて逃走したので、句安らは孤立無援となり、かくて全員降伏した。
「討蜀護軍」とは何か
討蜀護軍で思い出されるのは、この時(254年)より少し以前(249年)に蜀に亡命した夏侯覇が「討蜀護軍」あるいは「征蜀護軍」であったことである。
夏侯覇について「討蜀護軍」「征蜀護軍」いずれの表記もあるため同じものをさすのであろう。
「征蜀護軍」には、曹真、夏侯儒、夏侯覇などの名がある。
また、夏侯覇に関連して「正始年間にいたって、夏侯儒に代わって征蜀護軍となり、征西将軍の配下に属した」とあるので、「討蜀護軍」あるいは「征蜀護軍」は征西将軍に属する様子。
時期的に、おそらく夏侯覇の後任の「討蜀護軍」あるいは「征蜀護軍」。
また、その他の「討蜀護軍」あるいは「征蜀護軍」がみな魏の皇族にあたること(夏侯儒は推測)をみると徐質が何者かの謎が深まる。
徐質と張嶷の戦い
魏書は徐質についてはこれ以上書いていないので、徐質の戦いについては蜀の張嶷伝に書かれたことしかうかがい知ることはできない。
徐質は張嶷と戦い、多大な被害は被りながらも、張嶷を戦死させている。
(張嶷伝)
是歳延熙十七年也。魏狄道長李簡密書請降、衛将軍姜維率嶷等因簡之資以出隴西。既到狄道、簡悉率城中吏民出迎軍。軍前与魏将徐質交鋒、嶷臨陣隕身、然其所殺傷亦過倍。
この年は延熙十七年(254)であった。魏の狄道の長である李簡が密書をよこして降伏を願い出た。衛将軍の姜維は張嶷らを率い、李簡の軍資を頼みとして隴西に出陣した。狄道に到着すると、李簡は城下の吏民を率いて軍を出迎えた。
軍を進めて魏の将徐質と合戦し、張嶷は陣中で落命したが、味方の損害の倍以上の敵兵を殺傷した。
徐質の死
254年の姜維の北伐は、253年の費禕横死(暗殺された)直後の北伐の翌年に行われたものである。
徐質は襄武において姜維と戦って戦死している。
(姜維伝)
魏雍州刺史陳泰解圍至洛門,維糧盡退還。
明年(254),加督中外軍事。復出隴西,守狄道長李簡舉城降。進圍襄武,與魏将徐質交鋒,斬首破敵,魏軍敗退。
維乘勝多所降下,拔河間狄道、臨洮三縣民還。
後十八年(255),復與車騎将軍夏侯霸等俱出狄道,大破魏雍州刺史王經於洮西,經眾死者數萬人。經退保狄道城,維圍之。
魏徵西将軍陳泰進兵解圍,維卻住鐘題。翌年(254)、督中外軍事の官位を加えられた。
ふたたび隴西に出陣したところ、狄道を守備していた県長の李簡が城を挙げて降伏した。
侵攻して襄武を包囲し、魏の将徐質と交戦して、首を斬り敵をうち破ったため、魏軍は撤退した。
姜維は勝ちに乗じ、多数の敵兵を降伏させ、河関・狄道・臨洮の三県の住民を拉致して帰還した。
参考資料-254年北伐関連
(後主伝)
十七年春正月,姜維還成都。大赦。
夏六月,維復率衆出隴西。
冬,拔狄道、(河間)[河関]、臨洮三縣民,居於綿竹、繁縣。(斉王紀)
(254)(秋九月,大将軍司馬景王将謀廢帝,以聞皇太后。)
(注)世語及魏氏春秋並云:此秋,姜維寇隴右。時安東将軍司馬文王鎮許昌,徵還撃維,至京師,帝於平樂觀以臨軍過。中領軍許允與左右小臣謀,因文王辭,殺之,勒其衆以退大将軍。……(高貴郷公紀)
……其日即皇帝位於太極前殿,百僚陪位者欣欣焉。……
正元元年(254)冬十月……癸巳,假大将軍司馬景王黄鉞,入朝不趨,奏事不名,劍履上殿。
徐質まとめ
徐質についての記述は少ないのでこれ以外のことは不明。
また、この254年の姜維の北伐については、今回はこれ以上は触れない。
資料-三国志13の徐質
山賊と見紛うグラをもらっているが、討蜀護軍についたその他の顔ぶれをみると、正史的イメージとしては少し違うのかもしれない。
関連
北伐、討蜀護軍