(移転記事)
孫歆さんは空飛ぶ船を見たかもしれない。
陸景は楽郷にいたけど、この人も楽郷にいた人なので、気になったり。
三国志の孫歆
ちくま索引によると1箇所だけ登場。
しかも注にあるだけ。
孫賁伝注
呉歴曰:
鄰又有子曰述,為武昌督,平荊州事。
震,無難督。諧,城門校尉。
歆,楽郷督。
震後御晉軍,與張悌俱死。
賁曾孫惠,字德施。
孫賁の子孫鄰の子の一人で楽郷督だったとか。
陸景は楽郷にはきてたけど、「中夏督」ってあるからもともと楽郷にいた人じゃなかったぽい。
晋書杜預伝の孫歆
孫歆と陸景はどちらも楽郷にいたみたいなので、いまいちわかりづらいんだけど。
晋書杜預伝には孫歆は出ていても陸景の名前はないので、陸景は成都からきた王濬の方に敗れたってかいてあるし、なんか晋軍いろいろまざってたのかなあみたいな。
晋書杜預伝
預乙太康元年正月,陳兵於江陵,遣參軍樊顯、尹林、鄧圭、襄陽太守周奇等率眾循江西上,授以節度,旬日之間,累克城邑,皆如預策焉。
又遣牙門管定、周旨、伍巢等率奇兵八百,泛舟夜渡,以襲樂鄉,多張旗幟,起火巴山,出於要害之地,以奪賊心。
吳都督孫歆震恐,與伍延書曰:「北來諸軍,乃飛渡江也。」
吳之男女降者者萬餘口,旨、巢等伏兵樂鄉城外。
歆遣軍出距王浚,大敗而還。
旨等發伏兵,隨歆軍而入,歆不覺,直至帳下,虜歆而還。
故軍中為之謠曰:「以計代戰一當萬。」於是進逼江陵。
吳督將伍延偽請降而列兵登陴,預攻克之。既平上流,於是沅湘以南,至於交廣,吳之州郡皆望風歸命,奉送印綬,預仗節稱詔而綏撫之。
凡所斬及生獲吳都督、監軍十四,牙門、郡守百二十餘人。
又因兵威,徙將士屯戍之家以實江北,南郡故地各樹之長吏,荊土肅然,吳人赴者如歸矣。王浚先列上得孫歆頭,預後生送歆,洛中以為大笑。
こんな感じ。
斬ったり生け捕りにした呉の人の数とかもあったり。
孫歆の言葉、演義と杜預伝の比較
演義と杜預伝にある孫歆の言葉。
三国志演義120
仰天した孫歆が、
「晋の軍勢は、長江を飛んで渡ったのか」
と、急いで退こうとするおりしも、周旨が大喝一声、馬上から斬って落とした。杜預引兵前進。孫歆船早到。兩兵初交,杜預便退。歆引兵上岸,迤邐追時,不到二十里,一聲砲響,四面晉兵大至,吳兵急回。杜預乘勢掩殺,吳兵死者,不計其數。孫歆奔到城邊,周旨八百軍混雜於中,就城上舉火。
歆大驚曰:「北來諸軍乃飛渡江也!」急欲退時,被周旨大喝一聲,斬於馬下。陸景在船上,望見江南岸上一片火起,巴山上風飄出一面大旗,上書:「晉鎮南將軍杜預。」陸景大驚,欲上岸逃命,被晉將張尚馬到斬之。伍延見各軍皆敗,乃棄城走,被伏兵捉住,縛見杜預。預曰:「留之無用!」叱令武士斬之。遂得江陵。
比較してみると。
(晋書杜預伝)
吳都督孫歆震恐,與伍延書曰:「北來諸軍乃飛渡江也。」(三国演義)
歆大驚曰:「北來諸軍乃飛渡江也!」
手紙と台詞の違いはあるけれど、孫歆の言葉自体は完全に同じだったり。
晋軍が楽郷を空爆した説
「晋の軍勢は、長江を飛んで渡ったのか」(平凡社訳)だけど。
原文とつきあわせると、読む方の都合次第では、別に飛んで渡った、という風にとっても良さそう。
てことで、「又遣牙門管定、周旨、伍巢等率奇兵八百,泛舟夜渡,以襲樂鄉」の解釈を、「杜預は牙門の周旨らに800の兵を率いさせて夜に船を長江に浮かべさせたあと離水させて長江の対岸にある楽郷を空襲させた」としてもいいかも。
船は空飛ばないという先入見がなければ充分ありえそうとも。
なので、演義の孫歆の書き方は(陸景もたいがいだけど)すごく臆病に見えるけれど、実際に晋軍が空を飛んで攻撃してきたというのならば、むしろ孫歆はそれを冷静に認識し(杜預伝なら手紙まで書いた)空爆の前には最終的にはどうすることも出来ずに投降しただけ、という人と解釈することもできそう。
あとついでに陸景
陸景は、呉書によると中夏督で、晋書ではあちこちで水軍督とあるけど、中夏から水軍率いて楽郷に来てたとか?
よくわからないけど、とりあえず考え中。
おわり。
(2014.5.15の移転記事)