2016.11.29
5063文字 / 読了時間:6.3分程度
三国志

前回の記事「諸葛亮と234年」の時に気になった陸遜について考えてみる。

自分なりに解釈できないと自分にとっては意味ないと思うので考える。

陸遜は好きな人物の一人でもあるし。

陸遜の性格?

今まで随分、陸遜がどんな性格なのかわりとつかみどころがない感じだった。陸遜伝を見ても私的なことはほとんど書いてなかったり。
そこから、陸遜はあまり私的なことに重点を置かない人物だと考えることもできるだろうけれど。

少なくとも仕事はやる気あったのは確かだと思う。

陸遜の忠臣像?

陸遜の忠臣イメージは(あるとしたら)この辺が元になっているんじゃないかとは思ったり。

(陸遜伝)

遜雖身在外,乃心於國。

陸遜は、中央から離れることになっても、心はつねに国家のうえにあり

仕事熱心なら、国のことはべつに忠臣的発想はなくても、ほっといてもいつも考えるということはあると思う。

だからなんとなく、孫呉に忠臣かは保留。

陸遜という権臣は誰に似ているか

前後するけれど、同じく陸遜伝の、

(陸遜伝)

時事所宜,権輒令遜語亮,並刻権印,以置遜所。権每與禅、亮書,常過示遜,輕重可否,有所不安,便令改定,以印封行之。

そのときどきの情勢に対処するためにとる施策について、孫権はつねに陸遜を通じて諸葛亮に説明をさせ、また同時に孫権の印璽を刻って、それを陸遜のもとに置かせた。

これも、国(呉)のことを自分で仕切りたがる権臣陸遜に孫権は配慮しなければならなかった(したくはなかったけれど、とか)、という風に考えることもできそう。

六朝時代は呉からだった気がするし、東晋の王導とか桓温みたいな人物の先駆者(あるいはなりえる)の要素はあったのかもしれないとも思いついたり。

ただ、似ている人物を探して、その人物がどうふるまったか、記述が残っているかをみることは、結構いろいろ捗るんじゃないかとは思ったり。

治世の能臣乱世の奸雄系陸遜という解釈はありえるか

で、なんとなく思いついたアイデア。

曹操についてのこれ。

(武帝紀注)

孫盛異同雜語云、……
嘗問許子将、「我何如人?」子将不答。固問之、子将曰、「子治世之能臣、乱世之奸雄。」

孫盛の『異同雑語』にいう。……
あるとき許子将に、「わたしはどういう人間でしょうか」と質問したことがあった。
許子将が返事をしないでいると、あくまでも訊ねた。
許子将はいった、「君は治世にあっては能臣、乱世にあっては姦雄だ。」
太祖は哄笑した。

呉での陸遜は、乱世でなかったから治世之能臣で終わった(一応憤死とかしているところもなんとなくイメージへの影響強そう、悲劇的→悪くないとかで)だけ、という陸遜像はどうかな。

陸遜の得意なこと

陸遜の記録に残っているなかで特徴的なことが、嘘手紙だと思う。

関羽宛と、もうひとつ236年(陸遜伝。多分234年のことだと考えている)の手紙。

(陸遜伝)

遜至陸口,書與羽曰:
“前承觀釁而動,以律行師,小舉大克,一何巍巍!敵國敗績,利在同盟,聞慶拊節,想遂席捲,共獎王綱。近以不敏,受任來西,延慕光塵,思廩良規。”

陸遜は、陸口に着任すると、関羽に手紙を送っていった、
「さきに承りましたところでは、あなたさまは、相手のすきを見て取って行動をおこされ、兵法どおり軍を進めて、小さな力でもって大きな勝利をおさめられましたとのこと。なんと高々とそびえたつ立派なご手腕でございましょう。
敵国が大敗を喫しましたことは、同盟国であるわが国にとっても幸いなことであり、勝利を収められたとのめでたい知らせを聞いて手を打って喜びました次第でございます。
思いますに、やがては敵国を完全に伐ち平らげられ、両国がともども王者の統治を実現するべく協力しあうことともなりましょう。
このたび非才の私が任務を授けられて西方にやってまいりましたが、あなたさまの輝かしさを仰ぎ慕い、立派なご計略でもってわれわれにもご助言いただけますよう願っております」

(陸遜伝)

又魏江夏太守逮式兼領兵馬,頗作邊害。而與北舊将文聘子休宿不協。遜聞其然。
即假作答式書云:”得報懇惻,知與休久結嫌隙,勢不兩存,欲來歸附,輒以密呈來書表聞,撰衆相迎。宜潛速嚴,更示定期。”
以書置界上,式兵得書以見式,式惶懼,遂自送妻子還洛。由是史士不復親附,遂以免罷。

……
陸遜は、そうした事情を聞きつけると、逮式へのにせの返書をつくり、次のように書いた、
「お心のこもったお手紙をいただきました。文休とは久しく仲違いをされており、双方が並立できぬ情勢から、わがほうへ身を寄せて来たいと願っておられること、承知いたしました。すぐさまお手紙をひそかに陛下のもとにお送りし事情について報告の上表をいたすとともに、兵士たちをえりすぐってお迎えする準備もととのえました。どうか隠密に用意をととのえられたうえで、実行の時期についてお知らせくださるように。」

陸遜は、嘘の手紙を使って人を騙すのは得意だった様子。

234年(陸遜伝では236年)の陸遜の行動について

陸遜伝のここの不思議な印象。
ここ、年代含めて結構いろいろひっかかる箇所だと思ったり。

(陸遜伝)

嘉禾五年(236),権北征。使遜與諸葛瑾攻襄陽。遜遣親人韓扁□表奉報,還。遇敵於沔中,鈔邏得扁。瑾聞之甚懼。書與遜云:”大駕已旋,賊得韓扁,具知吾闊狹。且水干,宜當急去。”
遜未答,方催人種葑豆,與諸将欒棋射戯如常。瑾曰:”伯言多智略,其當有以。”自來見遜,
遜曰:”賊知大駕以旋,無所復戚,得專力於吾。又已守要害之處,兵将意動,且當自定以安之,施設變術,然後出耳。今便示退,賊當謂吾怖,仍來相蹙,必敗之勢也。”
乃密與瑾立計,令瑾督舟船,遜悉上兵馬,以向襄陽城。敵素憚遜,遽還赴城。瑾便引船出,遜徐整部伍,張拓聲勢,歩趨船,敵不敢幹。軍到白圍,託言住獵,潛遣将軍周峻、張梁等擊江夏新市、安陸、石陽,石陽市盛,峻等奄至,人皆捐物入城。城門噎不得關,敵乃自斫殺己民。然後得闔。斬首獲生,凡千餘人。其所生得,皆加營護,不令兵士千擾侵侮。将家屬來者,使就料視。若亡其妻子者,即給衣糧,厚加慰勞,發遺令還,或有感慕相攜而歸者。鄰境懷之,江夏功曹趙濯、弋陽備将裴生及夷王梅頤等,並帥支黨來附遜。遜傾財帛,周贍經恤。

……
陸遜は、すぐには返事をせず、人々をせきたててかぶらや豆を種えさせ、部将たちと囲棋や弓矢あそびに打ち興じて平生と変わることがなかった。
……
陸遜がいった、
「敵は、陛下の鹵簿が帰途についたことを知れば、他を心配する必要もなく、われわれのほうに力を集中してくることができる。
それにすでに要害の地を固めており〔退却も困難であって〕、兵士たちの心は動揺するであろう。
ここはひとまずみずからがおちついて兵士たちを安心させ、巧妙な策略を用意したうえで、脱出せねばならないのだ。
いま急いで退却する様子を見せれば、敵はわれわれがおじけづいたと考え、かさにかかってつめ寄せてくるであろう。そうなれば万が一にも有利な情勢はひらけない。」

ここは前回の記事(234年の諸葛亮)で気になったところでもあるけれど。

234年の孫権の合肥新城攻めと同時に、諸葛瑾と陸遜が襄陽を攻めることになったけれど、陸遜のミスで危なくなって撤退することになった、という状況。

これ、本当に陸遜がミスしたのか(遜遣親人韓扁□表奉報,還。遇敵於沔中,鈔邏得扁。瑾聞之甚懼)。

それとも、このせいで撤退せざるをえなくなりました、にするための方便なのか。

陸遜の上奏文とかは基本的に、対外的には消極的(あるいは孫権の積極性に対して抑制的、消極的)な印象。

陸遜はこのとき、そもそも襄陽をまともに攻める気がなかった、という考え方もできなくはないんじゃないかなとか。

諸葛亮の北伐的にはこう陸遜が考えたとしたら迷惑なことだけれど、陸遜にとっては陸遜にとって引き合うことしかするつもりがないというのも、まあありえなくはないんじゃないかなとか。

この時の出来事は、裴松之の陸遜嫌悪のもとにもなってるし、もう少し色々考えたいけれど、今回はとりあえずここまで。

有名な夷陵の戦いのこの辺といい、陸遜はわりと自信満々な本心がわからないものの言い方をするタイプだったのかも。

(陸遜伝)

初,孫桓別討備前鋒於夷道,為備所圍,求救於遜。
遜曰:”未可。”
諸将曰:”孫安東公族,見圍已困,奈何不救?”

陸遜がいった、
「まだ救援に赴くべきときではない」
……
「安東どのは兵士たちの心をつかんでおられ、城の防禦は固く食料も十分にあるから、心配な点はまったくない。
私がいま進めている計略が実行に移されれば、わざわざ安東どのの救援に向かわずとも、安東どのがみずから囲みを破って出てこられるであろう。」
……

陸遜の美化

陸遜の憤死について。

(陸遜伝)

権累遣中使責讓遜,遜憤恚致卒,時年六十三。家無餘財。

孫権は、幾度も宮廷からの使者を陸遜のもとに遺って彼を責めたて、陸遜は憤りのあまり死去した。ときに年は六十三。家には何の財産ものこっていなかった。

そもそも、孫権は誤解して陸遜を死なせたのかという疑問。

陸遜が死んだ以上、陸抗までおそれる必要はどこにもなかったから、陸抗とは和解しても問題なかったという可能性もありそう。

孫権的には、陸遜は君主を蔑ろにしすぎていると考えていて、陸遜の憤死は、要するに実質孫権による粛清的なものを、なんとなくきれいな感じに表現したものなんじゃないかなとか。

陸遜伝書いたのは陳寿だし、陸遜については、長さからいっても、かなり陸遜よりに書いたんじゃないかって考えてもよさそうな気はするし。

きれいな表現の陸遜像、はこれとか。

(陸遜伝)

遜與太常潘浚同心憂之,言至流涕。後権誅壱,深以自責,語在権傳。

……
陸遜は太常の潘濬と二人してこれに心を痛め、そのことを語り合ううちに心が激して、涙まで流した。

孫権が、陸遜が気に入らない呂壱を重用していたこと関連の記述。

陸遜の功績の美化

功績の美化の可能性も、そう考えればありえるかもしれない。

陸遜といえば夷陵の戦いの大勝というかんじだけど。

ただ、蜀側とはいえこの記述も気になったり。

(先主伝)

孫権聞先主住白帝、甚懼、遣使請和。先主許之、遣太中大夫宗瑋報命。

ただ、蜀側の記述が蜀寄りだと割り引くなら、呉側の記述もまた同じように呉よりだと割り引いて考えなければならない、はず。

夷陵の戦いは、既存のイメージ(な気がする)呉の大勝で、劉備は失意のうちに死ぬほどダメージをうけたのか、という疑問。

たまたま劉備の病死と時期がかさなったのもあって、夷陵の戦いの蜀側のダメージが過大評価されたという可能性とかはありえそう?
少なくとも考えてみるのは悪くないかも。

演義は蜀よりだけど、蜀の国力自体は過小評価なんじゃないかと思っているし。
その影響自体は、演義アンチ(演義は読んでないけど演義は間違いだらけみたいなw)の先入見にも入っている気はするし。

話が逸れたので戻すけど。

陸遜の襄陽攻めのことが陸遜伝ではおそらく時期がずれて書かれているのも、ミスではなくて、これが陸遜にとって体裁の悪いことだと考えてずらしたかもしれないし。

経緯のよくわからない失敗と、功績なのかよくわからない功績とされているもの。

そんなグレーな感じのする部分ではあったり。

おわりに

陸遜考察については、とりあえず今回はここまで。

ただ最近思っていること。

忠ということについて。

義とかなら個人的に理解可能な気はするけれど(自分なりに)。
忠って、時代とかには関係なく(現代も社畜とか、表面が違うだけだと思っている)、世の中に存在するけれど、個人的に理解しづらいものかなあ。

まあ理詰めで理解はできなくはないと思う。
アプローチの仕方が共感以外になるだけで。

多分、上下関係が根本的に苦手なのはありそう。

この間の真田丸みてて思ったことだけど。

陸遜はまあなぜか元からなんか好きなんだけど(好き嫌いはきっかけが謎なことは多いけど。陸遜は憤死したから好きになった記憶)、こういう陸遜もいいかなとは思っていたり。

そして、上下関係が根本的に苦手なのはありそうってことで、陸遜はあんまり孫権を上とは思っていなそう……。

そういえば陸遜が改名したのはいつなんだろう。

こうみると不遜っぽい印象があるのに、遜とかわざわざ改名するあたりに、その点でもなんとなく性格とか出ていそう。

おわり。





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