孫盛が会った蜀の古老は何歳くらい、あるいは生年はどのあたりが妥当なのか気になったので、考えてみることに。
孫盛が桓温の蜀征伐に従って蜀の古老に会った年?
孫盛と蜀の古老が出てくるのはここ。
(姜維伝注)
孫盛晉陽秋曰:
盛以永和初從安西将軍平蜀,見諸故老,及姜維既降之後密與劉禅表疏,説欲偽服事鍾會,因殺之以復蜀土,會事不捷,遂至泯滅,蜀人於今傷之。
盛以為古人云,非所困而困焉名必辱,非所據而據焉身必危,既辱且危,死其将至,其姜維之謂乎!鄧艾之入江由,士衆鮮少,維進不能奮節綿竹之下,退不能總帥五将,擁衛蜀主,思後圖之計,而乃反覆於逆順之間,希違情於難冀之會,以衰弱之國,而屢觀兵於三秦,已滅之邦,冀理外之奇舉,不亦闇哉!孫盛の『晋陽秋』にいう。
私孫盛は、永和の初年、安西将軍(桓温)の蜀平定に随行し、古老たちと会った。
姜維が降伏した後、ひそかに劉禅に上奏文を送って、鍾会に服従したふりをし、機会をとらえて彼を殺し、蜀の国土をとり戻すつもりだと申し送ったが、計画が失敗に帰したため、けっきょく滅亡になったという話になると、蜀の人々は今でもこれを残念がっていた。
ここだと「永和初」と曖昧だけど、成漢が滅んだ年なので、これは永和3年(347年)。
劉璿伝の注には、ちゃんと三年と書いてあったり。わかっててちゃんと書かないのは、感覚の違いなのかなあ。おかげで色々混乱するから迷惑被ってるけど。
まあそれはいいとして。
(劉璿伝注)
孫盛蜀世譜曰、璿(劉璿)弟、瑤、琮、瓚、諶、恂、璩六人。蜀敗、諶自殺、余皆内徙。值永嘉大乱、子孫絶滅。
唯永(劉永)孫玄(劉玄)奔蜀、李雄偽署安楽公以嗣禅後。永和三年討李勢、盛参戎行、見玄於成都也。
蜀滅亡は263年、鍾会の乱は264年
蜀滅亡と鍾会の乱の年は、263年秋から264年正月のあいだ。
これについてはまあいいや。
蜀の古老の生年他?
鍾会の乱の年に生まれた場合、264年で1歳(数え)。
孫盛が蜀に来た年には、347年で84歳(数え)。
てことで、蜀の古老は、鍾会の乱当時生きていたとしても少なくとも84歳の古老程度では、鍾会の乱当時のことは直接知っているわけではないという感じ。
ただし、鍾会の乱当時20歳だったとしたら、孫盛に会った時に104歳。15歳だったとしたら99歳。10歳だったら94歳。6歳だったら90歳。
蜀漢に仕えていたことがある人物なら、347年には100歳程度にはなっている感じ?
結論?
てことで。
孫盛が会った蜀の古老たちも、90歳以上なら鍾会の乱当時6歳以上だったということに。
蜀の古老の話が又聞きでないこととして考えるなら、90歳以上と考えないと苦しいかも。
ついでにこの辺の状況から、蜀の古老たちから聞いた話というのが事実だとしても、その話自体がどの程度信用できるかの評価もできるかも。
おわり。