クンデラの「カーテン」?
タイトルが「カーテン」だけだと、いかにも小説のタイトルっぽくて紛らわしいけれど、評論集。
小説論だけでもないけれど、小説がメインかな。
クンデラ「カーテン」付箋代わりのページ数メモ
付箋や傍線代わりにページ数のメモをとったので、まずはそれから。
12.15.16.17.18.19.21.38
43.47.
75.81.84.88.89
94.99.101.111.114.115.116.121
128.182.186
194.197
クンデラ「カーテン」目次
目次が見当たらなかったのでメモ。
「カーテン 7部構成の小説論」
第一部 継続性の意識
継続性の意識/歴史と価値/小説の理論/哀れなアロンソ・キハーダ/「ストーリー」の圧政/現在時を求めて/〈歴史〉という言葉の多様な意味/人生の、突然の密度の美/些細なものの力/ある死の美/繰り返すことの恥
第二部 世界文学
宰相の空間のなかの最大の多様性/取り返しのつかない不平等/世界文学/小国の地方主義/大国の地方主義/〈東側〉の人間/中央ヨーロッパ/現代主義的反抗の相対立する道/私の偉大なプレイヤード/キッチュと卑俗/反=現代的な現代主義
第三部 事物の魂に向かうこと
事物の魂に向かうこと/根絶しがたい誤謬/状況/ただ小説だけが言いうること/思考する小説/本当らしくないことの境界はもはや監視されていない/アインシュタインとカール・ロスマン/冗談礼賛/ゴンブローヴィチのアトリエから見た小説の歴史/もう一つの大陸/銀色の橋
第四部 小説家とは何か
理解するには比較しなければならない/詩人と小説家/ある回心の物語/悲劇の穏やかな微光/引き裂かれたカーテン/栄光/誰かが私のアルベルティーヌを殺してしまった/マルセル・プルーストの判決/本質的なもののモラル/読書は長く、芸術は短い/幼い少年とその祖母/セルバンテスの判決
第五部 美学と実存
美学と実存/アジェラストたち/ユーモア/そしてもし悲劇的なものが私たちを見捨ててしまったのだとしたら/脱走兵/悲劇の連鎖/地獄
第六部 引き裂かれたカーテン
哀れなアロンソ・キハーダ/引き裂かれたカーテン/悲劇的なものの引き裂かれたカーテン/妖精/一つの冗談の暗い奥底にまで下りる/シュティフターによる官僚制/侵犯された城と村の世界/官僚体制化された世界の実存的意味/カーテンの蔭に隠された、人生の様々な年齢/明け方の自由 暮れ方の自由
第七部 小説、記憶、忘却
アメリー/消してしまう忘却、消えてしまう記憶/忘却を知らない世界のユートピアとしての小説/構成/忘れがたい忘却/忘れられたヨーロッパ/諸世紀と諸大陸を横断する旅としての小説/記憶の劇場/継続性の意識/永遠
以下、気になった部分の引用とか
16-17
(第一部、哀れなアロンソ・キハーダ)散文。この語はただ韻文化されていない言語を意味するのではない。それはまた生の具体的、日常的、身体的な性格をも意味する。したがって、小説が散文の芸術だというのは自明の理ではないのであり、この語はこの芸術の深い意味を定義しているのだ。
なんとなく俳句(俳諧)を思い出したり。
この散文の定義によると、俳諧は散文的といえるのかも。
ドン・キホーテは打破される、しかもどんな偉大さもなしに。なぜなら――ここで一挙にすべてが明らかになる――あるがままの人生は敗北だからである。ひとが人生と呼ぶこの避けがたい敗北に直面して、私たちに残される唯一のこととは、人生を理解しようと務めることなのだ。そこにこそ小説という存在理由がある。
「存在理由」は傍点つき。
18
(第一部、「ストーリー」の圧政)フィールディングが小説の形式にたいする全面的な自由を明言したとき、彼が考えているのはまず、イギリス人によって「ストーリー」と呼ばれる、行為、身振り、言葉などのあの因果的な繋がりに小説が還元され、そしてこの「ストーリー」が小説の意味と本質になりすますことに対する拒否である。彼はそのような「ストーリー」の絶対的権力に反対し、とりわけ「好きなところで、好きなときに」、自分自身の注釈や考察、すなわち逸脱によって、小説の叙述を中断する権利を要求する。
これは個人的にすごく気になっていることだったり。
ストーリーの圧政に対する漠然とした不満をどうしたらいいかみたいなことを考え中。
19
ところで、諸々の壮大で劇的な行動というものは、ほんとうに「人間の本性」を理解するための最良の鍵なのだろうか? むしろそれは、あるがままの人生を覆い隠す障壁として立ちはだかるのではないか?
これも。
21
フィールディングを読んだとき、彼の読者たちは聴衆になり、語ることによって固唾をのませてくれる輝かしい人間に魅惑された。この八十年後、バルザックは読者たちを観衆に変えた。観衆はスクリーン(その後ができるまえの映画スクリーン)を眺め、小説家の魔術がこのスクリーンのうえで、目を離すことのできない場面を見せてくれた。
小説の読者は聴衆か、観衆かということ。
確かに最近の小説の主流は観衆になっている気はしたり。
聴衆と考えられているなら、小説内の評論や注釈も全然珍しくないはずだし。
次は芸術と歴史について。
小説と歴史といってもいいかも。
歴史と小説(歴史小説含む)好きなので個人的にいつも気になるテーマ。
もう一つの『人間喜劇』を書けば滑稽になる。なぜなら、〈歴史〉(人類の歴史)には同じことを繰り返すという悪趣味があるとしても、芸術の歴史のほうは繰り返しを許容しないからだ。芸術はさながら大きな鏡のように〈歴史〉のあらゆる波瀾、変遷、かぎりない繰り返しを記録するためにあるのではない。芸術は〈歴史〉の行進の伴奏をする吹奏楽団などではない。芸術はみずからの歴史を創るためにあるのだ。
以上が第一部より。
次は第二部から。
海外文学好き、翻訳文学好きにとって、良い言葉。
地理的な距離を置いてこそ、観察者はローカルなコンテクストから遠ざかり、そのことではじめて世界文学という大きなコンテクストを見渡し、ある小説の美的価値、すなわちその小説が解明しえた実存のそれまで未知だった側面、見いだしえた形式の革新性を現出させることができるのである。
第三部。
人物があなたがたや私と同じように、現実のものであると信じさせるのは無益なのだ
クンデラは他でもいってるけど。
(この新しい美的風土においては、小説家はときどき好んで、自分が物語っていることは何もかも現実ではなく、すべてが小説家の作り話なのだと想起させさえする――
……
)
小説と歴史の関係。
84
というのも、〈歴史〉それ自体はその様々な運行、革命や反革命、国民的な屈辱をふくめて、描き、暴き、解釈すべき対象として小説家の関心を惹かないからだ。小説家は歴史家たちの下僕ではない。小説家が〈歴史〉に魅惑されることがあるとすれば、それは〈歴史〉が投光器のようなものとなって、人間の実存のまわりを回り、人間の実存に、平穏な時代にあって〈歴史〉が不動であるときには現実化せず、眼に見えずに未知のままにとどまっている、人間の実存の予期せぬ可能性に光を投げかけるからなのだ。
まとめ
とりあえず、メモ前半まで。
疲れたから、続きはあとで。
→後半
おわり。