メモ。
「帽子の中の言葉」?
ダダイズムのツァラが提唱した詩の作り方のこと。
▼カットアップ
(Wikipedia)……
カットアップ技法の先例は1920年代のダダイスムの集まりで生まれた。そこでトリスタン・ツァラは新聞記事から切り出した言葉を袋の中に入れ、ランダムに取り出した言葉を使って詩を作ることを実践したツァラは、その手法について「帽子の中の言葉」という記事を書いている。
……
これについてまず思うこと。
今ならこれ、こんな手間な作業をしなくてもできるなあということだったり。
ランダムに言葉を取り出して並べる――というのは、とても簡単。
とりあえず、このワードプレステーマにも機能つけてあるし。
(複数の辞書を作成、ランダムに取り出した言葉を並べる)
サハラ砂漠 の高貴な 小説家
修道院の ハムのチーズソテー
紺碧 色の田舎の食堂 は不健康である
こんな感じ。
せっかく楽に作れるようになったんだし、もう少し個人的に考えてみたいなとか。
そしてこういうの好きだし。
断章形式、断片形式の小説?
それと似た感じで、断章(断片)形式の小説とか。
断章(断片、フラグメント)が、上の例での言葉にあたる感じ?
小説はストーリーや主人公や視点その他といったものに今ほど縛られなければならない必要性は本当にあるのか、という疑問。
個人的に、必然ではないと思っているけれど。
読みやすいってだけで(読みやすさも必要だけど)。
それを優先することによって棄てられている可能性のほうに興味があったり。
小説の定義は何だろうって考える。
言葉による思考。
人間がストーリーや人物といったものを使った認識を好むというだけで、それしか方法がないわけではない。
断片的であることは、未完成ではなく、むしろ認識としてストイックあるいは誠実なのではないかということ。
もしくは、受け入れられやすい言い方をすれば、科学的?
科学はストーリーで世界を認識したりしない、そういう意味で。
太宰の「葉」
この作品は、断片的な小説だったり。
かなり好き。
断章形式には、非断章形式にある息苦しさが感じられないのはなぜなんだろう。
ストーリーは、因果律に捕らわれている。
性格(キャラクター)は、本質(実体)に捕らわれている。
因果律は虚妄だということ、本質(実体)も虚妄だということ。
ニーチェを引用してみる。
因果の否定について。
因果性を私たちに異常に確信せしめるのは、事象が次々とあとを追って継起するという大きな習慣ではなく、生起を意図から生起するものとして以外には解釈することのできない私たちの無能力である。
それは、唯一の結果をひきおこすものとしての生命ある思考するものを──意志を、意図を信ずることであり──、それはすべての生起は一つの働きであって、すべての働きは働くものを前提するとの信仰である、「主体」によせる信仰である。このように主語・述語概念を信ずるというのは大きな愚昧と言うべきではなかろうか?ニーチェ「権力への意志」
実体の否定。
実体という概念は主観という概念の一つの結果であって、その逆ではない! 私たちが霊魂を、「主観」を放棄すれば、「実体」一般にとっての前提はなくなる。存在するものの度合いはあたえられはするが、存在するものそのものは消失する。
ニーチェ「権力への意志」
太宰が「葉」をどういうつもりで書いたかはここでは気にしない。
あるいは、作品は開かれたものだということで、考慮しない。
「葉」には、これらの虚妄を排除した、風通しのよさ、爽やかさがあるといえるのではないか。
あるいは、断片形式の作品全般の(出来栄えは形式の選択とは別なので、それだけで作品の質は判断できないにしろ)形式的な美点。
また断片形式は、思想、考察、評論、エッセー的なものを小説に取り込むのにも適しているのではないか。
ついでに、小説と事実の関係
事実は小説より奇なり、という言葉は、少なくともそれ自体賢明な名言だとは思わなかったり。
ある小説が事実より奇でなくみえるとしたら、その個別の小説作品に問題があるのであって、あくまで小説自体が事実より奇でないということはない。
奇かどうかは認識が判断するわけで、事実は認識あるいは解釈によって作られる。
現象に立ちどまって、「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう。否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらくそのようなことを欲するのは背理であろう。
ニーチェ「権力への意志」
まとめ
とりあえず、メモとか。