とりあえず小説書くことの現状とか。
ブログ書けばもう少し頭整理できるかもってことを期待。
現状?
とりあえず現状はこんな感じ。
易的な死の原稿書いててさらに文字数増えそうな予感
→これは長くならない予定で、他の書きかけのを中断してこれを書きはじめたから何やってるんだろう気分
→蜀のことを書きたいし、とりあえず何でもいいから完結させないと不安
→蜀の短編を思いついた
→蜀の短編が最初の予定より長くなってどうしようかと悩む&だったら易的な死の更新を優先するか悩む
→どっちも中途半端
だいたい整理するとこんな。
でもって、連載中の易的な死の方が更新滞ってるのは、別に書けないというわけではなくて、単に新しい短編のほうを優先しようと考えていて今も結局そっちが気になってるので(見通しが完全にたっていないほうが考えたくなる心理)、結局は短編優先するしかないのかなあというところ。
原因?
自分の能力を見極めることは重要だと思う。
アイデア出すこと、本文を書くこと……この辺でつまることはそんなになかったり(クオリティ他はあくまで当社比)。
自分がつまる部分は、切り貼りすること、穴埋めすること……この辺をやらなければならない時に、壁にぶつかるかんじ。
つまりその辺の能力が低いってことで、それに見合ったプロットにすることがまず必要なんじゃないかなとか。
一番最初に書いて仕上げた小説は、少なくともそういう自分の特性への理解は一番深かったかもしれない。
あちこちに話が飛ぶこと自体はそんなに悪いと思わない。
少なくとも自分にはそっちのほうが落ち着く。
だから、それにみあった書き方をするべきなんじゃないかなとか。
書きかけ短編の話
てことで書きかけ短編についてブログ書きながら考えたら何かみえてくるかもってことで考えてみる。
内容については特に問題ない感じ。
ただともかく書き方と、あとは構成とか。
クンデラ的?
今回の書き方的なテーマは、語り、だったり。
でもって語り手=作者(私じゃないけど)というタイプの語りで、さらにかなり語り手の権限高めな感じ。
イメージ(理想?)としてはこんな方向性。
私はもう何年もまえからトマーシュのことを考えている。だが、彼の姿が初めて私にはっきりと見えたのは、以上のような考察をきっかけにしてだった。自分の家の窓辺に立ち、中庭の向こう側の、正面の建物の壁にじっと目を凝らしている彼の姿を私は見たのだが、しかし彼は自分がなにをすべきかわからなかった。
(クンデラ「存在の耐えられない軽さ」)
「私」は作者な語り手。
「トマーシュ」は作中人物。
クンデラの語りは他にもこんなかんじだったり。
彼女の仕草がそのとき私のなかに途方もなく大きな、わけの分らないノスタルジアを呼びさまし、そしてそこから、アニェスという名を私がつけた作中人物が分娩されたのである。
(クンデラ「不滅」)
このことについてクンデラは、「存在の耐えられない軽さ」で直接こう書いていたり。
作者としては、自作の登場人物たちが現実に存在したと読者に信じさせようとするなど愚かなことだろう。彼らはひとつの母体から生まれたのではなく、喚起力のあるいくつかの言葉、あるいは鍵となるひとつの状況から生まれたのだ。
(クンデラ「存在の耐えられない軽さ」)
あるいはこんな。
……私たちには次のものが必要であることがわかる。
(1)徹底的切り捨ての新しい技法(これによって、近代世界における人間存在の複合性を、構成の明晰さを失うことなく包含することができる)。
(2)小説的対位法の新しい技法(哲学や物語や夢をひとつの音楽に融合することのできる)。
(3)小説特有のエッセーの技法(いいかえれば、必然的なメッセージをもたらそうとするものではなく、仮説的で、遊びの、ないしイロニーにとどまっているもの)。(クンデラ「小説の精神」)
てことで。
理想を高く設定すること自体は、志の高さってことでいいことだと思う。
作者な語り手?
ただ、作者な語り手は結構難しい。
まず、クンデラやあるいはボルヘスといった人と、一般人とでは、同じことをやっていても、効果は同じではないんじゃないかということ。
クンデラは、本人がどう思っているかはともかく、東側諸国から西側世界へ亡命してきた知識人(大学教授)という、それ自体魅力ある属性の持ち主なことは確か。
でも、自分がやると、ただの一般人だしっていう……。
てことで、この観点から改めて現状をみなおすとこんな。
作者な語り手が語る形式の小説を書きたい
→語り手の属性が心もとない
→作者な語り手自身の設定も作ろう
→入れ子が増えた
→入れ子が増える構造自体はいいけれど(好み)自分の処理能力がおいつくか疑問
改善策?
じゃあどう対処していけばいいのか。
作者の物語を消す(あるいは分割する)というのは、楽にはなるけれど野心を諦めることだと思うので、とりあえず志の低いやり方だとは思ったり。
別に仕事でも頼まれて書いているわけでもないんだし、完成させなければならない義務は自分の外にはどこにもないわけだから、完成を優先して志を顧みないのは、上達という意味でもあんまり良い選択肢じゃない気はしたり。
てことでそれは却下。
入れ子が増えたことによる増量への不安。
もともと、短編が書きたかったわけで。
それもできれば5000文字くらいの短い作品。
短いのの書き方を模索しているのは、短いほうがこのこんがらがった糸をなんとかするようなことをしなくてすむんじゃないかなと考えたから。
現状、5000は超えてるし。
このままいけば1万は超える。
ただ、短編という単語のほうにこだわるなら(最初の5000文字くらいの、という数字ではなく)、2万文字くらいまでなら短編の範疇だし、まあその辺までなら妥協するかなあとも。
長くなるほど、整理が難しくなるけど。
整理しなくていいゆるい書き方を模索するのが一番いいのかも。
短編と長編?
短編と長編の違いについて。
短編は長編の一部分ではないということは、当たり前だけどまず第一。
ただ、そこから導き出されること。
短編だから長編よりも扱う登場人物、エピソードその他は少なくするべきである――は正解とはいえない。
これについては、わりと混乱しがちかも。
短編のいいところは、全体像が把握しやすいところ。
なので、短編の場合、登場人物やエピソードを削り過ぎると、長編の一部分を切り出しただけような物足りなさが出てくるかもしれない。
だから、少なくとも短編なのに詰め込みすぎなのではないか、という疑問は意味が無い。
短編だからという理由で書き方が雑になったら(文字数節約で)だめってだけで。
語りと長さ?
ただし、作者である語り手が作品を語り続ける形式は、ある意味作者の長い独り言、あるいは独演会的なものにはなるので、息切れするという問題も出てきたり。
ミメーシスは、たとえば自分が喋るかわりにビデオとかを見せるようなもので、息切れ対策には良い方法かも。
てことでまとめ
てことで、今日の作業の方針の目安は、これを書く前よりははっきり固まってきたような。
で、具体的にはどうするか。
切り貼りは、語りのつぎはぎになって何をしても無駄だと思う。
なので、今まで書いたものを下書きとして利用することにして、最初から書き始めるのがいいんじゃないかなとか。
手間かかるなーとは思うけれど、不毛な切り貼りよりはましだと思う。
おわり。