2016.07.17
2284文字 / 読了時間:2.9分程度
三国志

鍾会が鍾会の乱を起こさなかった場合どうなるか。

気になるのでまた考えてみたり。

前も書いた気がするけど、また書きたいからさがさないでまた書く。

鍾会と司馬昭の死の予測?

鍾会は264年1月に反乱を企てて殺されている。
で、司馬昭が病死したのは、翌年265年10月のことだったり。

晋書、文帝紀

二年(265)春二月甲辰,朐縣獻靈龜,歸於相府。
夏四月,孫皓使紀陟來聘,且獻方物。
五月,天子命帝冕十有二旒,建天子旌旗,出警入蹕,乘金根車,駕六馬,備五時副車,置旄頭雲罕,樂舞八佾,設鐘虡宮懸,位在燕王上。進王妃為王后,世子為太子,王女王孫爵命之號皆如帝者之儀。諸禁網煩苛及法式不便於時者,帝皆奏除之。晉國置御史大夫、侍中、常侍、尚書、中領軍、衛將軍官。

  秋八月辛卯,帝崩於露寢,時年五十五。
九月癸酉,葬崇陽陵,諡曰文王。武帝受禪,追尊號曰文皇帝,廟稱太祖。

てことで時々思うのはやっぱり、鍾会、反乱を起こさないで1年ちょっと待てば司馬昭は勝手に自然死するわけだから、反乱起こさなくても少なくとも司馬昭は討てるのになあ……という、後付な残念さだったり。

鍾会の乱の名目は司馬昭を廃するようにという太后の遺詔(鍾会自作)。

(鍾会伝)

会以五年正月十五日至,其明日,悉請護軍、郡守、牙門騎督以上及蜀之故官,為太后發喪於蜀朝堂。
矯太后遺詔,使会起兵廢文王,皆班示坐上人,使下議訖,書版署置,更使所親信代領諸軍。
所請群官,悉閉著益州諸曹屋中,城門宮門皆閉,嚴兵圍守。

鍾会は〔景元〕五年(264)正月十五日に〔成都に〕到着したが、その翌日、護軍・郡守・牙門騎督以上の身分の者と蜀の元官吏たちを全員招き、蜀の政堂において太后(明元郭皇后、四年十二月に崩御)の喪を発表すると同時に、太后の遺詔を偽作して、鍾会に兵をあげて文王(司馬昭)を廃せよとお命じになったといい、座中の人すべての宣示し、会議にかけ、それが終わると、部署を定めて板に書いて示し、あらためて親愛し信頼している者に諸軍の指揮を交替させた。

鍾会は司馬昭の自然死を予知していなかった

というわけで、鍾会は司馬昭の死を予測していなかったから、この時点で鍾会の乱を起こしたんだろうなとか。

鍾会は、司馬昭の自然死を待てば、挙兵しなくても楽に権力を握ることができたんじゃないかと思うと、未来がわからないということの重みを考えさせてくれる事例なのかも。

てことで、鍾会の予知能力の低さが、鍾会の最大の敗因だったかもしれないみたいな。

司馬昭による司馬昭の自然死の予測?

司馬昭は自身の死をどの時点で予感していたのか。

とりあえず、これについては、現代でも人それぞれだからなんともいいようがないともいえるけれど。

司馬昭は55歳で死んでるので、自然死に今回は可能性を限定するにしても、老衰はないのでまあ病死だと思うけど。

病死といっても闘病の末の病死のケース、急病でほぼ急死のケースと様々だし。

263年時点(死の2年前)で司馬昭がどうだったかはなんともいえないかも。

ただ、本人が予測していたとしたら、生きているうちにやっておくべきことは一応ほとんど済ませてから死んでる気がするので、まあその可能性もなくはないかも。

鍾会の始末が、生前に済ませておくべきことに含まれているかは、どうなのかなあ……。

反乱を起こさないで司馬昭死後まで生きた鍾会?

とはいえ、鍾会が反乱を起こさないで司馬昭死後まで生きていたら将来的に鍾会は司馬炎にとってあんまりありがたくない(よく考えても扱いが難しい程度?)存在になると思うし、司馬昭がそう考えなかったとも限らないような。

少なくとも鍾会は司馬炎の晋にはじめはおとなしく仕えていたとしても(魏で39歳のときに司徒になっていたから、鍾会にみあうこれ以上の官位って何が残っているかなとか)、司馬炎を気に入らなくなったら、司馬懿、司馬師、司馬昭のように権臣には皇帝をすげ替える権利があるのは当然くらいは思っているだろうし。

司馬炎と鍾会?

司馬炎(236年生まれ)の年齢はある意味、鍾会(225年生まれ)と相性が悪いと思ったり。

傀儡になるほど若いわけでもなく、といって司馬昭死後に鍾会を抑えられるかというと微妙なような。

司馬昭は、鍾会を抑えられる自信や余裕があったからこそ鍾会を重用することもできたかもしれないけれど、司馬炎にはそれは当てはまらないだろうし。

で、鍾会は単に結果論的に失敗しただけで、現実の晋の建国の功臣たちより頭が悪かったわけではないし。

とりあえず鍾会が生きているあいだ、ほぼ司馬昭は鍾会の思い通りに動いていたようにみえるし。

晋の鍾会?

晋の鍾会について考えてみたい。

司馬昭死後まで鍾会が生き延びたとしたら、鍾会はどう振る舞うだろうかとか。

とりあえず司馬炎を担いで、父親鍾繇と同じように建国の功臣路線かなあ。

ただし鍾会は父親よりも仕切りたがりにみえるところで、その路線がいつまで続く成立するか微妙。

とりあえず、気軽に皇帝をすげ替えたり簒奪したりする時代を先取りする鍾会――今のところ、鍾会が鍾会の乱を起こさない場合にありそうな未来はこんな感じかも。

ただ、この方が歴史的重要度は高まるから(今は書道史でかろうじてくらいだし)、それはそれで鍾会的には成功かもしれない。

ていうか、鍾会の乱があんな形の失敗をしているところから、どのみちどこかで殺されそう。

まとめ

鍾会について考えたかったので、考えてみたり。

あとそういえば、これは蜀を滅ぼした後の設定だから、姜維とかどうなるだろう。

とりあえず劉禅と一緒に洛陽に来ればいいんじゃないかな。

おわり。





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