とりあえず、事典の項目に鍾会も追加してみたり。
今まで作った年表をこっちに移動しただけだけどもう少し中身増やしたいなと思ったので、鍾会評をとりあえずぼちぼち追加してみたり。
今回の記事は傅嘏と鍾会についてのメモとか。
傅嘏の鍾会評?
で、傅嘏の有名な鍾会評。
(傅嘏伝)
會由是有自矜色,嘏戒之曰:「子志大其量,而勳業難為也,可不慎哉!」
鍾会はこのことから功績をほこる様子を見せた。傅嘏は彼に忠告した、「子は野心がその器量より大きくて、功業をなしがたい。慎み深くしなければいかぬぞ。」
これは255年の、毌丘倹の乱の鎮圧後のこと。
傅嘏と鍾会
毌丘倹の乱についての傅嘏伝の経緯。
(傅嘏伝)
正元二年春,毌丘儉、文欽作亂。或以司馬景王不宜自行,可遣太尉孚往,惟嘏及王肅勸之。景王遂行。
正元二年(255)の春、毌丘倹と文欽が反乱を起こした。司馬景王(司馬師)自身が行く必要はない、大尉の司馬孚を行かせればよいというものもあったが、傅嘏と王粛だけは行くように進言した。景王はかくて出かけた。
以嘏守尚書僕射,俱東。儉、欽破敗,嘏有謀焉。
及景王薨,嘏與司馬文王徑還洛陽,文王遂以輔政。語在鍾會傳。
傅嘏に尚書僕射を代行させ、いっしょに東に向かった。
毌丘倹と文欽をうち破ったことについては、傅嘏の策謀が貢献した。
景王が死去すると、傅嘏は司馬文王(司馬昭)とともにただちに洛陽に帰還した。文王はかくて政治を補佐した。そのことは「鍾会伝」に記載されている。
鍾会伝にあると陳寿が書いてあるし、とりあえず比較として鍾会伝を見てみる。
(鍾会伝)
毌丘儉作亂,大将軍司馬景王東征,会從,典知密事,衛将軍司馬文王為大軍後繼。
景王薨於許昌,文王總統六軍,会謀謨帷幄。
時中詔敕尚書傅嘏,以東南新定,權留衛将軍屯許昌為内外之援,令嘏率諸軍還。
会與嘏謀,使嘏表上,輒與衛将軍俱發,還到雒水南屯住。於是朝廷拜文王為大将軍、輔政,会遷黄門侍郎,封東武亭侯,邑三百戶。毌丘倹が反乱を起し、大将軍の司馬景王が東征すると、鍾会は従軍し、密謀を担当し、衛将軍の司馬文王(司馬昭)が大軍の後続部隊を指揮した。
景王が許昌で逝去すると、文王が全軍の総帥となり、鍾会は本営で作戦にあずかった。
このとき宮中より詔勅が下り、尚書の傅嘏に命じ、東南地域は新たに平定されたところなので、暫時、衛将軍(文王)を許昌に駐留させて内外への救援態勢を示させ、傅嘏には諸軍をひきいて帰還せよとのことであった。
鍾会は傅嘏と相談し、傅嘏に上奏文を奉らせる一方、直ちに衛将軍とともに出発して雒水の南まで帰ってきてそこに駐屯することにした。かくて朝廷では文王を大将軍に任命して政治を輔佐させた。
鍾会は黄門侍郎に昇進し、東武亭侯に封じられ、三百戸の領地を賜った。
傅嘏伝では、傅嘏について「毌丘倹と文欽をうち破ったことについては、傅嘏の策謀が貢献した(儉、欽破敗,嘏有謀焉)」とある。
この表現は、鍾会伝の、諸葛誕の乱の後の表現「壽春之破,会謀居多」になんとなく似ているような。
(鍾会伝)
壽春之破,会謀居多,親待日隆,時人謂之子房。
寿春を破ったについては、鍾会の画策の功が大きかったので、〔文王の〕親愛の念と待遇は日に日に高まった。当時の人は彼を子房(張良)だといった。
時系列でこれは諸葛誕の乱の後のこと。
ただし、毌丘倹の乱も寿春のことなので、毌丘倹の乱のことも(255年と258年)含まれているかもしれない。
傅嘏伝では、毌丘倹の乱について鍾会の功績自体には触れていない(ただし鍾会伝に書いたとある)けれども、傅嘏伝と鍾会伝をあわせると(陳寿が「語在鍾會傳」と書いてあるので陳寿的に整合性はとれているとみなしているはず)傅嘏と同様、鍾会も毌丘倹の乱の作戦に深く関わっていたのではないかなとか。
毌丘倹の乱鎮圧までは、鍾会と傅嘏は協力関係にあると考えて良さそう。
ただし、傅嘏のこの鍾会への言葉「子志大其量,而勳業難為也,可不慎哉!(子は野心がその器量より大きくて、功業をなしがたい。慎み深くしなければいかぬぞ。)」以降も、同じような関係が続いたかは、考えてみる必要はありそうな。
このあと、傅嘏は死ぬ。
傅嘏伝の流れはこんな。
會由是有自矜色,嘏戒之曰:「子志大其量,而勳業難為也,可不慎哉!」
嘏以功進封陽鄉侯,增邑六百戶,並前千二百戶。
是歲薨,時年四十七,追贈太常,諡曰元侯。
傅嘏が死んだとき、鍾会はどんな感想をもったのかなとか。
- 友人兼盟友の死(悲しむべきこと)
- 元友人兼盟友の死(どうでもいい)
- 自分を裏切った元友人兼盟友の死(良い知らせ)
- 自分が暗殺した(達成感他)
傅嘏の死に関する仮説(あるいは創作メモ)
傅嘏の死については、多少唐突な感じはあったり。
年齢的には死んでもおかしくはないし、毌丘倹の乱で疲れたのかもしれないし。病気が流行ったりしてたのかもしれないし。
ただし、個人的趣味で、自然死という確証がない限りは事件性を疑ってみたいという方向性――はあったり。
だから鍾会が暗殺してたりしても創作的にはいいかもしれないんじゃないかなとか。
毌丘倹の乱のあと、傅嘏と鍾会が見解の相違、傅嘏伝の傅嘏による鍾会評(この場合傅嘏のいった「志」はイコール「野心」ではなかったかもしれない)→鍾会と傅嘏の関係悪化→傅嘏死亡
この流れではあったんじゃないかと思う。
そう考えると、流れの辻褄としては最後の「傅嘏死亡」は、「傅嘏死亡(鍾会が殺した)」とかでも不自然ではなかったり。
てことで、鍾会が傅嘏殺しててもいいんじゃないかなーとか思いついたり(創作的に)。
ただ、不自然ではないというだけで殺人を疑うのはやっぱり難しいところは確か。
全部実は殺人事件だった!! ――というのもそれはそれで単調すぎる世界観だと思うし。
ただ、鍾会伝には、裴松之が注で、鍾会が書いた鍾会母伝を収録してあったり。
で、そこには毒殺未遂の逸話がとりあげられていたり。
なので、鍾会は毒殺(未遂)とは微妙に繋がりがないわけでもないのも確か。
父親の鍾繇も、一応毒で自殺未遂しているし(注で)。
また、嵆康が刑死したのは、鍾会の讒言によるのもほぼ確か。
鍾会が自分より名声がある人物を目障りに思って消そうとする傾向を持っている――という鍾会解釈が成り立つなら、その鍾会は傅嘏を殺してもおかしくはない。
といっても、鍾会が傅嘏を殺した説を押したいわけでもないから悩む……。
あと、贔屓の引き倒しみたいになるのは不本意ということで、なんでも鍾会のせいというのは、全部鍾会のおかげと同じくらい、いびつなんじゃないかなとか。
鍾会贔屓のひきたおしの結果、鍾会関係者は全員鍾会に暗殺されたことになる――とか、そこまでサイコパス解釈がしたいわけでもない(趣味の問題)し……。
やっぱり見境なく殺すのは趣味が良くないと思う。
鍾会は趣味は悪くないと思うし……。
世界線が違えばいいってことでいいかなあ……。
まあいいや。
鍾会の野心あるいは志?
傅嘏が指摘した鍾会の志あるいは野心(「子志大其量,而勳業難為也,可不慎哉!(子は野心がその器量より大きくて、功業をなしがたい。慎み深くしなければいかぬぞ。)」)について。
原文は「志」、訳は「野心」。
この訳について特に異議があるというわけでもないけれど。
ただ「野心」という訳は、その後の鍾会の乱の評価を含めた野心家という解釈を取り入れた訳だと思うので。
ここでは傅嘏の言葉なので、傅嘏に予知能力がないと考える(仮定する)なら、もしかすると「野心」と取るのは後世の先入観なのかもしれない。
傅嘏と鍾会が共有していた志は何か、仮説
結果的に電波だったとしても死ぬわけでもないわけだし、仮説はできるかぎり制限を低くしたい――というのが個人的な方針ではあったり。
で、毌丘倹の乱のときまでは傅嘏と鍾会は志を共有していた――という前提で。
この「志」は計画みたいに考えればいいんじゃないかと思うけれど。
事実としてあるのはこの辺。
- 毌丘倹、文欽の乱が失敗すること
- 司馬師が出馬すること
- 司馬師が死ぬこと
- 司馬昭がその後を継ぐこと
傅嘏や当時の鍾会が司馬氏に近い存在だったということで、この中で少なくとも「司馬師が死ぬこと」は傅嘏、鍾会いずれにとっても特に望ましいことではなかったと、基本的には考えられていると思うけれど。
ただ、なぜ傅嘏が(多分鍾会も同じ意見だったと思う)司馬師が出ることに拘ったのか(王粛もだけど、王粛は司馬昭妻王元姫の父)。
司馬昭と司馬師の関係自体は、悪くないように思えるけれど。
ただし、毌丘倹と文欽は、司馬師は悪逆だから廃して弟の司馬昭を代わりにするべき、と上奏していたり。
(毌丘倹伝注)
按師之罪、宜加大辟、以彰奸慝。春秋之義、一世為善、一世宥之。懿有大功、海内所書、依古典議、廃師以侯就弟。弟昭、忠粛寬明、楽善好士、有高世君子之度、忠誠為国、不与師同。
司馬師の罪を考えますと、大罪を加えて、邪悪を明白に示すのが当然と存じます。『春秋』のたてまえでは、一代において善をおこなえば、十代にわたって罪をゆるされます。
司馬懿には大功があり、海内の書に記されております。古典の判断に依拠し、司馬師をやめさせて、列侯として邸に帰しますように。
弟の司馬昭は、誠実でつつしみ深く、寛大で明るく、善を楽しみ士人を愛し、世俗を超越した君子の風格があり、国家のために忠誠を捧げておりまして、司馬師とは異なります。
臣どもは打ち首を覚悟に保証いたします。司馬師の代りとして玉体を輔導いたさせますように。
この考え方自体は、毌丘倹たち以外(つまり、傅嘏、王粛、鍾会等)にもある程度共有されていた可能性?
ただこれも、鍾会中心主義すぎるかなあというところはあったり……。
で、鍾会と傅嘏が決裂したとするならば、鍾会の志がどうのというのは、鍾会の方が傅嘏より過激だった(ここでは野心というぼんやりとした意味ではなく)という意味の可能性はないのかなとか。
ていうか、傅嘏の方が過激だった可能性もあるか。
傅嘏はこの直後死んでるから、傅嘏の乱が起きる可能性があまり考えられなかっただけかもしれないし。
魏末期の個人的イメージ
傅嘏は司馬氏側の人間と親しいけれど。
それをいうなら夏侯玄や諸葛誕は身内でもあったわけで、交友関係や親戚関係がそのまま敵味方をわけると考えるのは、あまり意味がないのではないかということ。
鍾会もまた、もと司馬氏の腹心だったわけで。
だから、個人単位で考えるのが、この魏末期を考えるときには最終的には重要になってくるんじゃないかなとか。
司馬氏派、反司馬氏派……は結果的に(対立後)そうなっただけで、その境界線はかなり曖昧で個人的な関係にまで引き下げられるものなのではないかということ。
てことで、魏末期の派閥的な境界線は、かなり見えにくく(当人にも)また流動的なものだったんじゃないかなとか。
あと、曹氏と司馬氏の違いとしては、司馬氏は建国まで彼らの支持者にとって主という感覚は曹魏の建国の時に比べると、かなり薄かったんじゃないかな。
自分たちの価値観あるいは利益の代表者みたいな?
まあ、今回は傅嘏と鍾会の話なので、これについてはこの辺で。
鍾会の友情論
鍾会が書いた友情論について。
とりあえず引用から。
しかしながら、例えば彼のいくつか残る逸文のひとつ、「芻蕘論」のそのまた一部分に、次のような発言を認めることができるが、これをどう考えればよいか。
凡人之結交、誠宜盛不忘衰、達不棄窮、不疑惑於讒構、不信受於流言、経長歴遠、久而逾固。而人多初隆而後薄、始密而終疏、斯何故也。(『太平御覧』巻四百六)
凡そ人の交はりを結ぶは、誠に宜しく盛んなれども衰を忘れず、達すれども窮を棄てざるべし。讒構にも疑惑せず、流言をも信受せざれ。長きを経て遠きを得、久しくしていよいよ固し。而るに人の多くは初め隆んにして後には薄く、始め密にして終には疏なり。これ何の故ぞや。
引用部分に続く以下の文中にも、本来の「結交」は苦境に立たされたときにこそ深まるべきもの、財や勢や色の三者によってしか成り立たない現実の交友の空しさを激しく告発している。この交友をめぐる発言内容自体は、とり立てて珍しいというわけでもないが、鍾会にあっては案外痛みをともなった赤裸々な発言であったかもしれない。確かに、その生涯をみるときこういう発言をどこまで信用してよいか、という思いがここでもわきおこるのは致し方ないとして、しかし最晩年の悲劇の因をみてきた今は、こういう発言の中に鍾会の肉声を聴きとってもよいのではないか。……
(大上正美「鍾会論」より)
この「鍾会論」も良いけれど、今回はそっちは触れない。
太平御覧(あと何かと便利な全三国文)に残っている鍾会の文章の一部で、ここでは要約されている文章は全三国文によるとこんなかんじ。
皆由交情不發于神氣,道數乖而不同,權以一時之術,取倉卒之利。有貪其財而交,有慕其勢而交,有愛其色而交。三者既衰,疏薄由生。
(全三国文)
鍾会と個人的に親しかったとされているのは、王弼、傅嘏くらい?
王弼は鍾会が25歳のときに死んでいるし(249年)、もし鍾会が誰かを念頭にこれを書いていたとしたら(特にモデルはいない可能性も充分あるけど、一応)、傅嘏の可能性は結構あるんじゃないかなとか。
傅嘏が鍾会に語った「子志大其量,而勳業難為也,可不慎哉!(子は野心がその器量より大きくて、功業をなしがたい。慎み深くしなければいかぬぞ)」への反応として、これが書かれた可能性。
もしそうだとすると、鍾会は傅嘏に対して失望はしていたんじゃないかなとか。
まとめ
鍾会理解にとって傅嘏の解釈は必要――だとは思ったり。
もう少し考えたいところ。
それにしても、結局三国志について考えたり調べたりするのは、自分の中で出来る限り辻褄の合った(これは重要)三国志像(世界や人物)のモデルをつくり上げることが目的ではあったり。
そして仮説用のモデルも、実験的に必要。
その人物が何を見ていたか、考えていたか――を考慮しないで人間の行動(の結果)を考えるのは、機械を知るのに外観にしか注目しないのと同じでアプローチとして微妙だと思う。
とりあえず長くなったのでこの辺でおわり。