クンデラさんの考察系は、最近一番好きだったり。
もしひとが、あったときにあったがままの現実はもう存在しないのであり、その復元は不可能であるという、あらゆる自明性のうちでも第一の自明性をあくまでごまかそうとするなら、人間の生について何も理解しないことになるだろう。《無知》
— ミラン・クンデラ (@M_Kundera_bot) 2016年6月25日
これ、最近気になったところ。
実存と小説?
てことで改めてこれ。
もしひとが、あったときにあったがままの現実はもう存在しないのであり、その復元は不可能であるという、あらゆる自明性のうちでも第一の自明性をあくまでごまかそうとするなら、人間の生について何も理解しないことになるだろう。
「あったときにあったがままの現実」というのは、実存(現実存在)と同じと考えていいんじゃないかと思う(原文は持ってないからここでは確認しない)。
クンデラはこの「あったときにあったがままの現実」(実存)について、それは「もう存在しないのであり、その復元は不可能であるという、あらゆる自明性のうちでも第一の自明性」と語る。
ではクンデラは、この「あったときにあったがままの現実」(実存)はもう存在せず、復元も不可能だから、それを省みようとすることは馬鹿げていると考えているのか?
けれども、クンデラはしばしば小説論で実存という言葉を使っているので、そう受け取ることには違和感があったり。
小説と実存の関係
小説とは、想像上の人物を通して眺められた実存についての考察なのです。
(小説の精神)
たとえばこんな感じ。
てことで最初に引用した言葉と融合してみると……。
――小説とは、想像上の人物を通して眺められた実存(あったときにあったがままの現実はもう存在しないのであり、その復元は不可能)についての考察――、こんなふうにクンデラは考えているとも言えるんじゃないかなとか。
実存を考察するもの定義された小説が考察する実存とは、「あったときにあったがままの現実はもう存在しないのであり、その復元は不可能」なものだったり。
- もう存在しない
- 復元は不可能
そのようなものを考察するものが小説――と言っているってことかな。
さらに、クンデラは小説は実存を次のような手順をとって扱うものだという。
- 想像上の人物を通して眺める
- それについて考察する
実存について、再び存在させることはできないし復元させることも不可能であるけれども、想像上の人物を通して眺めること、それについて考察することはできる。
まとめ
てことで。
小説の定義は、そういうことを行う――実存について、再び存在させることはできないし復元させることも不可能であるけれども、想像上の人物を通して眺めること、それについて考察することはできる――ものだということかな。
この辺のことは別に小説以外にもできるけれど、それはここでは関係ない。
ただ、小説がこれを行わない場合、小説の本質を含まない限りなく小説的見かけをもつ何かにしかならない――とかそんな感じかなーとか、勝手に考えてみたり。
とりあえずおわり。