ボルヘスの「砂の本」?
ボルヘスの小説「砂の本」は、無限のページがある本(書物)という架空の書物についての短編小説の一つ、といっていいと思うけれど。
「私」が手に入れる「砂の本」はこんな本だったり。
「それをよくごらんなさい。もう二度と見られませんよ。」
わたしは何気なくその本を開いた。知らない文字だった。粗末な印字の、古びた頁は、聖書によく見られるように二列に印刷されていた。テクストはぎっしりつまっており、一節ごとに区切られているページの上の隅には、アラビヤ数字がうってあった。偶数ページに(たとえば)四〇五一四という数字があるとすると、次のページは九九九になっているのが、わたしの注意を引いた。ページをめくってみる。裏面には、八桁の数字がならぶ番号がうたれていた。よく辞書に使われるような小さな挿絵があった。子供がかいたような、まずいペンがきの錨だった。
見知らぬ男がこう言ったのはその時だ。
「それをよくごらんなさい。もう二度と見られませんよ。」(ボルヘス「砂の本」より)
そのページは、一度しか見ることができない、っぽい。
この辺も、通常の本と違っていて幻想的だし、本(書物)とは何かとかいろいろ考えたくなってくる流れが好き。
一度限りということ。
「この本のページは、まさしく無限です。どのページも最初ではなく、また、最後でもない」
彼は、最初のページを探してごらんなさいと言った。
左手を本の表紙の上にのせ、親指を目次につけるように差し挟んで、ぱっと開いた。全く無益だった。何度やっても、表紙と指のあいだには、何枚ものページがはさまってしまう。まるで、本からページがどんどん湧き出てくるようだ。
「では、最後のページを見つけて下さい。」
やはりだめだった。
さらに、最初と最後のページ自体にもたどり着くことはできなかったり。
「あるはずがない、しかし
ある のです。この本のページは、まさしく無限です。どのページも最初ではなく、また、最後でもない。なぜこんなでたらめの数字がうたれているのか分らない。多分、無限の連続の終極は、いかなる数でもありうることを、悟らせるためなのでしょう。
最初と最後の概念がないという書物。
最初と最後がない無限。
「無限の本を燃やせば、同じく無限の火となり、地球を煙で窒息させるのではないか」
この不思議な本を、主人公は手に入れる。
最初は好奇心にかられて調べていたが、途中から嫌悪感を覚えるようになる。
夏が過ぎ去る頃、その本は怪物だと気づいた。それを両眼で知覚し、爪ともども十本の指で触知しているこのわたしも、劣らず怪物じみているのだと考えたが、どうにもならなかった。それは悪夢の産物、真実を傷つけ、おとしめる淫らな実体だと感じられた。
わたしは火を考えた。だが、無限の本を燃やせば、同じく無限の火となり、地球を煙で窒息させるのではないかと惧れた。
結局、主人公は別の方法で、この書物と別れることになってこの話は終わる。
まとめ
この作品は、日本語訳で4000文字程度の短い作品だったり。
無限についてだけでなく、書物(小説)の可能性についてもいろいろ個人的に考えさせてくれる作品なので、改めて読みなおしてみたり。
砂の本と完全に同じものは無理でも(そしてそれが欲しいものかはともかく)、砂の本と一部は似た本は、最近の技術では可能っぽいからもう少し可能性を探ってみたらいいんじゃないかと思っていたり。
とりあえずこの記事はここまで。
考えたことは、次の記事で。